観察 Observation

研究室メンバーによる自然についてのエッセー

ホンモノなの?

2013-07-28 10:21:02 | 13.7
教授 高槻成紀

 7月下旬に乙女高原で地元の小学生の自然観察会のお手伝いをした。花と訪花昆虫のプログラムを予定していたのだが、あいにくの天気で午前の散策はできたが、午後に麻布大学が予定していたプログラムができるかどうかは微妙だった。
 そもそもこのプログラムは、乙女高原で長年保護活動をしてこられた植原先生が自分の小学校の生徒を連れてきたいと思っておられたことが実現することになり、それなら大学生に解説してもらうのがいいということになって進んだものだ。先生自身がすればもっとすんなりとできただろうに、あえて学生にまかせる姿勢に教育者の精神を見た気がした。また植原先生のような考えをもつ先生がいても、校長先生が許可しないということもよくあることで、それを許可して校長先生自身が参加しておられたことにもすばらしいと思った。
 「ロッジ」とよばれる建物で植原先生から説明があり、子供たちと乙女高原を歩くことになった。小雨だったが、子供たちは目を輝かせて観察していた。昆虫のことをかなり知っている子もいて驚いた。
 歩き始めて10分ほどで、植原先生のまわりに子供たちが集まって歓声をあげている。みると、先生がキノコをもっていて、こどもが「傘」の下の部分をさわったら、黄色から緑色に変色することを発見し、それをおこなっているところだった。「いいか、よく見ててね」といってさわると、本当に見る見る色が変化した。「わあー!」と大声があがる。大学にはない一体感だった。


 キノコを手に説明する植原先生(中央帽子)と子供たち

 その場所で、男の子が「骨をみつけた」といって持ってきた。シカの前足の骨だった。すると別の場所から「僕も見つけた」と別の男の子が蹄と指骨をもてきた。私はそれをポリ袋に入れさせ、持って帰るように言った。
 「ブナじいさん」と呼ばれるブナの巨木があり、そこについたとき、霧がかかって幻想的な雰囲気になった。小雨の中だから意気消沈してもしかたないのだが、説明に対する子供たちの反応はずっとよくて、散策が終わるまで維持されていた。好奇心があふれていた。


 「ブナじいさん」を取り囲む子供たち

 天気は快方に向かわないので、訪花昆虫のプログラムはできないと判断し、そのような場合のためにと準備していたシカ、タヌキ、サルの頭骨を使って説明をすることにした。というのは、ロッジの近くにあるウラジロモミがシカに剥皮されて枯れたものがあるので、それを観察させ、そのときにシカの下顎切歯を見せて有蹄類の歯の作りを説明し、それと肉食獣、雑食獣と比較させようと持ったからである。そのとき「ついでに」という感じでシカの後脚の交連骨格(骨をつないだ標本)をもってきていた。
 男の子二人が拾ってきた骨は、同一個体のもので、中足骨と中指骨とはぴったりと一致した。そのほかの指骨もつながりがわかり、滑車のような構造の動きを見せると子供たちの目が輝いた。子供たち全体に説明する前に、骨を拾ってきた子にバラバラの骨をあわせてぴったり合うのを見せたとき、その子が目をまん丸にしてことばがでてこなかったのがかわいかった。
 自分たちのうちの二人が拾って来た骨から草食獣の脚の構造を説明し、それから頭骨の説明につないだ。学生たちにとって、初めての体験だったが、よく説明してくれた。


  シカの頭骨の説明をする中村君(修士1年)

 その日の夜、植原先生から、雨のために予定が実行できなくて不本意だったこと、私たちががっかりしたのではないかと思いやったメールが届いたが、私にはむしろそれが意外だった。私たちは説明することばを真剣に聞いて反応してくれる子供たちのセンス・オブ・ワンダーに感激し、副次的に用意していた骨の説明がアドリブなのにとてもよいものになったことに心底満足していたからである。
 ただ、ひとつだけ気になったことがある。それは私たちの持参した骨をみて複数の子供が「これホンモノ?」と聞いたことである。おそらく今の学校ではすぐれた教材があり、すぐれているだけに本物とは見分けがつかないようなものがあるのだろう。そのことが結果として、子供たちに「教材って作り物なんだ」と思い込ませているのではないか。そういえば自動車の運転や飛行機の操縦、医学手術の実習などもよくできたバーチャルな画面で行うことができ、それは危険性などを考えれば有効であるに違いないのだが、疑似は疑似でしかない。そしてその疑似のできがよければよいほど本物との区別がつかなくなり、ついには本物を見たときに疑似品に似ているというアナクロニズムが起きる危険性がある。そう思うと、教育には本物を使うという大原則を貫くことがむずかしい時代になっているのだと思う。
 

スルメに食らいつく赤いやつ

2013-07-27 12:06:51 | 13.7
4年 千葉 琴美

 7月中旬、私は大和市にある「泉の森」という自然公園を訪れた。そこには大池と小池と呼ばれる2つの池からなる大和水源地があり、水は池の底から湧き出ている。水源から湧き出た水は全長21.3kmの引地川となって相模湾まで流れていくらしい。池には水車や架け橋などが設置され、コイやフナ、ウシガエルやハナショウブなどが見られた。市街地の傍らにこんな自然があることに驚いた。
 のんびり足を進め、浅く緩やかな小川にたどり着いた。水は透明で、底が見える。すでに多くの大人、子どもでにぎやかであった。リュックを下ろして準備に取りかかる。長さ40cmほどの枝を見つけ、その端に持ってきたたこ糸をくくりつけ、さらにそのたこ糸の先端に小さくちぎったスルメをはずれないようにくくりつけて準備完了だ。今度は場所決めだ。岩場のくぼみを狙い、しばらく待機していたが、なにも手ごたえはなかった。あらたな岩陰を探し、再度スルメを浸し待機する。しばらくすると、スルメが引っ張られた!いる!「やつはここにいるぞ!」一気に興奮が高まった。だが、何度かスルメが引かれる感触があるものの、なかなか姿を見せない。その状況に異様にどきどきしている自分がいた。
 きた!と感じた瞬間一気に引き上げると、今までにない嬉しい重みを感じた。ぷらぷらと揺れるたこ糸の先にあったのは、ふやけたスルメと「ザリガニ」である。
 ここで釣れるザリガニは、赤みがなくグレーで、5cmほどの小さな個体であり、釣れる数も少なかった。すでに子どもたちが持ち帰ってしまうからであろうか。
 このザリガニが釣れる喜びを胸に、次に訪問したのは相模原市の鹿沼公園である。ここの水生植物池という池にきた。浅い25mプールのような形状であり、夏にスイレンが花を咲かせる。この時は、そのつぼみでいっぱいであった。ここにはザリガニがたくさんいるようだ。閉鎖的で狭い場所なので、たくさん繁殖してしまうのかもしれない。
 さっそく例の竿を作り、念入りにスルメをくくりつけ、いざ池の中へ入れた。浅いが濁っていて水の中の様子はなにも見えない。間もないうちに手ごたえを感じた。ぐっと引き上げると赤いはさみが見えたが、すぐさま水の中へ消えていった。どきどきした。
 何度か繰り返していると、ひときわ引きの強い手ごたえがあった。今までにない重量感、そして水面に上がった真っ赤で大きなはさみを見て気持ちが最高潮に高まった。しかし、食らいつきはするのだが、なかなかうまく引き上げることができない。なぜ引き上げられないのか、どうすればいいのか考える。もどかしいが、このザリガニと自分との駆け引きがなんともおもしろかった。自分も引き上げるのに必死だが、ザリガニも水面から出ないようにスルメを手に入れるのに必死であるようだ。
何度も繰り返し、竿を引き上げたときに目の前にぶらさがっていものは、原形を留めていないスルメ。そして赤い大きなザリガニであった。



 待ちに待った御対面で本気で喜んだ。「お~すごい」と老夫婦の方、子どもたちに祝福されてさらに顔がにやけつつハイタッチをした。
 ザリガニ釣りをしたのは小学2年生以来であった。今回訪れた場所でもザリガニ釣りをしていたのはほとんどが幼稚園児から小学生の子であった。また、子どもたちと同じくらいお父さんが一生懸命であったというのも印象的だった。    
 ゲーム機などが増えてきたので、今どきザリガニ釣りで遊ぶ子どもなんてもういないのではないかと思っていたのだが、親子ともにザリガニ釣りを楽しみ、自然と遊んでいる光景を目の当たりにすることができた。幼少期にザリガニ釣りの魅力を知った親から子へ、ザリガニ釣りという遊びはまだ伝わっているものなのだと改めて感じた。
改めて思ったのは、こうして幼い時に身近な自然とふれあい、あれこれ感じたり考えることは、おもしろさや好奇心、思考力や探究心などを生みだし、感性をより豊かに育て、学ぶ、大切な機会だということだ。


努力の光

2013-07-26 12:13:42 | 13.7
3年 中川知己

 6月下旬の夜、私の目の前を淡い光が横切った。淡い光は森の奥へとふらふら飛んで行って消えた。それを見ていた子連れの家族はとても喜んでいるようだった。
 私の家の近所には、ゲンジボタルを見ることができることで知られている場所がある。私はこれまで行ったことはなかったが、幼いときにそこから少し離れた川でホタルの管理している方々に出会ったことがある。友人と遊んでいた私は「何をしているの」と声をかけられ、「ドジョウを捕っているの」と答えた。私に声をかけたその人は、「捕ってもちゃんと放してあげるんだよ」と言ってどこかへ行ってしまった。その方が着けていた腕章には「ホタルを守る…」と書かれていた。しかし、幼い私は捕まえたドジョウを放さずに持ち帰ってしまった。ドジョウについてよく知らなかった私は杜撰な飼育をしてしまい、その結果、ドジョウをカラスに食われてしまった。
 その時は、死んでしまって悲しいくらいにしか感じなかったが、大学生になり、長年にわたってトウキョウサンショウウオの保護活動を行っている方々とお会いしたときに、そのときのことを思い出した。注意を受けたにもかかわらず、自由に生きている生き物を自分勝手に持ち帰り、死なせた。そのことの意味をいま思い返してひどいことをしたのだと思う。
 6月下旬の夜に見ることができたゲンジボタルは、生き物の命を大切にする、こうした活動をしてきた人たちの努力の結晶だったのだとわかる。私の近くでホタルを見ていた子供連れの家族が「来年も絶対見に来ようね」と話しているのを見ながら、とても嬉しそうにしている管理者の方々がいた。今度はそちら側に立っていたいと私は強く思った。

ツバメ通り

2013-07-01 15:53:31 | 12
4年 鈴木里菜

 私の地元の駅には駅からスーパーなどが続いているアーケードのようなものがあります。夜中じゅうずっと明かりが灯り、人通りもそこそこあります。
 このような場所ですが、天井近くにはツバメの巣がたくさんあります。駅や店の人達は巣を取り払わず、糞除けの屋根を付けているだけなので、毎年春になるとツバメがやってきます。そして生まれた雛が大きな口を開けてピーピーと鳴いている姿を見て、声を聞くことが出来ます。今年も5ペア程のツバメが子育てをしていました。昼間は両親ともに飛び回り、そして雛たちは口をあけて餌をねだっていました。ピーピーとねだる声は日に日に大きくなり、ボサボサ頭もだんだんとちゃんとした羽の生えた頭に、黄色い口が目立つようになっていきました。しかし夜になると昼間のうるささはなくなり、巣はとても静かになります。両親も巣に戻ってきて、雛に覆いかぶさるようにして2羽がくっついて眠っていました。
 そんなツバメの子育てを見続けていましたが、今年はもう終わりのようです。雛たちはいなくなり、親もあまり飛び回らなくなりました。きっと、もう少しすれば親たちもいなくなるのでしょう。来年もちゃんと戻ってきて欲しい、また雛を見たい、そして飛び去った雛たちも無事に生きてほしいなんてことを思いながら今日も通りを歩いて家へ帰りました。


マレーシアで見た二つの「二つの世界」

2013-07-01 10:24:02 | 13.6
教授 高槻成紀

わずか10日ばかりではあったが、マレーシアの滞在は多くのことを見る機会になった。たいへんたくさんあるのだが、思いきって2つだけに絞ることにする。

<二つの世界:今と昔?>
 わずか数年前まで、海外調査というのは、日本の日常から「おさらば」することだった。成田から飛行機に乗ったときに感じる「さあ、これからしばらく電話も、メールも来ない。調査のことだけ考えればいいんだ。」というあの解放感はなんともいえないものだった。現にモンゴルの草原で調査をする毎日は文字通り日本からは何の連絡もなかった。あるはずもなかった。
 だが、今や少なくとも都市にもどればインターネットが使えて、連絡がとれて「しまう」。よいような悪いような気分だ。私の中では「ついていけない」感があることのひとつだ。
 東南アジアの経験は限られるが、タイやベトナムにはわりあい最近も行った。アジアの猥雑さがあり、昭和も戦後の空気につながるものがある。不潔さや不便さに「困ったものだ」といいながら、私の中にはほっとするような気持ちもある。マレーシアもそういう国だと勝手に思っていた。ところが道路のすごさに驚かされた。飛行場からクアラルンプールまではそうだろうと思っていたのだが、我々野生動物研究者はそこから田舎に出かけるのがつねである。そうすると急に道路が悪くなって「馬脚」があらわになるものだが、マレーシアではどこまで行っても立派な高速道路が続き、その料金所も休憩所もたいへん立派だし、アジア的「ごみ」がない。「あれれ?」という感じだ。そして日本で「ついていけない」感があるスマホの利用も日本と変わらないか、むしろもっと進んでいるようだった。電波の圏外は国境付近までなかった。
 調査用にフィールドステーションとして借りているアパートもたいへん立派で、もちろんネット環境も申し分ない。そうした中で調査に出かけた。アジアゾウの糞を採集するためだ。我々を受け入れてくれたチームは2週間おきに塩場(塩を含む場所で動物が舐めにくる)を訪問して、自動撮影カメラの電池を取り替え、カードを回収している。すばらしい映像がとれている。そのチームに同行してもらった。成果はまずまずだったのだが、書きたいのはそのことではない。調査のために現地の山中に宿泊したのだが、それは先住民の集落だった。先住民という呼び方は地元の研究者がindigenousといっていたからで、別の人は原住民(aboriginal)ともいっていた。いずれにしても微妙な表現だ。というのもマレーシアはそもそも多民族国家で、そのときに「多民族」というのは中国系、インド系、アラブ系などで、違いはあるが、それぞれに色々だという感じだが、先住民とか原住民というときは、それとはレベルが違うという響きがある。ともかく私たちはそういう集落に泊まることになった。その集落の幼稚園といわれていたが、公民館のようなもののようだった。高床式の板間の建物だった。人々が住んでいるのは竹とヤシで作った簡素な家だ。そこには子供たちがたくさんいて仲良く遊んでいた。マイケル÷ジャクソンが子供だった頃に髪を丸くしたヘアスタイルが流行ったことがあるが、ああいう髪をした子供たちがいて実にかわいらしかった。違う年齢の子供たちが追いかけっこをしたり、じゃれあったりして、そこに犬の群れも混じって遊んでいた。朝から晩までそうしているようで、太陽が高くなって暑くなると、目の前にある川に飛び込んで遊んでいた。ヤムイモなどを作るくらいで穀類は作っていないようだった。魚釣りもしていた。



 日本は社会の発達が遅かった国のひとつだが、それでも2000年くらい前には農業を始めていた。この人たちはそれからさらに数千年くらい前の日本人の生活をしているはずだ。中国あたりとくらべると1万年くらい違うかもしれない。「なつかしい」どころではない。
 そこで3日過ごして船で2時間、車で半時間も走ればネット環境のあるフィールドステーションに戻ってしまった。これはどうにもことばで表現しにくいギャップだった。たまたま飛行機でジャレド・ダイアモンドの「銃・病原菌・鉄」(その物語の始めはこの人たちと同じ系統のニューギニアの人たちとの話から始まり、マレー半島のことも詳しく出てくる)を読み終えたところだったので、よけいに生々しい印象を受けたし、子供たちの将来のことが思われた。

<二つの世界:東西>
 もうひとつは調査員たちの意識と態度のことである。私は麻布大学に来る前に東大で大学院生を指導しており、何人かの留学生を指導した。私は戦後しばらく生まれで、私の親世代は戦争体験者で、満州にいた。民間人ではあったが、大陸に侵略したことになる。私が最初に指導した留学生はその満州から来た人だった。そして自分がモンゴルに行き、スリランカの留学生を迎えるなどする過程で、親の世代とは違い、自分たちは平和な時代に育ったのだから、研究活動を通じてアジアの若者を育て、彼らの母国に役立ちたいという夢のような気持ちが生まれてきた。その夢の実現が実感された瞬間が何回かあった。
 スペインから留学してきたアイムサさんもその一人で、彼はスリランカでアジアゾウの研究をし、今はマレーシアの大学の准教授になって大きなプロジェクトをリードしている。そのプロジェクトに研究室の山本さん(修士2年)が参加することになった。そういう意味では山本さんは私の弟子でもあり、「孫弟子」でもあるといえるかもしれない。熱帯林をマレーシア、イギリス、スペイン、スウエーデン、日本の若者と歩き、そのあとアイムサさんと相談したときに、自分の夢が実現できていると感じることができた。
 その調査に参加した若者たちには、院生もいたし、これから大学院に入る人もいた。いずれもゾウの研究に打ち込んでおり、目が輝いていた。日常生活も責任感があり、チームスピリットにあふれていた。私は日本の学生との違いを思わないではいられなかった。



 実はほんの少し前に学生と自主性について話をしたことがあった。私は、大学生は研究に対して自主的でなければならないと主張し続けている。当然のことである。だが、この数年、そのことが通じないという感じが強くなっている。ある学生にとって、自主性というのは「研究活動に参加しなくてもいい」という意味であるというのである。開いた口がふさがらない。日本の大学はここまで来てしまったのだ。
 私はアメリカに一年ほど過ごしたことがあるので、アメリカの学生が自主的であることを多少知っている。その後、国際学会などでヨーロッパの学生と話をする機会があり、「やはり」と感じることが多かった。そして、「これは東西の違いだろう」と思い、自分の責任も感じつつ、日本の教育体制の結果だと思ってきた。そのときの日本はアジアという意味だった。
 だが、今回感じたのはそれがまったく違うということだった。マレーシアの若者たちはヨーロッパの若者と同格かあるいはそれを上回る配慮を見せていた。体力もそうだが、研究に対する情熱と意識の高さがすばらしかった。違いは洋の東西にあるのではなく、日本の学生だけが違うのかもしれないらしいのだ。これはえらいことだと思った。

 このほかにも、熱帯林で見たこと、マレーシアで食べた中華料理のこと、ネットのおかげで30年ぶりの旧友に会うことができかことなど、盛りだくさんの書いておきたい体験をしたのだが、この二つは衝撃的ともいえるものだった。