観察 Observation

研究室メンバーによる自然についてのエッセー

調査地での出会い

2012-10-01 23:57:24 | 12.9
三年 山尾佳奈子

調査地のカヤネズミ用の食痕トラップを順に回り、球巣を探すためススキの株の中を覗き込む作業をしていた。調査を続ける中で生長したススキの葉の先端に「ちまき」のように丸まったものが多く見受けられた。
<ここに写真1を入れる。ススキの葉先にあった「ちまき」>
何の目的でつくられたのだろう、中には何がいるのかな、それとももういないのかな。興味が湧いて、葉先をちぎって開いてみた。ちまき状のものは内部が幾重にも糸で覆われており、あけるときはブチブチと音を立てているような、とても強い力でススキの葉が内側から目貼りされているように巻かれていた。中から2mmほどのクモが波のように出てきた。ざっと見て20匹以上はいたであろう幼体の大群。その中から3cmほどのクモが一匹飛び出してきた。大きなクモは前足をあげ、私の持っていた細い枝に、威嚇の体制をとっていた。このクモを調べてみるとカバキコマチグモというクモだった。


ちまき状に巻かれたススキの葉、このなかにカバキコマチグモがいた


中から出てきたカバキコマチグモの母親

 多くのクモ類で親が卵嚢や幼体を保護・防衛する行動がみられ、カバキコマチグモの雌は卵塊とともにちまき状に巻いた巣に閉じこもるという。孵化した幼体は二齢まで成長すると親を餌として成長するという。雌は生まれた子供の餌となり、多回交尾ができないので、雄にとっては重要な資源である。調べて行く中でカバキコマチグモの雄は雌より先に成熟し、交尾前ガードを行うということがわかった。雄の体サイズには成熟日の早い小型タイプと小型オスより10日ほど遅い大型タイプの二型があり、小型タイプの方が交尾の成功度が比較的高いのだという。処女雌はもういないのかな、日の出でも本当に二型なのか、この後雌は逃げたがまた交尾するのか、など調査地で撮った写真をみながら次々と知りたいことが浮かんで来た。
 調査に行くときは対象動物だけでなく多くの生き物を実際にみて、考えるよい機会だと思う。今後も色々な方の調査地に同行し、より多くの発見や疑問に触れていきたいと思う。

乙女高原の調査をして考えたこと

2012-10-01 23:50:06 | 12.9
4年 高橋和弘

 私の調査地である乙女高原で調査を始めてからあっという間に1年半が過ぎた。近年、ニホンジカは日本各地で分布拡大しているが、乙女高原でもシカの問題が懸念されている。地元の方たちからは「シカが草原の植物を食べちゃって困るじゃんね」とか「シカをどうにかしてくりょう」、「以前は咲いていた花が見られなくなった」というような声をよく聞いた。乙女高原に関わる方からすれば、強い採食圧を持つシカはきれいな花を食べるので悪者のようだ。私も地元の方からこのような話を聞いていたので、調査をするまではシカの被害は深刻なのだろうと勝手に思っていた。
 3年の4月に研究室に入り、調査が始まった。草原の植物への影響を評価するために柵内外で主要植物の高さの季節変化と新鮮なシカの糞を拾い、食性分析を行うことになった。調査を進めて行く中で何か引っかかるものがあった。確かに草原にシカの糞が多く見られるし、食痕も見つかる、柵外の植物に比べると柵内の植物の方が高く、よく生長している。確かにシカによる影響はゼロではなく、森林内では樹皮剥ぎやササの矮小化が目立つが、草原では地元の方が言うほど乙女高原での影響は大きくないのではないかと感じるようになった。また、シカは自然の一員なのだから、生きるために植物を食べることは当然であり、草刈りをすることで植生遷移が進まないように不自然なことをしている地元の方が、シカを悪者として見るというのは、自然を尊重するという意味で違和感を感じる。シカが採食をする事と、人が植物を刈り取る事の違いが何なのか、よく考えるとわからなくなる。簡単に答えは出せないだろうけどこの研究を通して人が生態系を保全することとはどういうことなのかの意味を考えたいと思っている。
 もしもこの研究室に入らなければ乙女高原で野外調査もしなかっただろうし、シカによる乙女高原の被害の現状は知ることもなかったし、人と野生動物のことなど考えもしなかっただろう。
 この研究室で野外調査をするようになってから、自分の目で見てよく考えるようになり、新たに気づくことで、今までの考えを改めるようになった。そして多くの疑問がおもしろさへと変わっていった。今は、学部外ではあるけれどこの研究室に入って本当に良かったと思っている。


乙女高原での草刈り (撮影 高槻 2011.11)
 
 

「害獣」ということ

2012-10-01 23:45:32 | 12.9
                              4年 原 渚
 私が動物応用科学科を志望したのは単に動物が好きという理由と、人の手によって被害にあっている動物を救いたいと漠然と思っていたことがきっかけだった今は野生動物による農作物被害について調査をしており、被害を出している動物種だからやみくもに駆除するのではなく、その動物のことをもっと知った上で適正に対策を講じることに繋がるようにしてほしいと考えている。そうした体験から、保全という言葉をよく耳にするが、大学入学前と後ではその言葉の捉え方が私の中で変わったように感じる。
 保全とは動物を守ることだと思っていたが、大学2年生のときの授業で「クマをなるべく殺さないように法を作ったり変えたりするべきだ」という同級生の意見に高槻先生が言った「もしあなたに子どもが出来てその子の通学路にクマが出るとしたらどうしますか、それでもクマを殺しませんか。」という言葉が印象に残っている。某映画の言葉を借りると「事件は現場で起きているのだ」というセリフがまさにぴったりなような気がした。そのとき、都会育ちでテレビに映るかわいそうな野生動物に同情していただけだった私には、野生動物とどのように関わりあってくのかが本当の意味で大切だということがわかってていなかったのだと気づいた。
 田舎の風景は綺麗だが、それは生き物たちのすみかに人が入りこんだ場所とも言える。そのような場所で「獣害」ということは、なにも知らない動物に対して一方的な言葉ではないだろうか。もとからいた相手を消し去る前に、「ここは私のところだから入らないように」と相手に教える努力を怠ってはいないだろうか。農業の機械化が進み、人の圧が減り、柵を張っても隙き間があれば、作物を食べられるのは当然であろう。そのことを棚にあげて「害獣だ」と決めるつけるのはおかしい。もっと予防のための努力をし、人と動物とがきちんと関っていくべきだと思う。
 調査地の山の中間部分からふもとまで畑が広がる光景を見ながらそう思うようになった。
そもそも長い歴史の中で形を変えながら人は動物と関わり合いながら生きてきた。現代では野生動物について経済価値ばかりで判断されがちだが、肉として利用する以外にも人が動物を神と信仰したり、動物が見るものに安らぎを与えてきたはずである。まったく勝ちがないだけでなく、存在を否定する「害獣」と呼ばれる今こそ、生き物の価値に目を向けなければ、今後取り返しのつかない事態になる可能性があると思う。正解も終わりもないような大きい問題ではあるが、これからも考え続けていきたい。


嬬恋のキャベツ畑 (撮影 高槻)