教授 高槻成紀
生物の標本について思い返すと、私は少年時代に昆虫採集をして、標本を作ることに熱中した。いっしょに昆虫採集をしていた友達は中学生になると減り、高校生になるとほとんどいなくなったが、私はずっと持続していた。大学生になって植物標本を作ることを教わり、興味をもって標本作りをした。大学院生になって専門的な研究をするようになり、1970年代から金華山でシカの生態学的調査を始めたが、とくに標本を集めることはしなかった。しかし1984年にシカの大量死が起きたとき、これは研究者としてもう一度はないことだと思い、大量のシカの頭骨標本を集めて、見よう見まねで標本を作った。同時に岩手県五葉山ではハンターの協力を得て、駆除されたシカの頭骨標本を作った。カモシカの調査をする機会もあり、それらも集めていた。
標本を研究に使うと意識をしたのは大量死の死亡集団で、それ以外は「生物学者としての最低限の仕事」といった意識で機会をとらえては標本を確保していたように思う。
縁は異なもので、大学博物館で仕事をすることになった。私に期待されたのは標本集めではなく、生態学を博物館に導入することではあったが、そのためにも標本は最大の武器であることを自覚した。
その職場である東京大学総合研究博物館には明治以来の貴重は標本がたくさんあり、触るときに身が引き締まる思いがしたものだ。太平洋戦争が激しさを増すころ、本郷が爆撃を受ける危機感が強まった。結果としてアメリカ軍は重要な文化施設は爆撃対象から外したのだが、日本側はそうは考えていなかった。そのため、標本を「疎開」する動きがあった。研究者や学生が標本をもって田舎に移動させたのだ。私はその話を聞いてとても感動した。標本を疎開させた人たちの思いは「今、直接何に役立つということではないが、これらの標本は過去の研究者が苦労して集めたもので、それを大学が保管してきた。この先、戦争が終わったとき、また研究に使われるだろう」といったものであったろうと想像する。
学生の頃、植物分類学を志す友人と話をしていてとき、私が生態学や行動学に興味をもっていると言ったら、「行動は標本に残らないからな」と言ったことばが印象に残っている。その人は後に研究者になったが、たとえばラベルをボールペンで書く学生に「ボールペンのインクは百年後に消えてしまうかもしれないだろう」と言っていた。考えている時間が違うなと思った。
昭和三十年代にセロテープが発売されたとき、植物標本を作ってきた人は画期的なものが出たと喜んで使ったという。それまで紙を短冊に切って、アラビアのりでいちいち貼付けていた作業が多いに簡略化されるからである。しかし数年たったらセロテープの粘着部は変色し、剥げてしまい、使い物にならないものになってしまった。その点、明治時代の標本は和紙で貼られており、しかもラベルは筆で書かれているからよい状態で保持されている。
こうしたことから思うのは、学問の継続性ということと、それにおける標本の価値ということである。私たちにとって二、三十年は短いとはいえないが、ヨーロッパの博物館の標本は三百年程度の歴史を持つものはざらである。私はシーボルトが日本で採集した植物標本が数年前に里帰りをしたとき、不思議な感動を覚えた。有名なアジサイは「Hydrangea otaxa」と名付けられたが、種小名の「otaxa」はオタクサで、奥さんの「お瀧さん」から来ている。その標本はよい状態で保管されていた。この標本と同じ株は、日本では子孫を増やしたか、枯れてしまったかわからないが、この個体そのものは時間がとまっている。標本には狭義の生物学的使用とは別に、こういうことを考えさせる力ももっているように思う。
なぜ、こういうことを書いたかというと、今回スペインからリヴァルスさんが来日したのだが、その理由が1984年の金華山大量死の標本を見に来たいというものだったからである。私のシカの食性や大量死の記録の論文を読んで来日したのだが、動物の大量死は考古学的にきわめて価値があるらしい。しかし、その記録はあっても標本が伴っていないことが多いのだそうだ。大量死の標本は、それが実現されていた、世界的にも数少ない例なのだと言われて、ありがたいような、くすぐったいような思いがした。そして「やはり、集めておいてよかった」と思った。自分の研究は論文に書いて一件落着の思いがあったが、標本があったことが、ほかの人の研究に役立ったというのは研究者としてうれしいことである。
もうひとつある。最近、ある集まりに行ったら「高槻さん、ヒマラヤでいい標本をとってくれてましたね」と言われた。たしかにヒマラヤの植物調査に参加して、山登りと標本集めに明け暮れたことがあったが、名前は専門家が調べて、標本はボランティアの人が作ってくれたものだ。そういう意味では生態学者は標本の近くにはいても、標本と直接対峙していはいない。それでも標本は見る人が見れば、意味をもってくれる。思えば、私の書いた論文はそのうち過去のものになるだろうが、残した標本は半永久的に残るはずである。
あらゆる研究は新たな発見を目指している。つまり研究者の目は未来を向いている。しかし、それは過去の蓄積の上にあるのであり、現在の研究は過去への敬意なしにはありえない。標本はそのことを具体的に教えてくれるものであるように思う。そんなことを考えながら、日夜、とまではいえないが、時間をみて標本作りに励んでいる。
最近作った標本
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1d/ce/0e1b5ab143e19adb9a509c344f46f0bb.jpg)
ライオン
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/41/13/88bdc37f4ad7b6c8d74042c091f2a761.jpg)
アムールトラ
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/34/8d/5fceb352a08ad8e2d95f9283916d57cb.jpg)
ブタ(デュロック種)
生物の標本について思い返すと、私は少年時代に昆虫採集をして、標本を作ることに熱中した。いっしょに昆虫採集をしていた友達は中学生になると減り、高校生になるとほとんどいなくなったが、私はずっと持続していた。大学生になって植物標本を作ることを教わり、興味をもって標本作りをした。大学院生になって専門的な研究をするようになり、1970年代から金華山でシカの生態学的調査を始めたが、とくに標本を集めることはしなかった。しかし1984年にシカの大量死が起きたとき、これは研究者としてもう一度はないことだと思い、大量のシカの頭骨標本を集めて、見よう見まねで標本を作った。同時に岩手県五葉山ではハンターの協力を得て、駆除されたシカの頭骨標本を作った。カモシカの調査をする機会もあり、それらも集めていた。
標本を研究に使うと意識をしたのは大量死の死亡集団で、それ以外は「生物学者としての最低限の仕事」といった意識で機会をとらえては標本を確保していたように思う。
縁は異なもので、大学博物館で仕事をすることになった。私に期待されたのは標本集めではなく、生態学を博物館に導入することではあったが、そのためにも標本は最大の武器であることを自覚した。
その職場である東京大学総合研究博物館には明治以来の貴重は標本がたくさんあり、触るときに身が引き締まる思いがしたものだ。太平洋戦争が激しさを増すころ、本郷が爆撃を受ける危機感が強まった。結果としてアメリカ軍は重要な文化施設は爆撃対象から外したのだが、日本側はそうは考えていなかった。そのため、標本を「疎開」する動きがあった。研究者や学生が標本をもって田舎に移動させたのだ。私はその話を聞いてとても感動した。標本を疎開させた人たちの思いは「今、直接何に役立つということではないが、これらの標本は過去の研究者が苦労して集めたもので、それを大学が保管してきた。この先、戦争が終わったとき、また研究に使われるだろう」といったものであったろうと想像する。
学生の頃、植物分類学を志す友人と話をしていてとき、私が生態学や行動学に興味をもっていると言ったら、「行動は標本に残らないからな」と言ったことばが印象に残っている。その人は後に研究者になったが、たとえばラベルをボールペンで書く学生に「ボールペンのインクは百年後に消えてしまうかもしれないだろう」と言っていた。考えている時間が違うなと思った。
昭和三十年代にセロテープが発売されたとき、植物標本を作ってきた人は画期的なものが出たと喜んで使ったという。それまで紙を短冊に切って、アラビアのりでいちいち貼付けていた作業が多いに簡略化されるからである。しかし数年たったらセロテープの粘着部は変色し、剥げてしまい、使い物にならないものになってしまった。その点、明治時代の標本は和紙で貼られており、しかもラベルは筆で書かれているからよい状態で保持されている。
こうしたことから思うのは、学問の継続性ということと、それにおける標本の価値ということである。私たちにとって二、三十年は短いとはいえないが、ヨーロッパの博物館の標本は三百年程度の歴史を持つものはざらである。私はシーボルトが日本で採集した植物標本が数年前に里帰りをしたとき、不思議な感動を覚えた。有名なアジサイは「Hydrangea otaxa」と名付けられたが、種小名の「otaxa」はオタクサで、奥さんの「お瀧さん」から来ている。その標本はよい状態で保管されていた。この標本と同じ株は、日本では子孫を増やしたか、枯れてしまったかわからないが、この個体そのものは時間がとまっている。標本には狭義の生物学的使用とは別に、こういうことを考えさせる力ももっているように思う。
なぜ、こういうことを書いたかというと、今回スペインからリヴァルスさんが来日したのだが、その理由が1984年の金華山大量死の標本を見に来たいというものだったからである。私のシカの食性や大量死の記録の論文を読んで来日したのだが、動物の大量死は考古学的にきわめて価値があるらしい。しかし、その記録はあっても標本が伴っていないことが多いのだそうだ。大量死の標本は、それが実現されていた、世界的にも数少ない例なのだと言われて、ありがたいような、くすぐったいような思いがした。そして「やはり、集めておいてよかった」と思った。自分の研究は論文に書いて一件落着の思いがあったが、標本があったことが、ほかの人の研究に役立ったというのは研究者としてうれしいことである。
もうひとつある。最近、ある集まりに行ったら「高槻さん、ヒマラヤでいい標本をとってくれてましたね」と言われた。たしかにヒマラヤの植物調査に参加して、山登りと標本集めに明け暮れたことがあったが、名前は専門家が調べて、標本はボランティアの人が作ってくれたものだ。そういう意味では生態学者は標本の近くにはいても、標本と直接対峙していはいない。それでも標本は見る人が見れば、意味をもってくれる。思えば、私の書いた論文はそのうち過去のものになるだろうが、残した標本は半永久的に残るはずである。
あらゆる研究は新たな発見を目指している。つまり研究者の目は未来を向いている。しかし、それは過去の蓄積の上にあるのであり、現在の研究は過去への敬意なしにはありえない。標本はそのことを具体的に教えてくれるものであるように思う。そんなことを考えながら、日夜、とまではいえないが、時間をみて標本作りに励んでいる。
最近作った標本
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1d/ce/0e1b5ab143e19adb9a509c344f46f0bb.jpg)
ライオン
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/41/13/88bdc37f4ad7b6c8d74042c091f2a761.jpg)
アムールトラ
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/34/8d/5fceb352a08ad8e2d95f9283916d57cb.jpg)
ブタ(デュロック種)