3年 秋元 悠佑
私には鮮明に思い出すことのできる風景があります。私は東京都の南、大田区の工場の多い土地で生まれ育ちました。私にとって「自然」とは公園の木々や街路樹などが主なものでした。でも、それを見て「これが自然だ」と思っていたわけではありません。それでも、そんな工場ばかりの場所で、唯一、自然を感じることのできる場所がありました。
それは祖父と行った多摩川の河口付近の土手でした。堤防を越えると、そこには小さな空き地があり、その周りにはたくさんの花やススキがありました。ガタガタの舗装されていない道を通り、川の近くの岩場にいき、よくそこで祖父とカニをとりました。幼かった私は
「暖かい日は動きが早い!」
「寒いとあんまりいないし、いても元気がない…」
「鳥に咥えられてる!食べられちゃう!」
などと感じました。そういう感覚は私にはとても新鮮であり、これが私にとって「自然」を感じることのできる唯一の瞬間でした。
ところが、最近、その土手は整備され、花の咲く空き地も、カニのいる岩場もほとんどなくなってしまいました。理由は住民の安全のためです。確かに、河川の増水を考えると、整備し、コンクリートで固めれば洪水を防ぐことができます。しかし、整備された土手を見た祖父は寂しそうでした。私も、自分にとって大切な風景を壊されてしまったことに落胆しました。
原生自然や珍しい動植物が存在する自然を守るのは多くの人が支持しますが、都市のささやかな自然は守る価値がないと考えられているのかもしれません。しかし、そのささやかな自然に対してかけがえのない思いを抱いている人もいます。「原生自然や珍しい動植物だから守る」、「都市部のささやかな自然だから切り開いてもよい」ではなく、どこにおいての自然でも、そこに存在することの様々な意味を考えてから、行動を起こしてほしいと思います。
私には鮮明に思い出すことのできる風景があります。私は東京都の南、大田区の工場の多い土地で生まれ育ちました。私にとって「自然」とは公園の木々や街路樹などが主なものでした。でも、それを見て「これが自然だ」と思っていたわけではありません。それでも、そんな工場ばかりの場所で、唯一、自然を感じることのできる場所がありました。
それは祖父と行った多摩川の河口付近の土手でした。堤防を越えると、そこには小さな空き地があり、その周りにはたくさんの花やススキがありました。ガタガタの舗装されていない道を通り、川の近くの岩場にいき、よくそこで祖父とカニをとりました。幼かった私は
「暖かい日は動きが早い!」
「寒いとあんまりいないし、いても元気がない…」
「鳥に咥えられてる!食べられちゃう!」
などと感じました。そういう感覚は私にはとても新鮮であり、これが私にとって「自然」を感じることのできる唯一の瞬間でした。
ところが、最近、その土手は整備され、花の咲く空き地も、カニのいる岩場もほとんどなくなってしまいました。理由は住民の安全のためです。確かに、河川の増水を考えると、整備し、コンクリートで固めれば洪水を防ぐことができます。しかし、整備された土手を見た祖父は寂しそうでした。私も、自分にとって大切な風景を壊されてしまったことに落胆しました。
原生自然や珍しい動植物が存在する自然を守るのは多くの人が支持しますが、都市のささやかな自然は守る価値がないと考えられているのかもしれません。しかし、そのささやかな自然に対してかけがえのない思いを抱いている人もいます。「原生自然や珍しい動植物だから守る」、「都市部のささやかな自然だから切り開いてもよい」ではなく、どこにおいての自然でも、そこに存在することの様々な意味を考えてから、行動を起こしてほしいと思います。