先日のブログでは太宰治について取り上げたので、もう一人、太宰と同じく破天荒な人生を送った無頼派の作家、坂口安吾についても触れておこう。
格別愛読していたわけではない作家にこだわるのは、高度経済成長がすっかり息切れして、その最期を知らせるかのように3・11の震災が起きた、その後の混乱・荒廃した現在の状況が、太宰と安吾の活躍した戦争終了直後と似通っているからなのかもしれない。
さて、安吾は「太宰治情死考」において、
太宰のような男であったら、本当に女に惚れれば、死なずに、生きるであろう。
元々、本当に女に惚れるなどということは、芸道の人には、できないものである。
芸道とは、そういう鬼だけの棲むところだ。
だから、太宰が女と一しょに死んだなら、女に惚れていなかったと思えば、マチガイない。
(中略)
太宰の遺書は体をなしておらぬ。
メチャメチャに泥酔していたのである。
サッちゃんも大酒飲みの由であるが、これは酔っ払ってはいないようだ。
尊敬する先生のお伴して死ぬのは光栄である、幸福である、というようなことが書いてある。
太宰がメチャメチャに酔って、ふとその気になって、酔わない女が、それを決定的にしたものだろう。
と、かなり辛辣な発言をしているが、私も安吾のこうした見方は真実に近いのではないかと思う。
むしろ、情死した同伴者のサッチャンのほうが肝がすわっていて、主犯格だったようにも思われてくる。
かつて、「恋愛論」を著したスタンダールは
女のことになると、ぼくは幸いなことに、いつも二十五の青年かなにかのように、欺されてばかりいた。
といったエスプリに満ちた言葉を残しているが、男とは女にダマされることを幸せとするしかない動物なのかもしれない。
それでは、安吾の恋愛観はどうなのか、彼の「恋愛論」を読んでみると
恋愛は、言葉でもなければ、雰囲気でもない。
ただ、すきだ、ということの一つなのだろう。
とあるように、恋愛の情は名辞以前の本能的な直感だとしているが、
(恋愛とは)所詮幻影であり、永遠の恋などは嘘の骨頂だとわかっていても、それをするな、といい得ない性質のものである。
それをしなければ人生自体がなくなるようなものなのだから。
つまりは、人間は死ぬ、どうせ死ぬものなら早く死んでしまえということが成り立たないのと同じだ。
恋愛は人間永遠の問題だ。
人間ある限り、その人生の恐らく最も主要なるものが恋愛なのだろうと私は思う。
人間永遠の未来に対して、私が今ここに、恋愛の真相などを語りうるものでもなく、またわれわれが、正しき恋などというものを未来に賭けて断じうるはずもないのである。
ただ、われわれは、めいめいが、めいめいの人生を、せい一ぱいに生きること、それをもって自らだけの真実を悲しく誇り、いたわらねばならないだけだ。
というように恋愛こそが人生であり、真実だといわんばかりに、恋愛に対して真剣そのもので、情熱的である。
もちろん、こうした恋愛を冷めた目で眺めれば「嘘の骨頂」に映るしかないことも十分承知で、
恋なしに、人生は成りたたぬ。
所詮人生がバカげたものなのだから、恋愛がバカげていても、恋愛のひけめになるところもない。
と愚かな恋愛を擁護し、最後の言葉は
孤独は、人のふるさとだ。
恋愛は、人生の花であります。
いかに退屈であろうとも、この外に花はない。
と結ばれており、生命=恋愛至上主義の立場が貫かれている。
ところで、こうした彼の目から見て、同時代に体験した原爆とはなんだったのか、そして太宰の死とはなんだったのか。
原子バクダンを発見するのは、学問じゃないのです。
子供の遊びです。
これをコントロールし、適度に利用し、戦争などせず、平和な秩序を考え、そういう限度を発見するのが、学問なんです。
自殺は、学問じゃないよ。
子供の遊びです。
はじめから、まず、限度を知っていることが、必要なのだ。
とある。
安吾がこの言葉を発してから何十年にもなるが、原子バクダンも自殺もこの世からなくならず、それを適度にコントロールするオトナの学問が生まれているのかどうかさえ、疑わしい。
せめて、梅の花の写真を画面に飾り、生命=恋愛を愛でることにしよう。
格別愛読していたわけではない作家にこだわるのは、高度経済成長がすっかり息切れして、その最期を知らせるかのように3・11の震災が起きた、その後の混乱・荒廃した現在の状況が、太宰と安吾の活躍した戦争終了直後と似通っているからなのかもしれない。
さて、安吾は「太宰治情死考」において、
太宰のような男であったら、本当に女に惚れれば、死なずに、生きるであろう。
元々、本当に女に惚れるなどということは、芸道の人には、できないものである。
芸道とは、そういう鬼だけの棲むところだ。
だから、太宰が女と一しょに死んだなら、女に惚れていなかったと思えば、マチガイない。
(中略)
太宰の遺書は体をなしておらぬ。
メチャメチャに泥酔していたのである。
サッちゃんも大酒飲みの由であるが、これは酔っ払ってはいないようだ。
尊敬する先生のお伴して死ぬのは光栄である、幸福である、というようなことが書いてある。
太宰がメチャメチャに酔って、ふとその気になって、酔わない女が、それを決定的にしたものだろう。
と、かなり辛辣な発言をしているが、私も安吾のこうした見方は真実に近いのではないかと思う。
むしろ、情死した同伴者のサッチャンのほうが肝がすわっていて、主犯格だったようにも思われてくる。
かつて、「恋愛論」を著したスタンダールは
女のことになると、ぼくは幸いなことに、いつも二十五の青年かなにかのように、欺されてばかりいた。
といったエスプリに満ちた言葉を残しているが、男とは女にダマされることを幸せとするしかない動物なのかもしれない。
それでは、安吾の恋愛観はどうなのか、彼の「恋愛論」を読んでみると
恋愛は、言葉でもなければ、雰囲気でもない。
ただ、すきだ、ということの一つなのだろう。
とあるように、恋愛の情は名辞以前の本能的な直感だとしているが、
(恋愛とは)所詮幻影であり、永遠の恋などは嘘の骨頂だとわかっていても、それをするな、といい得ない性質のものである。
それをしなければ人生自体がなくなるようなものなのだから。
つまりは、人間は死ぬ、どうせ死ぬものなら早く死んでしまえということが成り立たないのと同じだ。
恋愛は人間永遠の問題だ。
人間ある限り、その人生の恐らく最も主要なるものが恋愛なのだろうと私は思う。
人間永遠の未来に対して、私が今ここに、恋愛の真相などを語りうるものでもなく、またわれわれが、正しき恋などというものを未来に賭けて断じうるはずもないのである。
ただ、われわれは、めいめいが、めいめいの人生を、せい一ぱいに生きること、それをもって自らだけの真実を悲しく誇り、いたわらねばならないだけだ。
というように恋愛こそが人生であり、真実だといわんばかりに、恋愛に対して真剣そのもので、情熱的である。
もちろん、こうした恋愛を冷めた目で眺めれば「嘘の骨頂」に映るしかないことも十分承知で、
恋なしに、人生は成りたたぬ。
所詮人生がバカげたものなのだから、恋愛がバカげていても、恋愛のひけめになるところもない。
と愚かな恋愛を擁護し、最後の言葉は
孤独は、人のふるさとだ。
恋愛は、人生の花であります。
いかに退屈であろうとも、この外に花はない。
と結ばれており、生命=恋愛至上主義の立場が貫かれている。
ところで、こうした彼の目から見て、同時代に体験した原爆とはなんだったのか、そして太宰の死とはなんだったのか。
原子バクダンを発見するのは、学問じゃないのです。
子供の遊びです。
これをコントロールし、適度に利用し、戦争などせず、平和な秩序を考え、そういう限度を発見するのが、学問なんです。
自殺は、学問じゃないよ。
子供の遊びです。
はじめから、まず、限度を知っていることが、必要なのだ。
とある。
安吾がこの言葉を発してから何十年にもなるが、原子バクダンも自殺もこの世からなくならず、それを適度にコントロールするオトナの学問が生まれているのかどうかさえ、疑わしい。
せめて、梅の花の写真を画面に飾り、生命=恋愛を愛でることにしよう。
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