観察 Observation

研究室メンバーによる自然についてのエッセー

カヤネズミとアライグマ、ジョンと正男

2013-10-25 23:10:18 | 13.10
教授 高槻成紀

 モズとかコイ、カヤとかスギのように短い生き物の名前はよいものだ。その生き物のことをひとことでいいあらわしていて、私たちは覚えるしかない。それにくらべるとモンシロチョウとか、ナガハシスミレなどは説明っぽくなる。ひどいのになると、セイタカアワダチソウノヒゲナガアブラムシというのもある。そもそもセイタカアワダチソウというのだけでも、泡が立つように花が咲く草の背が高い草という意味で、その草につくアブラムシで、ヒゲが長いやつということで、これを命名した人はものの名前をどう考えているのはいぶかしく思う。調べた範囲で最も長いのは、エンカイザンコゲチャヒロコシイタムクゲキノコムシというのがあるそうだ。ほとんど意味がわからない。エンカイザンは地名であろうか。焦げ茶は色。最後のムクゲキノコムシは、ムクゲという植物があるからそれにつくキノコムシかあるはムクゲ色をしたキノコムシかなのだろう。わからないのはヒロコシイタだ。ヒロコシは腰が広いであろうか。イタはなんだろう。
 なんとかモドキというのもよくある。モドキとは似て非なるものという意味である。アゲハモドキというのがいるが、どうしてもアゲハが本物で、それに似た亜流という感じがしてしまう。ゴミムシダマシなどというのもいる。ゴミムシだってちょっとどうかと思う名前だが、そのゴミムシと似ていて、だますようだというのだからひどい。別にこの虫がだましているわけではない。もしこちらが最初にみつかっていて、たとえばブンカイムシという名前がついていたら、ゴミムシのほうががブンカイムシモドキとなっていたかもしれない。

 最近カヤネズミの研究者からすばらしい論考が届いた。その人の徹底的な野外調査によると、カヤネズミはよく知られるようにススキなどの「茅」に球状の巣を作るが、それだけでなく地表近くにも地上にも巣を作るし、ススキだけでなく背の低いイネ科でも、イネ科でない植物でも使って巣を作るという。重要な指摘は、調査者が調査をするとき、「くまなく」といっても、どうしても人の目の高さを中心に見ることになるから、高いところと低いところに同じ数の巣があっても、高いものがよく見つかってしまう問い雨点である。そういう調査精度の偏りはある程度避けがたいにしても、そのときに「カヤネズミは高いところに丸い巣を作るものだ」という先入観が「やっぱりあった」と思わせるとか、低いところにある巣を見つけたときに「これは例外的だ」と思うことはありうるだろう。つまりそういう先入観は結論ではなく結果そのものにもバイアスを生むということである。
 この文章には、日本ではカヤネズミはススキに営巣するのが「正常」であり、外来の牧草に営巣すると特殊なことだとされるが、カヤネズミは同種がユーラシアに広く分布しており、ヨーロッパのカヤネズミにとってこれらの牧草は「外来」ではないと、ウィットも含んだ見事な批判をしている。

 この3月に卒業した久保薗君が横浜市で駆除されたアライグマの腸内容物を百以上分析してくれた。アライグマは水辺にいて食べ物を前足で洗って食べるというイメージがあり、水生動物群集に強い影響を与えているといわれるから、甲殻類や魚類などが出て来るものと予測していた。ところが実際分析してみたら、ごくわずかしか検出されなかった。少し具体的に書くと、魚類が春 に頻度 3. 0%、占有率 0. 2%、甲殻類が春に頻度 3. 0%、占有率 0. 1%、貝類(軟体動物)が夏に頻度 3. 4%、占有率 < 0. 1%という具合である。サンプル数が30くらいだったら、まったく出ていなかったかもしれない。私は久保薗君にやや執拗に「ほんとにないの?」と念を押したが、いつも「ありません」という返事だった。そこで海外の論文を含めてアライグマの食性分析の論文を読んでみたら、水生食物を食べている例もあるが、果実食あるいは農作物を食べている例が多かった。また水生動物群集への影響が大きいといわれるが、それを量的に示した論文はみつからなかった。それで考えたのは、自分が「アライグマは水生動物を食べるものだ」という先入観にとらえられていたということだった。

 「カヤ」ネズミというくらいだから茅場にいて茅に巣を作るに違いない。「アライ」グマというくらいだから食べ物を洗って食べるのだろう。そういう先入観をもつのが、もし名前から来ているとすればこれは大問題であろう。生物学的に調べられた情報が限られていたために偏ったイメージをもってしまったということはありえるが、名前にイメージを引きずられるのはまずい。
 ある人と話をしていたら、欧米人からすると日本人は名前が多すぎるらしい。英語文化圏であればだいたいは聖書に出て来る聖人などの名をとってジョンとかチャールズとかいう既存の名前を「選ぶ」のだそうだ。ジョンはヨハネで「岩」という意味だから、頼りがいのある男というイメージか。だが、日本では子供が生まれればどういう名前をつけるかは、親にとって大問題であり、楽しみでもある。とくにどの文字を使うかに大きな関心が払われる。あるものから選ぶというのとはほど遠く、むしろ「創作」に近い。同じマサオでも正男と誠夫、勝雄ではかなりイメージが違う。マサオは時代遅れだが、最近では彩花とか絵里菜など、ひとつひとつの漢字のイメージを組み合わせたものが多いようだが、親がいろいろ考えてよいイメージの名前にしたいと願うという意味では時代を超えて共通である。そこにはよい名前をつけることが子供の人格に影響を与えるかのような思いがある。
 昔の日本人は名前を尊んだ。成長にともなって名前を変えた。名前が変わると人が変わるのか、人が成長すればふさわしい名前になるのだかわからないほどだ。今でも歌舞伎や落語では襲名ということが残っているが、市川団十郎という名前の存在があって、その名前にふさわしい人がそれを名乗れるということは、人よりも名前のほうが存在が大きいということであろう。現に襲名した人が「名に恥じぬように精進する」などという。古い日本人にとって名前は符号などでは毛頭なかった。
 今はそれほどではなくなったとはいえ、たとえばビジネスマンが名刺をうやうやしく押し頂くなどというのは、ただの紙切れにその人の、大げさにいえば命が宿っているかのごときである。こうした行為は名前を軽んじては失礼だということであり、名前に対するアニミズムを象徴しているようだ。
 もしそういう日本人の名前に対する感覚が世界標準よりも強いがために、カヤネズミは茅に球巣を作るはずだとか、アライグマは水生動物を洗って食べるはずだと先入観をもつようなことがあるとすれば、科学をする者としてよほど気をつけなければならないということになる。</font>

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