観察 Observation

研究室メンバーによる自然についてのエッセー

哀しみ 高尾山トンネル裁判に思う

2012-07-30 08:30:44 | 12.7
高尾山にトンネルを通す工事に反対する運動が敗訴したという。貴重な自然ではあるが、住民の利便性のほうを優先すべきだというのが判決趣旨らしい。これだけ自然を破壊し、それはよくないということはもうわかっていたのではなかったのか。
 私は山陰のいなかで育ち、仙台で大人になり、四十歳を過ぎてから東京に来た。東京の自然のなさは覚悟していたから、残された自然は東北の自然にくらべてみすぼらしいという印象があった。だが、実際に暮らしてみて感じたのは、「ある意味で、東京のほうが自然を守ろうとしている」ということだった。仙台では意外と大胆に郊外の森林が伐採されたり、丘が宅地化のために削られるということがある。それでもまだ周りにいくらでも残っているから、という感じがある。その自然に比べれば東京の残っている自然は貧弱なものだが、たぶんそうであるから、これだけは残さないといけないという気持ちがあるように感じた。それを知って「失ってその価値に気づくということがあるのだろう」と思った。自分たちは戦後の経済復興の時代に自然を食い物にして利便性を享受してきた、だけどこれ以上は破壊してはいけない、残った自然はささやかでも最後の砦として残してゆこう、そういうことだと思ってきた。
 高尾山は山陰に育った私にとってさえ特別な存在だった。思えばおかしなことなのだが、私は豊かな自然の中に暮らしながら、高尾山にあこがれていた。小学生のころに「小学++年生」という雑誌と「++年の学習」というのを読んでいた。そうすると必ず「高尾山に行くとこんな昆虫がいます」と書いてあって、中央線という電車に乗って行くとたくさん昆虫が捕れると書いてあったからだ。私は高尾山とはどんな山だろうとあれこれ想像して胸をときめかせていた。
 東京に来て、高尾山に行ってみたが、冷ややかな気持ちでいた。「いくら知名度が高くても、たかが東京の小さな山だ、たいしたことはない」という思いがあった。実際そうだったのだが、そうでもないこともあった。高尾山よりも東側の平坦値と比べると、確かに格段にスミレの種類が多い。徐々にではなく劇的に植物相が豊かになるのだ。
 東京は自然の犠牲の上に繁栄し、それだけに残った自然を大切にしている、その代表である高尾山はさらに特別である、その高尾山にこともあろうにトンネルを通そうとしている。これは流れとして、「これまでの繁栄至上主義を見直して高尾山だけは残そう」となるべきであろう。だが、そうならなかった。高尾山の保護団体が都民を代表しているとはいえないにしても、都道府県レベルの意見が国レベルでつぶされるという例のひとつなのであろう。国を動かすのも人である。この国ではこういう判断をする人たちが国を動かしているのである。
 それにしても、と私は思う。こういう愚かな判決であろうと、それに抵抗した人がいたことは記録に残る。その良心は日本の自然保護シーンに記憶されるであろう。だが、高尾山にすむ動物やそれを支える植物たちは何も知らないで今日も懸命に生きているだけである。意見の違う相手に「多数民の利便のほうが優先される」と言って勝ち誇るのはひとつの約束事としてありえることかもしれない。だが、もの言わず懸命に生きる動植物の生命を、宣戦布告もしないで奪うことに正義は見いだせない。自分がその傲慢な側にいるという事実が動かしようのないことがつらい。虫でも花でもいい、助けてくれと語ってくれればまだましなのだが、そうしてくれず、そのまま消滅してゆくのが哀しい。

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