数年前、安倍晋三氏がテレビで、岸内閣の安保改定について語っていたことをふと思い出した。政治家は、場合によっては、高貴な目的を達成するためにいかがわしい手段をとらざるを得ないという趣旨であった。
具体的には次のようなことである。
1958年、岸信介首相は、安保改定の布石として警職法の改正を行おうとした(警官の職権の大幅拡大)。しかし社会党主導の院外闘争と自民党反主流派の抵抗により、11月22日警職法改正案は審議未了に終わった。
この失策により、岸内閣の権威が失墜した。しかし岸は、この危機を、自民党総裁選挙を強引に早期に実施して党内反対派閥の機先を制し、また次期自民党総裁を譲るという一札を大野伴睦に入れることで乗り切った。
後者は、岸に敵対的であった大野を、味方に引き入れるという目的であった。もちろんこの一札は反故にされた(岸の次の自民党総裁は池田勇人であり、大野は総裁にはなれなかった)。
安倍氏は、このような手段も安保改定という高次の目的のためにはやむをえないと語っていたように記憶する。この判断には賛否両論あろうが、私は安倍氏の見解に賛成せざるを得ない。
なぜこのようなことを思い出したかというと、朝日新聞の次のような社説「教育再生会議―一から出直したら」(6月2日)を読んだからだ。教育再生会議の提言の中の、道徳を教科化するという提言に関する批判に安倍首相が松岡農相を庇い続けたことを引き合いに出しているのである。
「道徳」を教えるのは大変難しいと思う。私が「道徳」を教えなければならないとすれば、本当にどうしてよいか分からない。「道徳」は、万人に等しく適用されるべきものである。しかしながら場合によっては、他の目的のために道徳を軽視せざるを得ない場合もある。
諸利害の調整を図る政治家が正直に自己の見解を述べると、まとまるものもまとまらなくなる。政治家は、自分の信念にもとる嘘に近いことを述べたり、怪しげな行為をして、社会をまとめざるを得ない場合もある。政治家は、終局のところ選挙により、その結果を判断されるのである。こういうことを小学生に分かりやすく伝えることは私にはできない。
具体的には次のようなことである。
1958年、岸信介首相は、安保改定の布石として警職法の改正を行おうとした(警官の職権の大幅拡大)。しかし社会党主導の院外闘争と自民党反主流派の抵抗により、11月22日警職法改正案は審議未了に終わった。
この失策により、岸内閣の権威が失墜した。しかし岸は、この危機を、自民党総裁選挙を強引に早期に実施して党内反対派閥の機先を制し、また次期自民党総裁を譲るという一札を大野伴睦に入れることで乗り切った。
後者は、岸に敵対的であった大野を、味方に引き入れるという目的であった。もちろんこの一札は反故にされた(岸の次の自民党総裁は池田勇人であり、大野は総裁にはなれなかった)。
安倍氏は、このような手段も安保改定という高次の目的のためにはやむをえないと語っていたように記憶する。この判断には賛否両論あろうが、私は安倍氏の見解に賛成せざるを得ない。
なぜこのようなことを思い出したかというと、朝日新聞の次のような社説「教育再生会議―一から出直したら」(6月2日)を読んだからだ。教育再生会議の提言の中の、道徳を教科化するという提言に関する批判に安倍首相が松岡農相を庇い続けたことを引き合いに出しているのである。
「「道徳の時間」を徳育として教科化することにも疑問がある。検定教科書を使うことになれば、政府の考える価値観を教室で押しつけることになりかねない。
規範意識で思い起こすのは、光熱水費問題などでの故松岡前農水相の説明と、かばい続けた首相の態度だ。子どもが規範を学ぶのは、教室だけではない。」
「道徳」を教えるのは大変難しいと思う。私が「道徳」を教えなければならないとすれば、本当にどうしてよいか分からない。「道徳」は、万人に等しく適用されるべきものである。しかしながら場合によっては、他の目的のために道徳を軽視せざるを得ない場合もある。
諸利害の調整を図る政治家が正直に自己の見解を述べると、まとまるものもまとまらなくなる。政治家は、自分の信念にもとる嘘に近いことを述べたり、怪しげな行為をして、社会をまとめざるを得ない場合もある。政治家は、終局のところ選挙により、その結果を判断されるのである。こういうことを小学生に分かりやすく伝えることは私にはできない。