教授 高槻成紀
尊敬する先生が亡くなられ、偲ぶ会が開かれた。以下はそのときに書いたそのときの追悼文である。
<マエテイとの出会い>
前田禎三という名前は知っていた。私は東北大学で植物生態学を研究していたから、森林生態学の文献を読む中で何度かこの名前に出会い、記憶に残したのだった。その後、私の研究はシカのほうに傾いていき、シカの研究者として東京大学に移った。その研究室には林学関係の研究者がおり、前田禎三のことを「前禎」と呼んでいた。曰く、「豪放な人だ」、「大酒飲みだ」、「よく山を歩いた人だ」。中でも印象に残ったのは、秩父の演習林にいたとき、技官さんをつれて山に入ったとき、典型的な土壌プロファイルをみつけ、土壌を取り出すことにしたのだが、サンプルを入れる筒がない。そのとき前田先生は技官の人に向かって「おい、靴下を脱げ」といってその靴下に土壌サンプルをもって帰ったということだった。そういう話をするとき、誰もが困った人だというような表情をしながらも、決して威張って強引な人というのではなく、森のことが知りたくてそのためには夢中になってしまう、愛すべき人だという雰囲気だった。規則や形式を重んじて、やりたいことを遠慮するような研究者とは対極の人だということであろう。
ある集まりがあり、噂の「マエテイ」の話を聞いた。そのときもほろ酔い加減であったように思う。話が始まって2、3分で確信することがあった。先生が私と同じ米子の出身だということだ。
山陰地方は歴史が複雑で、町ごとに言葉が違う。同じ鳥取県でも頭部の鳥取市と米子市ではまったく違うし、そのあいだにある倉吉もまた違う。もちろんその西の松江に行けばさらに違う。私は父の仕事の関係でひっこしが多く、倉吉で生まれ、米子、松江、また米子にもどると転々とした。そのため、言葉に敏感になり、違いがすぐにわかるようになった。だから前田先生のことばは山陰というだけでなく、鳥取県というだけでなく、米子そのものだということが確実にわかった。懇親会になって先生に「先生、米子でしょう」といったら「なんでわかる?」と答えられた。どうやら自分は標準語を使っているつもりのようだった。「なんでわかったじゃないですよ、米子弁そのものじゃないですか」というと「そげなもんかなぁ」と来た。
それで意気投合して、「米子のどこだ?」「尾高町です」「ああ、あそこにはうまい蕎麦屋がある」「ああ、大黒屋ですね。あの蕎麦屋の借家に住んでたんです」「おお、そげか」という具合だった。
<金華山にて>
前田先生はブナ林の調査をしておられた。大規模な実験を含め、徹底した野外調査でそれまでわかっていなかった多雪地のブナ林のことを明らかにされた。後日奥様にうかがうと、若い頃は昼間は山で森林の調査をし、夕方、家に帰って夕食をとると、また演習林にもどって分厚いドイツの原典を読破するという毎日を送っておられたそうである。
私は宮城県の金華山でブナの天然更新とシカの影響を調べたことがあったので、一度金華山に来てくださいといった。遠いところだから、実現するかどうかわからなかったが、先生は身軽に来られた。金華山では黄金山神社という神社に泊まる。そこから山に登るのだが、金華山はけっこう険しいので、先生にはちょっと大変そうだったが、それでも実に楽しそうだった。金華山のブナにはいわゆるコワブナといわれる太平洋側の冬に乾燥する気候に適応的な葉が小さくつやのあるタイプのものと、多雪地である奥羽山地のものほどではないが、かなり大きめの葉のものが共存する。そのことの意味はわからないのだが、標本をとっておきたいと思っていた。前田先生にその話をすると、
「採れ」
と言われる。採れといわれても、ブナの木の枝には手が届かない。あれこれ挑戦してみたが、うまくいかないので、「また次の機会にしますよ」と言ったら、「乗れ」
と中腰になられた。
「先生、いくらなんでも先生の肩には乗れませんよ。私ががんばりますから、先生が私に乗ってください」と言ったものの、内心がっちりした先生を支えられる自信はちょっとなかった。
「ええけん、乗れ」
と語調が強くなったので、覚悟を決めて
「すみません、では」
ともちろん靴は脱いで太ももに乗り、それから肩に足をかけて中腰になって手を伸ばしたらなんとか採集できた。足の裏に感じるその肩はがっちりと鍛えられたものであることがわかった。
今思うと、登るときはよいが、降りるときどうしたのか覚えていない。たぶん途中でジャンプして着地したのだと思う。
宿に帰って風呂に入り、部屋にもどると、酒盛りが始まった。私はアルコールはいけないほうなので、おつきあい程度に舌をぬらしていた。神社に阿部さんという土産物の店番をしている人がおられるのだが、その人は私が泊まるときには、部屋に来ていろいろおもしろい話をしてくれた。その夜も阿部さんが来ていろいろ話にもりあがった。私が
「今日、先生の肩に乗ってしまったんですよ」
といったら、
「ハッ、おらが揉んでやっから」
と先生の肩もみを始めた。初めて会った人同士とは思えないほど打ち解けていた。
「おお、ええ気持ちだ」
といいながら、先生はコップ酒でぐいぐいと飲みながらご機嫌になり、そのうち大の字になって沈没してしまった。
<その後のこと>
その後ご無沙汰していた。ただ「前田つながり」はない訳ではなかった。私は学生の指導でオガサワラオオコウモリを調べに初めて小笠原に行った。そして小笠原の動植物を研究している鈴木創さんに会って大変お世話になった。その頃、スリランカから留学していたローズさん(ウダヤニ・ヴェラシンハ)と媒島の植物を調べるために土壌サンプルをとった。前田先生とは違って靴下に入れることはなかったが、私とローズさんで持てる量は知れたもので、多くを鈴木さんの剛力に頼ってしまった。鈴木さんと話をしていたら、宇都宮大学出身で前田先生の教え子だということで驚いた。
東日本大震災が起きたとき、私はアメリカの研究者から送られてきた「The Oak Tree(ナラの木)」という詩を訳したのだが、それは東北の言葉をはじめ、日本中の地方言葉に訳された。それを見た鈴木さんは便りをくださり、お父様はその詩を紙芝居風のすばらしい絵に描いてくださった。
2014年に毎年行っているモンゴルで調査をした。この年はいつもと違い、地下水の専門家が同行された。多田さんは体重が100キロを超える巨漢で、話がおもしろい。地下水の音が聞こえる機械を開発したといってモンゴルの地下水の「音」を聞かせてもらった。それは感動的な体験だったが、多田さんは針金をL字型に曲げて、それを持って手を伸ばし、針金を進行方向に向けて持って歩くように言う。そうすると驚いたことにその針金が突然クルリと横を向いたのである。何度やっても同じところで曲がった。私がキツネにつままれたような顔をしていると、多田さんは
「子供ならだいたい曲がります」
と褒めているのだか馬鹿にしているのだかわからないことを言う。
多田さんとペアの河合さんは物静かで黙々と作業をしており、地面に電極のようなものをたくさん挿しており、それで地下水の深さがわかるということだった。後でわかったのだが、針金が曲がったところの下には地下水位が高かった。河合さんは新潟大学におられるが、その前には鳥取におられて、そこで「前田さん」にお世話になったと言われる。
「鳥取の前田さん?」
私は事情がわからなかったのだが、あとでわかったのは、前田先生の息子さん(雄一さん)ということだった。この冬、鳥取大学に招かれて講演をしたが、そこで前田雄一さんにお会いできた。
<人の縁>
私は人の縁というものの不思議さを思わないではいられない。鈴木さんにしても、河合さんにしても、ましてや前田雄一さんにしても、まともに行けば出会うことはなかったろうし、出会ったとしても「つながり」に気付かなくても不思議ではない。
このつながりには何かがある。それはうまくいえないが、自然に対して熱っぽい思いをもち、調べることに没頭するような精神をもつ者、そして人の暖かい心根に弱いといった共通点があるように思う。その精神が前田禎三という人に濃厚にあった。そして、そのことが、この不思議なつながりを生んだように思う。あまり科学的な分析ではないがそんなことはどうでもよい。
前田先生、私たちは先生のようにはできませんが、世のつまらぬ規則や常識よりも大事なものをしっかりと見つめて生きていきます。どうか安心してお眠りください。
尊敬する先生が亡くなられ、偲ぶ会が開かれた。以下はそのときに書いたそのときの追悼文である。
<マエテイとの出会い>
前田禎三という名前は知っていた。私は東北大学で植物生態学を研究していたから、森林生態学の文献を読む中で何度かこの名前に出会い、記憶に残したのだった。その後、私の研究はシカのほうに傾いていき、シカの研究者として東京大学に移った。その研究室には林学関係の研究者がおり、前田禎三のことを「前禎」と呼んでいた。曰く、「豪放な人だ」、「大酒飲みだ」、「よく山を歩いた人だ」。中でも印象に残ったのは、秩父の演習林にいたとき、技官さんをつれて山に入ったとき、典型的な土壌プロファイルをみつけ、土壌を取り出すことにしたのだが、サンプルを入れる筒がない。そのとき前田先生は技官の人に向かって「おい、靴下を脱げ」といってその靴下に土壌サンプルをもって帰ったということだった。そういう話をするとき、誰もが困った人だというような表情をしながらも、決して威張って強引な人というのではなく、森のことが知りたくてそのためには夢中になってしまう、愛すべき人だという雰囲気だった。規則や形式を重んじて、やりたいことを遠慮するような研究者とは対極の人だということであろう。
ある集まりがあり、噂の「マエテイ」の話を聞いた。そのときもほろ酔い加減であったように思う。話が始まって2、3分で確信することがあった。先生が私と同じ米子の出身だということだ。
山陰地方は歴史が複雑で、町ごとに言葉が違う。同じ鳥取県でも頭部の鳥取市と米子市ではまったく違うし、そのあいだにある倉吉もまた違う。もちろんその西の松江に行けばさらに違う。私は父の仕事の関係でひっこしが多く、倉吉で生まれ、米子、松江、また米子にもどると転々とした。そのため、言葉に敏感になり、違いがすぐにわかるようになった。だから前田先生のことばは山陰というだけでなく、鳥取県というだけでなく、米子そのものだということが確実にわかった。懇親会になって先生に「先生、米子でしょう」といったら「なんでわかる?」と答えられた。どうやら自分は標準語を使っているつもりのようだった。「なんでわかったじゃないですよ、米子弁そのものじゃないですか」というと「そげなもんかなぁ」と来た。
それで意気投合して、「米子のどこだ?」「尾高町です」「ああ、あそこにはうまい蕎麦屋がある」「ああ、大黒屋ですね。あの蕎麦屋の借家に住んでたんです」「おお、そげか」という具合だった。
<金華山にて>
前田先生はブナ林の調査をしておられた。大規模な実験を含め、徹底した野外調査でそれまでわかっていなかった多雪地のブナ林のことを明らかにされた。後日奥様にうかがうと、若い頃は昼間は山で森林の調査をし、夕方、家に帰って夕食をとると、また演習林にもどって分厚いドイツの原典を読破するという毎日を送っておられたそうである。
私は宮城県の金華山でブナの天然更新とシカの影響を調べたことがあったので、一度金華山に来てくださいといった。遠いところだから、実現するかどうかわからなかったが、先生は身軽に来られた。金華山では黄金山神社という神社に泊まる。そこから山に登るのだが、金華山はけっこう険しいので、先生にはちょっと大変そうだったが、それでも実に楽しそうだった。金華山のブナにはいわゆるコワブナといわれる太平洋側の冬に乾燥する気候に適応的な葉が小さくつやのあるタイプのものと、多雪地である奥羽山地のものほどではないが、かなり大きめの葉のものが共存する。そのことの意味はわからないのだが、標本をとっておきたいと思っていた。前田先生にその話をすると、
「採れ」
と言われる。採れといわれても、ブナの木の枝には手が届かない。あれこれ挑戦してみたが、うまくいかないので、「また次の機会にしますよ」と言ったら、「乗れ」
と中腰になられた。
「先生、いくらなんでも先生の肩には乗れませんよ。私ががんばりますから、先生が私に乗ってください」と言ったものの、内心がっちりした先生を支えられる自信はちょっとなかった。
「ええけん、乗れ」
と語調が強くなったので、覚悟を決めて
「すみません、では」
ともちろん靴は脱いで太ももに乗り、それから肩に足をかけて中腰になって手を伸ばしたらなんとか採集できた。足の裏に感じるその肩はがっちりと鍛えられたものであることがわかった。
今思うと、登るときはよいが、降りるときどうしたのか覚えていない。たぶん途中でジャンプして着地したのだと思う。
宿に帰って風呂に入り、部屋にもどると、酒盛りが始まった。私はアルコールはいけないほうなので、おつきあい程度に舌をぬらしていた。神社に阿部さんという土産物の店番をしている人がおられるのだが、その人は私が泊まるときには、部屋に来ていろいろおもしろい話をしてくれた。その夜も阿部さんが来ていろいろ話にもりあがった。私が
「今日、先生の肩に乗ってしまったんですよ」
といったら、
「ハッ、おらが揉んでやっから」
と先生の肩もみを始めた。初めて会った人同士とは思えないほど打ち解けていた。
「おお、ええ気持ちだ」
といいながら、先生はコップ酒でぐいぐいと飲みながらご機嫌になり、そのうち大の字になって沈没してしまった。
<その後のこと>
その後ご無沙汰していた。ただ「前田つながり」はない訳ではなかった。私は学生の指導でオガサワラオオコウモリを調べに初めて小笠原に行った。そして小笠原の動植物を研究している鈴木創さんに会って大変お世話になった。その頃、スリランカから留学していたローズさん(ウダヤニ・ヴェラシンハ)と媒島の植物を調べるために土壌サンプルをとった。前田先生とは違って靴下に入れることはなかったが、私とローズさんで持てる量は知れたもので、多くを鈴木さんの剛力に頼ってしまった。鈴木さんと話をしていたら、宇都宮大学出身で前田先生の教え子だということで驚いた。
東日本大震災が起きたとき、私はアメリカの研究者から送られてきた「The Oak Tree(ナラの木)」という詩を訳したのだが、それは東北の言葉をはじめ、日本中の地方言葉に訳された。それを見た鈴木さんは便りをくださり、お父様はその詩を紙芝居風のすばらしい絵に描いてくださった。
2014年に毎年行っているモンゴルで調査をした。この年はいつもと違い、地下水の専門家が同行された。多田さんは体重が100キロを超える巨漢で、話がおもしろい。地下水の音が聞こえる機械を開発したといってモンゴルの地下水の「音」を聞かせてもらった。それは感動的な体験だったが、多田さんは針金をL字型に曲げて、それを持って手を伸ばし、針金を進行方向に向けて持って歩くように言う。そうすると驚いたことにその針金が突然クルリと横を向いたのである。何度やっても同じところで曲がった。私がキツネにつままれたような顔をしていると、多田さんは
「子供ならだいたい曲がります」
と褒めているのだか馬鹿にしているのだかわからないことを言う。
多田さんとペアの河合さんは物静かで黙々と作業をしており、地面に電極のようなものをたくさん挿しており、それで地下水の深さがわかるということだった。後でわかったのだが、針金が曲がったところの下には地下水位が高かった。河合さんは新潟大学におられるが、その前には鳥取におられて、そこで「前田さん」にお世話になったと言われる。
「鳥取の前田さん?」
私は事情がわからなかったのだが、あとでわかったのは、前田先生の息子さん(雄一さん)ということだった。この冬、鳥取大学に招かれて講演をしたが、そこで前田雄一さんにお会いできた。
<人の縁>
私は人の縁というものの不思議さを思わないではいられない。鈴木さんにしても、河合さんにしても、ましてや前田雄一さんにしても、まともに行けば出会うことはなかったろうし、出会ったとしても「つながり」に気付かなくても不思議ではない。
このつながりには何かがある。それはうまくいえないが、自然に対して熱っぽい思いをもち、調べることに没頭するような精神をもつ者、そして人の暖かい心根に弱いといった共通点があるように思う。その精神が前田禎三という人に濃厚にあった。そして、そのことが、この不思議なつながりを生んだように思う。あまり科学的な分析ではないがそんなことはどうでもよい。
前田先生、私たちは先生のようにはできませんが、世のつまらぬ規則や常識よりも大事なものをしっかりと見つめて生きていきます。どうか安心してお眠りください。