観察 Observation

研究室メンバーによる自然についてのエッセー

野生動物学研究室に入って変わった自然の見方

2015-01-01 09:16:55 | 14
3年 鈴木華奈
 今年の4月から野生動物学研究室に所属し、自然に対する興味、見方が一変しました。なにげなく歩いていて、それまで目につかなかったはずの道端にひっそりと咲いている花や草、またその花に止まる昆虫にまで目が行き届くようになりました。
 歩道の端っこに生えている草をすべて雑草というひとくくりで見ていた私は、今まで自然をよく見ていなかったことに気づかされました。よく見てみると葉の形も大きさもそれぞれ全く違う草でした。私が研究室に所属してすぐ、友達の調査の同行で高尾山へ行った際、高槻先生が多くの植物について説明してくださいました。一見全体を見渡すと緑が広がっていて、それまでの私だったら、「きれいだな~、空気がおいしいな~」で終わってしまっていたはずが、植物に目を凝らしてみると、面白い形をした植物がたくさんありました。その中でも印象に残っているのは、ハナイカダという植物でした。説明を聞いて見ると、葉の中心に花が咲いていました。ここに実がなるそうです。まるで葉の先端につぼみがついているように見えました。研究室に入ってから、このように動植物の形にしっかりと意味があることも学ぶことが多くなりました。
 今年の夏、実家へ帰省すると、庭に6匹以上のセンチコガネが死んで転がっていました。私はびっくりして、母の所へかけつけました。すると、害虫退治のために、庭に薬をまいたとのことでした。私の友達はセンチコガネの研究をしており、その子とよく研究の話しをしていたので、センチコガネが糞虫としての自然界の物質循環に果たす役割が大きいということを知っていました。そのことを母に伝えると、驚いた顔をしていました。もし、野生動物学研究室に所属していなかったら、センチコガネに興味を持つこともなかったと思うと、研究室に入ったことで自然のことを深く見たり考えたりできるようになったことをうれしく思いました。
 研究室には、さまざまな動物、植物、昆虫を研究している人がいて、自分の知らないことがたくさんあり、ゼミの発表で刺激を受けます。また、動植物についてもっと知りたいという気持ちが強くなりました。今年は生き物について多くの知識を吸収することができました。これからも新しい発見を見つけていと思います。-

花屋のススキとススキ草原

2014-12-31 11:58:23 | 14
3年 大竹翔子
 今年も年末となり、大方の準備も終わって新しい年を迎えるのみとなった。正月の風物詩の代表と言えば百人一首ではないだろうか。詠まれている季節の歌の中では秋の歌が一番多いのだそうだ。

 白露に 風のふきしく 秋の野は つらぬきとめぬ 玉ぞ散りける

 この歌は文屋朝康という歌人によって詠まれた歌だという。
 私はこの1年山梨県の乙女高原で調査をしたので、この歌からその風景を思い出す。秋の乙女高原は空は高く、広い草原は背の高いススキで覆われ、植物の間を風が吹いてススキが穂を揺らしていた。そんな気持ちの良い光景を体験した。


乙女高原のススキ草原


 私がまだ小学生だった頃。十五夜にお団子とススキを飾って月を見ようとしたことがある。自宅近所の空き地でススキを探したのだが、どこにもススキはなかった。それから十数年経った今年の秋には、花屋の包装紙に包まれたススキを持って歩く人々の姿を数度見かけた。ススキと言えば誰もが知っている身近な植物であるという認識だったのだが、近頃ではそうではないのかもしれない。だからこそ、今年一番印象深く残っているのは乙女高原の広大なススキ群落である。
 私はススキのことを思ったが、そのほかの季節の風物詩も、もしかしたら新しいものに、とって代わっていってしまっているのかもしれない。古き良き日本の文化を大切にしていきたいと思う年の瀬。
 

2014年を振り返って―乙女高原の思い出

2014-12-31 11:55:46 | 14
3年 上杉美由紀

 私の研究対象動物はシジュウカラで、住宅街のシジュウカラの繁殖映像と緑地のシジュウカラの繁殖映像の比較をすることが研究内容だが、繁殖期は春から夏頃までなので、私が3年に上がった時には繁殖の早い個体はすでに繁殖が始まっていた。そのため、私にできるのは先輩の作業を見たり手伝ったりするだけだった。
 自分の調査地へ行く機会があまりなかったのもあり、同期の友達の調査に同行させてもらったことが何度かあった。その中で乙女高原の調査が印象に残っている。乙女高原での調査は訪花昆虫に関するもので、ある区画内で何時にどの花に何の昆虫が止まったかを記録するという作業を手伝った。実際にやってみると、この作業がなかなか忙しく、見逃しそうになったり、昆虫の行き来が激しく記録が遅れ気味になったことが何度かあった。集中力が必要な調査だということがわかった。それに私は花の名前を知らなかったので、記録がスムーズに行えないということもあった。


シカの影響を排除した乙女高原の柵内のタムラソウ

 また、乙女高原の辺りは気象の変動が大きく、晴れたと思ったら曇るというようなことが何度もあった。幸い調査中に雨が降る事はなかったのだが、高原を降りて塩山の街中に入ったらすぐに雨が降ってきた。高原で降られていたら大変だったと思うと、運がよかったと思った。
 来年は4年生になり、就職活動も始まるため、忙しくなるだろうが、シジュウカラの繁殖の観察は一度しかチャンスがないので、十分に計画を立てて両立していきたい。

シデムシを飼育して

2014-12-31 11:54:36 | 14
3年 鈴木沙喜

 私は野生動物学研究室に入室する時、「動物を守りたい君へ」(2013高槻)を読む機会を得た。それを読んで、さまざまな生き物の例から、生き物の偉大さや生態系を学ぶことの意義について考えることができたが、この本に紹介された内容から特に糞虫とシデムシ類の特性に感動した。彼らの能力が自然環境を維持するために重要な役割を果たす存在であることに気付かされ、敬意に似た気持をもった。このことがきっかけとなって、今は卒業研究として分解者に取り組んでいる。
 今年は死体や糞に来る昆虫相や分解過程などを季節ごとに調査することができたが、中でもオオヒラタシデムシの飼育実験は印象深かった。
こうした分解者の生活史はよくわかっていないので、それを解明することを目的に5匹のオオヒラタシデムシを採集しして飼育を始めた。10日ほど経ち愛着が湧いてきた頃、あきらかにほかの個体とは動きが俊敏な、違う個体が出現した。それはオオヒラタシデムシの幼虫だった。飼育中に成虫が産卵し孵化したのだ。幼虫は日を重ねるごとに増加し、5日後には30個体以上となった。共食いなどにより、最終的に成虫となったのは10個体ほどになってしまった。飼育をして、さまざまな競争に勝ち抜いた彼らに感銘を受けた。


 オオヒラタシデムシの蛹


 飼育下で生まれ、成虫になったオオヒラタシデムシ

 今振り返ると幼虫を用いて実験を試みるべきだったと思うが、飼育していたときは彼らの独特な生態とその生命力にただ感動するだけで、特にデータをとろうという気持はもたなかった。それでも生態学的に意味のある観察もした。初めて幼虫が確認してから成虫に至るまで2週間余りととても速かった。このことは、自然界にはシデムシ類が膨大な数存在することを意味し、分解量もそれだけ多いということだと思う。一方、成長過程を早くしなければならない何らかの要因があるのかもしれない。あるいはシデムシ類の種ごとに産卵時期や成長過程をずらすことにより資源分割をしているのかもしれない。今後、調査をしていく過程で新たな発見ができればと思う。

また楽しからずや

2014-12-30 13:11:05 | 14
教授 高槻成紀

 12月6日に鳥取大学に招かれて鳥取市に行きました。私は米子という町で育ちました。米子は鳥取県の西の端、鳥取は東の端で、同じ県ですが遠い感じで、むしろ隣県の島根の松江のほうが距離としても意識としても近く感じていました。講演が終わって見た冬の日本海の濃紺と灰色も混ぜたような深い色がズシンと心に染みました。
 若い頃に友人のお姉さんが結婚し、今は時効としてよいと思いますが、そのときは親が結婚に反対で式を挙げられなかったので、友人と私だけがお祝いに行きました。今はその世界ではよくしられた陶芸家ですが、当時は無名ですから親が心配するのはもっともです。
 私は今でもアルコールはだめですが、その頃は自分が呑めないことも知らなかったので、完全にダウンしたことを覚えています。その後は年賀状のやりとりくらいでした。そのご夫妻の窯が鳥取市の山あいにあるので、なんと40数年ぶりに訪問しました。すばらしい作品とコレクションを見て、また山あいの民家風のアトリエ等をみて、感動しました。
 そこはレストランも兼ねていて、当日は日曜日でお客さんが多かったので、ゆっくりの話はできませんでしたが、ほんとうに久しぶりにお会いしたお姉さんは、厨房で活き活きと仕事をしておられました。さばさばした性格で、あいかわらずの辛みのある口調で
「あんたは若い頃はかわいかったのに、こんなおじさんになって」
と、孫が5人もいる60代の老人をつかまえて乱暴な歓迎をしてくれました。米子という町にはこういう辛口好みの人がわりあいいます。私に2歳上の姉がいますが、姉同士も同級生だったので、話がそこにおよぶと「真理ちゃん(私の姉)があんたの部屋にはいると、ほんとに足の踏み場もないほど、チョウチョの幼虫を飼っとってかなわんだった」(かなわんというのは、「どうしようもない」という感じです)というようなことを話していました。確かに身に覚えがあります。
 半世紀もの時間があっというまに埋まりましたが、突然「あの詩はよかった」と、毒舌の彼女にしては珍しく褒め言葉です。何のことかと聞くと、私が訳した「ナラの木」がラジオで放送されたのを聞いたのだそうです。そしてネットで探してその詩をお店にも飾っていてくださったそうです。

 40数年前、親に祝福されないで、しかし自分の人生の伴侶を信じ、退路を断って飛び出したとき、弟の友人が祝福に来て酔いつぶれたのは、たぶん嬉しかったのでしょう。その後私も鳥取市に行くことはなかったために会わないままお互い歳をとりました。年賀状だけの細いつながりはあったものの、ご無沙汰を続けていました。そうした中で、たまたま私が「ナラの木」を訳し、それを鳥取の山あいでラジオを聞いて、あの詩の魂に打たれてその詩をお店に飾ってくださったということを知ったというわけです。
 険しいに違いない陶芸の道で身を立てる人の門出を祝いたいという当時の私には、自分が研究者としてやっていけるかどうかという不安がありながら、しかし自分を信じて険しい道を進みたいという気持があり、その意味で自分自身の人生選択と重なるものを感じていました。そして半世紀近く、お互い自分の信じる道を追い求めて来て、その半生を閉じようとしている。口には出さなくても、「まあ、お互いよくやったよね」という共感がありました。



 「ナラの木」のことを聞いたとき、毎日の変わりばえもしない日常の中に、細いけれども鋭利な光を放つ電光のようなものが、はるかアメリカから私の心に届き、それが鳥取の山あいにも伝わったのだと思いました。人のつながりの不思議さとおもしろさを感じました。
 挨拶をして外に出ると霙が降っていて、湿った空気の肌触りに子供の頃の感覚を思い出し、懐かしさに包まれました。