日本語の「は」と「が」について。

象は鼻が長い=∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z)}。
とりあえず「三上文法」を「批判」します。

(428)「私が理事長です」の「述語論理」。

2019-12-15 21:23:57 | 象は鼻が長い、述語論理。

(01)
よく知られているように、「私理事長です」は語順を変え、
 理事長は、私です。
と直して初めて主辞賓辞が適用されのである。また、かりに大倉氏が、
 タゴール記念会は、私が理事です。
と言ったとすれば、これは主辞「タゴール記念会」を品評するという心持ちの文である。
(三上章、日本語の論理、1963年、40・41頁)
然るに、
(02)
① 私は、タゴール記念会の理事長であるが、
② タゴール記念会の理事長は、「一人だけである。然るに、
③ 倉田氏は私ではない。従って、
④ タゴール記念会ならば、倉田氏は理事長ではない。
といふ「推論」は、「妥当」である。
然るに、
(03)
① ∀x{T会の会員x→∃y[私y&理事長yx]}
② ∀x{T会の会員x→∃y[理事長yx&∀z(理事長zx→y=z)]}
③ ∃z(倉田z&~私z)
④ ∀x{T会の会員x→∃z(倉田z&~理事長zx)}
といふ「述語論理」は、すなはち、
① すべてのxについて、xがタゴール記念会の会員であるならば、あるyは私であって、私はxの理事長である。
② すべてのxについて、xがタゴール記念会の会員であるならば、あるyはxの理事長であって、すべてのzについて、zがxの理事長であるならば、yはzと「同一」である。
③ あるzは倉田といふが、zは私ではない。
④ すべてのxについて、xがタゴール記念会の会員であるならば、あるzは倉田であって、zはxの理事長ではない。
といふ「述語論理」に、相当する。
然るに、
(04)
1       (1)∀x{T会の会員x→∃y[私y&理事長yx]}                       A
 2      (2)∀x{T会の会員x→∃y[理事長yx&∀z(理事長zx→y=z)]} A
1       (3)   T会の会員a→∃y[私y&理事長ya]             1UE
 2      (4)   T会の会員a→∃y[理事長ya&∀z(理事長za→y=z)]  2UE
  5     (5)   T会の会員a                           A
1 5     (6)          ∃y[私y&理事長ya]             35MPP
   7    (7)             私b&理事長ba              A
   7    (8)             私b                    7&E
 25     (9)          ∃y[理事長ya&∀z(理事長za→y=z)]  45MPP
    ア   (ア)             理事長ba&∀z(理事長za→b=z)   A
    ア   (イ)                   ∀z(理事長za→b=z)   ア&E
    ア   (ウ)                      理事長ca→b=c    ウUE        
     エ  (エ)       ∃z(倉田z&~私z)                   A
      オ (オ)          倉田c&~私c                    A
      オ (カ)          倉田c                        カ&E
      オ (キ)              ~私c                    カ&E
       ク(ク)                b=c                  A
      オク(ケ)              ~私b                    キク=E
   7  オク(コ)            ~私b&私b                 8ケ&I
   7  オ (サ)              b≠c                  クコRAA
   7ア オ (シ)                     ~理事長ca        ウサMTT
   7ア オ (ス)        倉田c&~理事長ca                 カシ&I
   7ア オ (セ)     ∃z(倉田c&~理事長ca)                スEI
   7アエ  (ソ)     ∃z(倉田c&~理事長ca)                エオセEE
 257 エ  (タ)     ∃z(倉田c&~理事長ca)                9アソEE
125  エ  (チ)     ∃z(倉田c&~理事長ca)                67タEE
12   エ  (ツ)   T会の会員a→∃z(倉田c&~理事長ca)           5チCP
12   エ  (テ)∀x{T会の会員x→∃z(倉田z&~理事長zx)}          ツUI
従って、
(02)(03)(04)により、
(05)
① 私は、タゴール記念会の理事長であるが、
② タゴール記念会の理事長は、「一人だけである。然るに、
③ 倉田氏は私ではない。従って、
④ タゴール記念会ならば、倉田氏は理事長ではない。
といふ「推論」は、「日本語」として、「妥当」であり、
① ∀x{T会の会員x→∃y[私y&理事長yx]}
② ∀x{T会の会員x→∃y[理事長yx&∀z(理事長zx→y=z)]}
③ ∃z(倉田z&~私z)∴
④ ∀x{T会の会員x→∃z(倉田z&~理事長zx)}
といふ「推論」は、「述語論理」として、「妥当」である。
然るに、
(06)
② ∀x{T会の会員x→∃y[理事長yx&∀z(理事長zx→y=z)]}
といふ「1行」を除いた
① ∀x{T会の会員x→∃y[私y&理事長yx]}
③ ∃z(倉田z&~私z)∴
④ ∀x{T会の会員x→∃z(倉田z&~理事長zx)}
といふ「論証(Argument)」は、「述語論理」としては、固より、「証明不能」である。
従って、
(05)(06)により、
(07)
① 私は、タゴール記念会の理事長であるが、
③ 倉田氏は私ではない。従って、
④ タゴール記念会ならば、倉田氏は理事長ではない。
といふ「論証(Argument)」が、「日本語」として、「妥当」であるならば、その場合は、
② タゴール記念会の理事長は、「一人だけである。
といふことが、「暗黙の前提」になってゐる。
従って、
(06)(07)により、
(08)
① タゴール記念会は、私理事です。然るに、
③ 倉田氏は私ではない。従って、
④ タゴール記念会ならば、倉田氏は理事長ではない。
といふ「推論」が、「日本語」として、「妥当」であるならば、その場合は、
② タゴール記念会の理事長は、「一人だけである。⇔
② ∀x{T会の会員x→∃y[理事長yx&∀z(理事長zx→y=z)]}⇔
② すべてのxについて、xがタゴール記念会の会員であるならば、あるyはxの理事長であって、すべてのzについて、zがxの理事長であるならば、yはzと「同一」である。
といふことが、「暗黙の前提」になってゐる。
従って、
(08)により、
(09)
① タゴール記念会は、私理事です。
といふ「日本語」は、
① タゴール記念会は、一人、私だけ理事です。
といふ、「意味」になる。
従って、
(01)(09)により、
(10)
① タゴール記念会は、私理事です。
① タゴール記念会の理事長は私です。
といふ「日本語」は、
① ∀x{T会の会員x→∃y[私y&理事長yx&∀z(理事長zx→y=z)]}⇔
① すべてのxについて、xがタゴール記念会の会員であるならば、あるyは私であって、yはxの理事長であって、すべてのzについて、zがxの理事長であるならば、yはzと「同一」である。
といふ、「意味」になる。
従って、
(10)により、
(11)
① 私理事です。
理事長は私です。
といふ「日本語」は、
① 私は理事長であり、私以外は理事長ではない
といふ、「意味」になる。
従って、
(12)
三上章先生は、まず最初に、
① 私は理事長であり、私以外は理事長ではない
といふ「意味」である所の、
① 私理事です。
理事長は私です。
といふ「日本語の文法」を論じるべきである。
然るに、
(13)
「三上章、象は鼻が長い、1960年」、「三上章、日本語の論理、1963年」等を読む限り、三上章先生は、
AはBである=AはBである。
Bである=AはBであり、A以外はBではない
といふことには、気付いてゐないし、仮に、気付いてゐたとしても、重視は、してゐない。
(14)
助詞「は」の代行の性質とは、たとえば、「大根葉を捨てます」(料理番組)の場合、この「は」は「大根の葉」の「の」の代わり(代行)であるという考え方です。これによって、「象は鼻が長い」も「象の鼻が長いこと」の意味であり、「この本は父が買ってくれた」も「この本を父が買ってくれた」の意味であるという、簡単な説明ができるようになるのです。そして、なぜ代行するのかといいうと、それは、文の《題目》を示すためであるというふうに話が進行し、日本語には主語がなく、《題目》を中核とした言語であるという著者の主張が展開されていきます。日本語の「は」の性格を初めて明確化した著書として、この本は現在の学界でも広く知られています(象は鼻長い - 青山学院大学 文学部)。
(15)
1    (1)∀x{大根x→∃y(葉yx)&∃z(あなたz&捨zy)} A
 2   (2)∃z(あなたz&~捨zy)                A
1    (3)   大根a→∃y(葉ya)&∃z(あなたz&捨zy)  1UE
  4  (4)   大根a                       A
1 4  (5)       ∃y(葉ya)&∃z(あなたz&捨zy)  34MPP
1 4  (6)               ∃z(あなたz&捨zy)  5&E
   7 (7)                  あなたc&捨cy   A
   7 (8)                       捨cy   7&E
    9(9)   あなたc&~捨cy                 A
    9(ア)        ~捨cy                 9&E
   79(イ)        ~捨cy&捨cy             8ア&I
 2 7 (ウ)        ~捨cy&捨cy             29イEE
124  (エ)        ~捨cy&捨cy             67ウEE
12   (オ)  ~大根a                       4エRAA
12   (カ)∃x~大根x                       オEI
12   (〃)あるxは大根でない。                   オEI
従って、
(15)により、
(16)
(1)あなたは、大根の葉を捨てます。 然るに、
(2)あなたは、その葉を、捨てない。 従って、
(カ)あるxは、大根ではない。
といふ「推論」は、「妥当」である。
従って、
(14)(15)(16)により、
(17)
① 大根は葉を捨てます。⇔
① ∀x{大根x→∃y(葉yx)&∃z(あなたz&捨zy)}⇔
① すべてのxについて、xが大根であるならば、あるyはxの葉であって、あるzはあなたであって、zはyを捨てます。
といふ「意味」である。
といふことこそが、「大事」なのであって、『この「は」は「大根の葉」の「の」の代わり(代行)であるという考え方です。』といふことは、どうでも良いと、考へます。



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