これは、井上井月(せいげつ、本名・井上克三、1822-1887)の書とされている。後に芥川龍之介をして「入神と称するを妨げない」とまで言わしめた人の書である。
井月にすれば酒のためとはいえ、こういう他人の句(本人作も一句ある)の寄せ書きなどは体力も要るし、あまりしたくなかっただろう。だからこの種の物はあまり残ってはいないらしい。よく読めないから吟味するだけの域に至っていない。
俳句に関心がある人なら恐らく井月の名くらいは知っていると思う。映画にもなったし、つげ義春はそれよりも余程早く、かなり正確な井月像を漫画で描いている。出自は長岡ということだが、はっきりとしない。諸国を行脚した際に綴った「越後獅子」や、彼を知る古老からの話によるようだが、武田耕雲斎が率いる水戸の天狗党の中に誰か知る者がいたとの話も聞く。ともかくも、伊那谷に30年ほどの長きを漂白できたのだから、寒い土地の生れではあろうが、長岡ではない可能性まで考えてみることもある。
幕末期を江戸に学び、これだけの書をものし、数々の佳句を残し、漢詩においても才気を見せたという。長岡藩は大藩であるが、それでもこれだけの人の生誕地での消息が、いまだに不明というのは不思議過ぎる。「あれだけにすぐれた風格と天分と学識を持ちながら末路蕭条として枯野の旅路に斃れた」(「信濃の俳人」、小林郊人著、昭和19年刊)とし、「怒ったところや婦人に戯れたと云うことを聞かない」とも書く。
伊那谷に暮らすようになっての半生、俳句と書を方便(たつき)とした、などと言えるだろうか。むしろ無職渡世の風狂を生き、最後は糞尿にまみれた行き倒れの姿が明治19年師走某日、伊那村(駒ケ根市)の火山峠の麓、冬枯れの田の中で発見された。虫の息も同然だったという。(つづく)
きょうも一日寒い。「伊那谷に30年ほどの長きを漂白できたのだから」と書いたのは、着の身着のままの身で、この土地の冬の寒さに耐えたことを言ったわけだが。これから井月の墓を訪い、火山峠まで足を延ばす。
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