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観察 Observation

研究室メンバーによる自然についてのエッセー

気付く、気付かれる

2012-07-30 08:35:01 | 12.7
気付く、気付かれる

4年 小島香澄

 今年の春、ポピーが咲いていることに気付いた。ポピーが満開になってアジサイが咲いた。思えば去年も一昨年も同じ通学路を歩いて同じ景色を見ていたはずなのに、花が咲いたことに気付く自分に気付いたのは初めてだったかもしれない。



 親睦旅行で覚えたミズヒキという植物を乙女高原でも見付けた。授業で覚えたギンリョウソウも乙女高原にあった。きっとこれらの植物は今までの調査でも見てきたはずだが、ポピーやアジサイと同様に存在を認識したのは初めてだった。



 植物を通して季節の変化を捉えられたこと、覚えた植物を故意に探そうとしたわけでもないのに別の場所で発見できたこと、どちらも今までの自分にはなかったことだと気付いて嬉しくなった。同時に、彼らに申し訳ないような気もした。ずっとそこにいたのに気付いてもらえない、それはとても寂しいことなのではないだろうかと。いや、気付かれないのは当たり前なのだから、私が気付いたことに彼らは驚くのだろうか。
 このような擬人化をして勝手な想像を膨らませていたときに思い出したことがある。10歳ほど年の離れた小学生の従妹が将来の夢について書いた作文のコンクールで都道府県から表彰された話である。その作文の内容は「獣医になりたい」というものであった。従妹の母親が言うには、どうやら私が動物関係の勉強をしていると知って憧れの気持ちから獣医になりたいと思い、その作文を書いたらしい。それを知って驚いた。普段は話しかけても照れて親の後ろに隠れてしまうような子が私のことをそんなふうに見ていたとは思ってもいなかったからだ。しかし驚いたと同時に嬉しさもあったので「本当に獣医になって将来は一緒に動物のお仕事しようね」と言った。従妹は文字通り目を丸くしてやはり母親の後ろから私を見ていた。
 このことがあってから、人は気付かれないところで実は見られているのだと思うようになった。誰がどこでどんな影響を与えているか分からない。それと同じで、私に気付かれた植物たちもあのときの私のように驚き、嬉しくなっているのだろうか。そうでなければ人に気付かれたときはどんな気持ちなのだろうか。この疑問に答えはいらないのだが、調査に行くと、どうしても動植物を研究対象という視野で見てしまいがちだ。しかし、そのときに自然を少し別の視点で観察してみるのも楽しいことだ。また、何気ない観察でも気付くことがあり、そこから考えられることがあるもので、それもまた楽しいと改めて思った。

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