観察 Observation

研究室メンバーによる自然についてのエッセー

違い、段差と斜め板

2014-01-26 23:18:38 | 14
教授 高槻成紀

 私は、自分にはとくに意識しないと大勢に流されるところがあるような気がして、「このことは本当にこれでいいのだろうか」と意識的に考えるようにしている。動物や植物のことを考えるのが日常であり、そういう毎日を数十年も続けてきたせいか、違う動植物の違う生き方を好ましいと思えるようになってきた。そして私たちが当たり前だと思うことを、ひとつの動物の立場に立って考えたとき、それはどう見えるのだろうかと想像することがある。そういうことのひとつの到達点として「動物を守りたい君へ」(岩波ジュニア新書, 2013)の中で、地球を外側から眺めてみるという試みをしてみた。そうすると人間のしていることの理不尽さが見えるという気がするように思ったのだ。
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 機会があって、特別支援教育に熱心に取り組んでいる小学校を訪問することがあった。校長先生の映像を使っての説明で、最初に黒いブロックのようなものが紹介され、これはなんと書いてあるかと聞かれたが、まったくわからなかった。それはカタカナで「ココロ」と書いてあるのだが、背後が黒であるところに白い字でココロと書いてあり、本来黒いはずの外側が白くなっているために読めなかったのだ。この例を示すのは、視覚的認識の苦手な人はつねにこういう困難に向かい合っていることを説明するためだった。俳優のトム・クルーズがそうで、彼は例えばpとqの区別ができないという。日本の子供が文字を覚えるとき、例えば「の」を左右逆に書いたりするが、そのうち正しく書けるようになる。ところが文字認識が苦手な子は例えば「い」と「こ」がわからないらしい。そうなるとどうなるか。内容を考える前に字を読むことに集中してしまい、読み終わっても内容は頭に入らない。それを多くの人は「文字も読めないから頭が悪い子だ」と決めつける。
 トム・クルーズの場合、耳で聞いてセリフを覚えるのだそうだ。だから、これは文の内容が理解できないのではなく、文字という媒体を使った理解に困難があるということにすぎない。
 そういう事情を知らなければ、要するに「ひらがなさえ読めない子」と決めつけられ、叱られたり、馬鹿にされたりすることになる。それが重なればその子は国語の授業がいやになり、叱責する先生が嫌いになり、学校に行くのがいやになる。こうして心が荒れてくる。
 この学校ではそうした生徒に対して、文字認識が苦手であれば、声と絵で伝えるなどの工夫をしている。現場での問題は、そうすると必ず保護者から「授業のレベルを下げないでほしい」という要求や苦情が来るらしい。だがその先生は非常に明快に答える。
 「本質的によい授業をすれば、障害のある子も理解できるし、よくできる子にはさらに進んだ課題を出すことできめ細かい教育ができる」と。
 私はこの説明を聞いたときに、2つのことを思った。ひとつは、私たちが小中学校で受けた授業は、世間でふつうとされる、文字で伝え、口で説明するむずかしい表現方法をいち早くこなす子が「できのよい子」で、そうなることが成績のよくなることだという基準で指導されたのだと。先生はその表現方法だけが唯一の伝達法であり、それができない子は劣等生だと見ていたが、それは表現法の工夫が足りないのであり、生徒の一人ひとりを深く理解し、それぞれにふさわしい指導をすることをサボっていたのだと思う。教育は本来、一人ひとりの個性を理解し、それをふまえて能力を伸ばすことであるはずで、その意味では私たちの受けた教育はそれを果たしていなかったと思う。そういう教育環境では、障害のある子はほかにたくさんすぐれたものを持っているのに、その一事で劣等生というレッテルを張られ、誰にも理解されないのだから、劣等感を持つようになるのは当然であろう。
 もうひとつは、私が「野生動物と共存できるか」(岩波ジュニア新書)を書いたときに、多くの書評があったが、かなりのものが「子供向けの本なのになかなか内容がある」という意味のことを書いてあったことだ。こういう書評を書いた人は、子供向けの本はわかりやすい単純なことを書けばよいと思っているようだ。だが、私はまったく違う気持ちで書いた。伝えたいことははっきりとあった。それはかなりむずかしいことで、大学の生態学の教科書に載っているような内容もあった。でもそれは大切なことだから、子供にこそ伝えたいと思った。そのため、こどもが知っていることばで、明快な論理で、それが伝わるべき文章の構造を考えて書いた。それは大人に書くよりもはるかに困難な作業であった。「子供向けの本なのに」ではない。そうであるからこそ、たいへんであったのだ。
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 その学校でもうひとつ印象に残ったことばがある。
 「以前は健常な子供と障害のある子供のふたつがあって、大きな段差があるものとして、隔離するなどの指導をおこなってきたが、それはまちがいで、子供の能力は斜めの板のように連続的であって、どこかで不連続に分かれるのではない。」
 世の中、ものごとを白と黒に分けて、どちらかに類型するほうがわかりやすいことはたくさんある。しかし生物学を研究すると実感として感じるが、そういう性質はほとんどなく、生き物は連続に変化する。無理やり白と黒に分けようとしても必ず灰色がある。そうであるのに、私たちは安易に健常と障害というように二分したがる。そのことも安易なことであり、そうして色分けされることは恐ろしいことだと思う。
 私はこの段差と斜め板のことばを聞いて、自分の認識のなさに気づかせてもらった。そして生物学を研究していたのに、どうしてその当然のことに気づかなかったのだろうと恥ずかしくも思った。
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 話を冒頭に戻すと、視覚的認識に障害のある人は教室にたくさんの標語などがあると、すべてが目に入ってしまって、先生の説明するものだけに注目することができなくなるのだという。思えば私は自然の中にあるたくさんのものの中から、自分の見たいものを探し出す訓練をしてきたようなもので、見えるものの多くを見なくするのが習慣のようになっている。そういう感覚は人によってさまざまなのだ。思い当たることとして、私は私語がとても気になる。世間の平均的なレベルからすれば、相当はずれているであろう。だから講義のときに私語をする学生にはきびしく対応する。それもまた人によって違うことであり、それを知っているつもりなのに、それを講義のときの私語という個別のことに閉じ込めていた。人の感じ方にはさまざまものがあるという普遍的なことなのに。
 違う生き物に違う事情があり、できるだけそれを理解し、ふさわしい態度で接するということが保全生態学の最も重要な精神であると思う。そのことと、初等教育の現場でおこなわれていることに大きな共通点があることが、自分の中でつながったような気がした。