濃さ日記

娘もすなる日記(ブログ)といふものを父もしてみんとて・・・

光、溢れる日々へ

2008-12-21 12:40:04 | Weblog
今年の漢字は「変」に決まったが、たしかに今年一年振り返ってみて、公私ともども「変」かつ「乱」に満ちあふれた年だった。
たとえば、昨年の今頃、このブログでも取り上げた「KY」の意味はいまや「空気が読めない」ではなく
「漢字が読めない」
に変わったのだという。某国の首相もどんどん「変なおじさん」化してきているようだ。

そういえば、先日は同年齢の仲間たちと話す機会があったが、何かの拍子に、ある女性が

身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ

という空也上人の言葉を持ち出して、これからの人生への思いを話していたのが印象的だった。
空也上人のこころざしに従えば、「百年に一度の大不況」といういまだからこそ、企業はその社会的責任(CSR:Corporate Social Responsibility)を果たし社会貢献をするべきなのだが、「義理人情」といった日本的美風さえ失った末の派遣切りが行われているのが現状だ。

かく言う小生も、いやしくも有限会社の社長の端くれのそのまた端くれなのだから、犠牲を覚悟で社会へなにがしかのメッセージを発信することが、そのまま自社の発展へとつながるようにしていくべきなのだろうが、まだ試行錯誤のスタート地点に立った程度でしかない。
ついでにいえば、自分はとっくの昔に死んでいたかもしれないのだから、世俗的な利害を超越した立場から人々を励まし、慈しむこと(親鸞のいう還相廻向)が、困惑・閉塞する現在から脱出するための契機になればいいとも思っているのだが、これまた、考えるだけなら易しいが、実行にはほど遠い。

そんなとき、古い友人から突然数年ぶりで電話が入り、「お前のような学者タイプは商売をやってもうまくいかないよ」といまさらながらの忠告をもらった。
電話を切ったあと、「それでも」と悔しまぎれに考えるのだ。こういう状況だからこそ、学者と経営者とそして宗教者の三位一体的な思考が必要になるのではないか、と。

というところで、閑話休題。
今年の我がブログではなんといっても「You tube」の貢献が大である。
考えが及ばない部分、あるいは想いが伝わらない部分をよく補完してくれたと思う。
今年最後に紹介する曲は、Ludovico Einaudi (ルドヴィコ・エイナウディ)の リリシズムあふれるピアノで、I Giorni(「光、溢れる日々」)である。
新たな年を迎え、本ブログの数少ない愛読者の皆様が「光、溢れる日々」を過ごされるよう、祈りをこめて贈ることにしよう。

i giorni-ludovico einaudi


コメント
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