濃さ日記

娘もすなる日記(ブログ)といふものを父もしてみんとて・・・

「つながっている」という希望

2016-12-03 12:26:34 | Weblog
十二月を迎えた。
先月は秋らしい秋の日が少なく、初雪まで降って驚かせたが、それだけに、初冬を迎えたこの頃の方が、かえってよほど秋らしく感じられてくる。
そんな一日、黄葉に色づく街路を歩きながら、先月、奥様を亡くされた知人と久しぶりに酒を飲み交わしたときの話を思い出した。

──奥様は単なる骨折で入院したのだが、精密検査をしたところ、がんが見つかった。それも悪性の末期がんだった。心の準備など何もしていなかった知人と奥様の面前で、医師は事務的に病状と余命を告げただけだった。それ以来、急速に奥様の病状は悪化し、入院してわずか数週間で旅立たれた。──

医師の言葉は凶器になりうる。
たしかに、がん告知は患者や家族の声を反映して、以前よりは積極的にされるようになっているが、それにしても信じられない無神経さだ。
担当の医師は四十歳代で、経験がまだ足りないということなのか、いや、逆に病気と死と患者に慣れすぎてしまい、感覚が錆びてきたということなのか。

「本当の〈希望〉は、心の底に真の〈希望〉を持った治療者から出てきます。
私自身五十年以上患者を診てきましたが、百パーセント絶望した例はありません。
癌末期の患者だって、一か月はもつまいと思っていたのが一年間生存した例なんてザラです。
治療者は針の穴のような小さい希望でも見逃してはいけません。
〈希望〉という薬にはお金もかからず手間もかからないのですよ」
(中略)
「医療従事者は、希望を捨てる最後の人になるべきです」
名誉院長はそう言って、訓話を締めくくった。(帚木蓬生『臓器農場』)


医学部を目指す生徒に医療倫理の基礎を教えている者として、こういう高潔な志をもつことは医師には必須だと思ってきた。
患者は「治る」という希望を携えて病院を訪れる。
それにどう応えるかは、医師の最も得意とすべきことであり、たとえ絶望的な状況であっても
「先行きはなかなか厳しいところがあります。でも私たちはあなたと一緒に歩んで行きますから」
と、医療者は患者に対して、互いの心が、そして命が「つながっている」という希望を与えるべきではないか。
こうした説明をしたとき、生き生きと輝く生徒の眼にぶつかった経験はこれまで何度かある。
だが、実際に医師となって働き始めたなら、現代の厳しい医療環境で、その志を維持するのはなかなか困難なのだろう。
先の担当医の態度にも、どこか疲弊したニヒリズムが漂っているように思われる。
現場の実態を十分に把握していなければ、倫理は浮わついたものにしかならない。
とはいえ、倫理は現場の実態を監視し変革するためのものでもあるべきだ。
医師は病気と死と患者に慣れてもよいだろう。
だが、おのれが、病気と死と患者につながっている医師であることに慣れてはいけない。
そんなことを考えるに至った。