今月の「オブザベーション」に寄せられた原稿に対照的な二つがあり、おもしろかった。テンの糞分析をしている安本さんは糞の分析をしながら、自分が調べているテンを見たことがないことを疑問に感じ、ついに見たことを喜んでいる。これに対して鷲田さんは動物を直接見る行動学こそが自分がすべきことだと考え、解剖とか糞分析などに忌避感をもっていたが、実習ではない形でシカの解剖をしたときに内臓の構造や機能に感嘆し、行動に興味があったとしても、それは解剖学や形態学の知識と結びついていることを体感したようだ。
この二つの文章を読んで、私は南先生と「野生動物への2つの視点」を書いたときのことを思い出した。この本を書いたとき、動物をいわば密着取材的に詳細に見る視点と、他種や環境の中で大きくとらえる視点のいずれもが重要で、そういう複眼的な見方が動物の実像を正しくとらえるのだという意味のことを書いた。今回のものはそれとは違う「2つの視点」だが、哺乳類の生態学を大きく分ければやはり環境と行動というのは大きな核になる分野である。麻布大学で3、4年生を主体とした研究室で卒業研究のテーマを考えるとき、環境そのものを捉える現象はなかなか取り組みにくい。私は自分なりの考えで哺乳類の食性分析をしているが、これまでのさまざまな知識の蓄積があるので、卒業研究として食物の分析はよいテーマだと思っている。
そう考えるひとつの要素には、日本の哺乳類学の中で、取り組めばできるのに未着手である食性分析がたくさんあり、誰かがすべきだということがあった。「タヌキの食性はもう誰々さんがやってしまった」という形で、新たに取り組むことが無意味だとされてきたのである。実際に文献を集めてみて、タヌキについてさえごく少数しか分析例がないことを知って愕然とし、またその分析内容がきわめて多様であることを知って、各地で個別の情報が集まれば、食性の多様性や可塑性が論じられるはずだとも思った。
しかし、こういう研究の場合、対象動物を見ることや、行動を観察することはふつうはむずかしく、胃内容物や糞内容物と格闘することになり、そうなると「自分がしていることは最初に思っていたことと違う気がする」ということになりがちである。動物が好きという「好き」と、調べることが好きという「好き」でいえば、後者の比重が大きくなければ取り組みにくいテーマといえるだろう。
一方、行動学のほうは「動物好き」の多い麻布大学では希望する学生の多いテーマだと思われる。だが、直接観察を行動学の方法だとすると、日中に行動観察できる哺乳類は種としても調査地としても限られてしまう。見るだけではデータにならないから、「見た」という体験に感激しても、調べることにはつながらないから、調べることが「好き」な人には満たされないものが残るし、指導する側も慎重にならざるをえない。もちろん、たとえば自動撮影カメラという手法や、ライトセンサスなどから環境との問題を解明するといったアプローチもあり、それらは「見る」ことを活かした調査といえるだろう。
私は対照的な二つの原稿を読んだことから「二分法」をしたが、私自身が重んじ、自分でも実行しているのは、「動物をできるだけ多面的に捉える」ということで、それによって初めて理解が深まるのだと思う。現実には専門的になるということはしばしば限定的になることであり、それは「よけいなこと」を排除することで成り立つ。安本さんの糞分析はその例であろう。そういう入り方をした安本さんは「これでいいのかなあ」と漠然と疑問と不安を感じた。一方、鷲田さんは逆に、行動を見ることこそ自分がしたいことだと思っていたが、体内のことにも興味を持った。
私はこの二人の姿勢はきわめて健全だと思う。脇目も振らずに自分の狭い世界に入り込んで、それ以外の分野に興味を持たないという例はしばしば見られる。というよりもそうなることが専門家になることだという風潮さえある。だが、私はそれは違うと思う。もともとの出発点には「テンのことを知りたい」とか「シカのことを知りたい」という、漠然とはしているが、最も大事な知的好奇心があるはずである。これまでにも「哺乳類にも興味はあるんですが、一番好きなのはカエルなんです」という学生がいて、結局はカエルを調べてもらうことにした。そして、それでよかったと思っている。
専門的になることはよいが、いつでも「こいつのことが知りたい」という原点にもどって、対象とする動物については何でも知ろうという姿勢が大切だと思う。自戒を込めてそのように感じた。
この二つの文章を読んで、私は南先生と「野生動物への2つの視点」を書いたときのことを思い出した。この本を書いたとき、動物をいわば密着取材的に詳細に見る視点と、他種や環境の中で大きくとらえる視点のいずれもが重要で、そういう複眼的な見方が動物の実像を正しくとらえるのだという意味のことを書いた。今回のものはそれとは違う「2つの視点」だが、哺乳類の生態学を大きく分ければやはり環境と行動というのは大きな核になる分野である。麻布大学で3、4年生を主体とした研究室で卒業研究のテーマを考えるとき、環境そのものを捉える現象はなかなか取り組みにくい。私は自分なりの考えで哺乳類の食性分析をしているが、これまでのさまざまな知識の蓄積があるので、卒業研究として食物の分析はよいテーマだと思っている。
そう考えるひとつの要素には、日本の哺乳類学の中で、取り組めばできるのに未着手である食性分析がたくさんあり、誰かがすべきだということがあった。「タヌキの食性はもう誰々さんがやってしまった」という形で、新たに取り組むことが無意味だとされてきたのである。実際に文献を集めてみて、タヌキについてさえごく少数しか分析例がないことを知って愕然とし、またその分析内容がきわめて多様であることを知って、各地で個別の情報が集まれば、食性の多様性や可塑性が論じられるはずだとも思った。
しかし、こういう研究の場合、対象動物を見ることや、行動を観察することはふつうはむずかしく、胃内容物や糞内容物と格闘することになり、そうなると「自分がしていることは最初に思っていたことと違う気がする」ということになりがちである。動物が好きという「好き」と、調べることが好きという「好き」でいえば、後者の比重が大きくなければ取り組みにくいテーマといえるだろう。
一方、行動学のほうは「動物好き」の多い麻布大学では希望する学生の多いテーマだと思われる。だが、直接観察を行動学の方法だとすると、日中に行動観察できる哺乳類は種としても調査地としても限られてしまう。見るだけではデータにならないから、「見た」という体験に感激しても、調べることにはつながらないから、調べることが「好き」な人には満たされないものが残るし、指導する側も慎重にならざるをえない。もちろん、たとえば自動撮影カメラという手法や、ライトセンサスなどから環境との問題を解明するといったアプローチもあり、それらは「見る」ことを活かした調査といえるだろう。
私は対照的な二つの原稿を読んだことから「二分法」をしたが、私自身が重んじ、自分でも実行しているのは、「動物をできるだけ多面的に捉える」ということで、それによって初めて理解が深まるのだと思う。現実には専門的になるということはしばしば限定的になることであり、それは「よけいなこと」を排除することで成り立つ。安本さんの糞分析はその例であろう。そういう入り方をした安本さんは「これでいいのかなあ」と漠然と疑問と不安を感じた。一方、鷲田さんは逆に、行動を見ることこそ自分がしたいことだと思っていたが、体内のことにも興味を持った。
私はこの二人の姿勢はきわめて健全だと思う。脇目も振らずに自分の狭い世界に入り込んで、それ以外の分野に興味を持たないという例はしばしば見られる。というよりもそうなることが専門家になることだという風潮さえある。だが、私はそれは違うと思う。もともとの出発点には「テンのことを知りたい」とか「シカのことを知りたい」という、漠然とはしているが、最も大事な知的好奇心があるはずである。これまでにも「哺乳類にも興味はあるんですが、一番好きなのはカエルなんです」という学生がいて、結局はカエルを調べてもらうことにした。そして、それでよかったと思っている。
専門的になることはよいが、いつでも「こいつのことが知りたい」という原点にもどって、対象とする動物については何でも知ろうという姿勢が大切だと思う。自戒を込めてそのように感じた。
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