観察 Observation

研究室メンバーによる自然についてのエッセー

カエルとの出会いを経て

2013-12-31 09:21:08 | 13.12
4年 小森康之
 研究室に入り、2度目の年明けを迎えんとするこの頃、2年間の写真を整理すると、随分といろいろな動物を目にしてきたなと感じた。浅間山のカモシカ、下北半島のニホンザル、アファンの森の沢山の昆虫たち。どれも胸躍る発見ばかりであったが、元々爬虫類と両生類が特に好きな私にとって、彼らを見た時の興奮は格別だった。アファンではいつでも見られるカナヘビやヤマアカガエルを見つけただけで感動して、叫んでいた時期もあった。今でこそ落ち着いているが、外出先でカエルを見つけてワクワクする気持ちは変わらない。以前にもこの「Observation」に書いたように、私はカエル好きである。今回は、実際に両生類と接触を経た前後の心境の変化などについて触れてみたい。
 私がこれまでに見た両生類は、カエル11種ですべて本州産、有尾類はイモリとトウキョウサンショウウオの2種である。本州に棲息しているカエルは外来種を除いて16種だから私は2年間のうちに半分以上の種を自然の中で目にしたことになる。多数のカエルを見てみたいという願いはかなり達成されたと言える。ただし、種類によって一度見ただけでのものもあるし、写真に収められなかったこともあるので、見た種類の多さほどは充実感を得られていないとも感じる。欲を言えば、どんなカエルや有尾類も、アファンでヤマアカガエルに出会ったくらい、何度も出会いたいと思ったりもする。そのためにはやはり2年間は短かいわけで、今後はもっと野外に出る機会をもちたいと思うようになってきた。
 また、実物を手に取って観察したり、両生類のことを勉強してからは、両生類に対する印象も大分変わった。私は東京に生まれ育ったので、幼少期からほとんどの両生類は手の届かない場所にいる存在だと感じていた。それが、生息場所を知り、現地へ行くことで、両生類とはいる場所には沢山いる生き物であるということを実感した。そう考えると、自分の場合とは違い、その地域で暮らす人々にとっては、いつでも会える隣人のような存在なのだと思うようになった。そしてそれはカエルに限らず、私が子供の頃から憧れてきた昆虫や、あるいはタヌキやクマまでもそうであることも分かってきた。沢山の生き物が身近にいる人に羨ましさを感じるが自分は都会生活に胡座をかいている。それはわがままなことだと知りながら、その気持ちは確かにある。
 一方で、私は両生類の勉強をすることで、両生類が環境の変化に敏感に影響を受けることを知った。両生類ということばからは、水陸両用の万能な生き物と思いがちだが、そうではなく水陸両方が必要な弱い生き物なのだということを強く認識することとなった。確かに両生類は変態後は水域だけでは暮らしにくく、陸地だけでは繁殖が出来ず、そういう意味では繊細な存在だと思う。そのために姿を消してしまった地域も多い。私が都心部では図鑑でしか見られない幻の生き物のように思っていたのも無理はないことだった。身近な動物と言われながら、あっさりといなくなる。ただの両生類好きであった私は研究を通じて、かれらの儚さも感じるようになった。
 私がこの2年間で体感したのは、それまで図鑑をみてイメージしていた両生類は、実物を見て、触れてみて、はじめて素晴らしさを知ることが出来るということだ。哺乳類は魅力ある動物ではあるが、野外で直接出会う機会はきわめて小さい。その点、両生類は野生の個体を発見しやすいので、よい自然観察の対象になる。また、カエルは人々に興味を持ってもらいやすく、野外学習にも適した動物である。そうしたことも2年間で学んだことだった。そして、カエルと出会ったことにより、今後も自然観察を趣味として続けていきたいと決心することになった。調べてみればいろいろな発見があり、そこからまた新たな興味がわいて尽きない。次の春からの出会いも楽しみである。


アファンの森で出会った両生類
上段左からアマガエル、タゴガエル、ヤマアカガエル、トウキョウダルマガエル。
下段左からツチガエル、モリアオガエル、シュレーゲルアオガエル、アカハライモリ


よく見つけられるね

2013-12-15 11:03:31 | 13.12
3年 椙田理穂

 今月、一日に今年最後の弓道の大会があった。場所は金沢八景にある横浜市立大学だった。横浜市立大学の周りには木々が多く残っており、丁度紅葉していてとても綺麗だった。木々が多く残っているためつねに鳥の鳴き声が聞こえ、タイワンリスが多く、よく見かけることができる。
 大会では後輩の出番が近づいてきたので、私は友達と共に観覧場所に待機していた。そのときに、遠くの木のてっぺんのあたりにリスがいたため、私が
「あ、リス!」
と言って友達に伝えたのだが、友達はなかなかわからないらしく、リスの場所を教えるのがとてもたいへんだった。その時、私は
「なんで、あんな真正面にいるのにわからないのだろう?」
と疑問に思った。
 そしてしばらくして次はその友達の出番だったため、私は後輩とまた観覧場所に移動した。そしたらまた木の上にリスを発見したのでそのことを後輩に伝えたが、後輩もわからないらしく、またリスの場所を教えるのにてこずる。後輩に教えるときはずっとリスが走っていたため、よく動いていたので
「見ればすぐわかるのになんで?」
などと思いながら説明をしていた。
 試合が終わり、その友達と後輩しゃべりながら帰っているとリスの話題になり、友達に「よく見つけられるね。さすが野生研!」
と言われたときに、初めてみんながわからないのではなく、自分が他の人よりも少し見つけるのに慣れているのだと気が付いた。私がもともとリス好きなのでリスに対してレーダーが働くのかもしれないが、単純に「さすが野生研」と言われたのが嬉しかった。確かに研究室に入ってから、歩くときは「ネズミいないかなぁ」などと思いながら茂みを注意しながら歩くようになり、今までは鳥の声など気にも留めなかったが、何の鳥か、何のために鳴いているのか考えるようになった。
 研究室に入室してから半年以上が経過したが、感覚としてはあっという間に十二月まで来てしまったということだ。それでも、自分でも気が付かないうちに野生研に染まっていたらしい。

食べる、食べられる、食べさせる

2013-12-15 10:58:21 | 13.12
教授 高槻成紀

 動物の食べ物を調べるために糞を集めることをよくする。それを数十年おこなってきた。初めの頃は、動物の食性分析を、「動物の生活のいろいろな側面のひとつ」と位置づけで記述することは博物学的な研究として価値があると考えていた。そのことは今でもそれほど違わないのだが、20年くらい前から少し意識が変わってきた。私は植物生態学を学んでいた時期があるので、その世界で種子散布の研究が徐々に始まって来た。最初は種子散布にどういうタイプがあるかといった類型などがおこなわれ、この植物はどれに属すだろうというような研究が主体であったが、次第に定量的な調査もおこなわれるようになった。それとは別に土の中にある種子の内容を調べる調査もあった。埋土種子集団とかシードバンクなどとも呼ばれる。これら植物生態学における種子研究は生理学と生態学の接点という面はあったが、動物学とのつながりは意識されていなかったように思う。
 私自身はおもに反芻獣の食性を調べていたので、食物である葉の組成割合についてのデータをとっていたが、秋になると種子や果実が増えることには気づいていた。その名前を調べたりしていたが、秋はでんぷん質や脂質の摂取をする時期なのだと見ていた。その後、サルの食性も調べたし、さらにはタヌキやハクビシン、テンなども調べるようになり、哺乳類の秋から冬にかけての食物で果実や種子の占める割合の重要さを改めて認識した。「実りの秋」は動物にとってありがたい季節なのだと印象づけられたのだが、もちろんこのことは種子散布につながる。
 植物は動物にサービスをしているわけではなく、種子を散布してもらうために果肉を提供しているのである。そうであれば、果実の色や匂いは「宣伝」であり、そのように考えると、当然、宣伝にかける投資は最小限にし、種子を散布する効果を最大にするのが一番得だということになる。
 長いあいだ糞拾いを続けているが、それは動物の食べ物を知るということから、次第に、植物の方から見ればそれは動物に食べられるということなのだと考えるようになった。それを商店から食物がもって行かれることと見れば、母樹から果実が奪われるということになるが、それは自然界に起きる現象の読み取りとしてはまちがっている。植物が種子を散布させるために動物を利用しているというのが正しい文脈把握である。つまり、「動物が果実を食べる」ことは、「植物が植物体を持ち去られる」ことではあるが、実は「植物が動物に食べさせている」ことなのだということである。
 八ヶ岳でテンの糞を見つけたとき、ただポリ袋に入れるのではなく、サルナシの種子が入っているのを確認してから拾った。八王子の山でタヌキの糞をみたとき、ギンナンを確認して、「ああ、イチョウがタヌキを使っている」と思った。相変わらず動物の糞を拾っているが、今では、動物の糞を見るとき、植物が動物を利用しているという「企て」の結晶のような気がするようになった。


ギンナンの入ったタヌキの糞 2013.12.14 多摩森林科学園にて