前の記事に続いて、日曜礼拝についての私見です。
イースターやクリスマスと同様に日曜日に礼拝するのは「習慣」にすぎません。日曜日を指して「安息日」という言葉を使う教会やキリスト者もいますが、安息日が「週の七日目」から「週の初めの日」に変更されたなどとは聖書のどこにも書かれていません。
イエスをメシアと信じるユダヤ人「メシアニック・ジュー」たちは、土曜日の安息日に礼拝をささげています。
キリスト教でも、カトリックではなく東方教会のでは、土曜日を安息日としていると聞きます。また無教会主義の人たちで、紀元1世紀のキリスト者たちに倣って土曜日に集会を行う人たちもいます。
セブンスデーアドベンチスト(以下SDAと略します)の教会も、聖書のとおり土曜日に礼拝をささげているそうです。(SDAの教会のWEBサイトなどで「なぜ土曜日なのか」という説明がされているところがあります。なお、キリスト教の中にはSDAの異端性を問う声もありますが、ここでは礼拝と安息日のテーマについてだけ扱っています。)
(Wikipediaによると、イスラム教はムハンマドがメッカを脱出した金曜日を安息日としているそうです。モーセ五書の土曜安息日をどうとらえているのかはよくわかりません。これは自分への宿題。)
もし、「礼拝するべき日として定められているのはいつなのか」という問いであるなら、上に上げた人々のように土曜日に礼拝するのが正解で、その他の(つまりローマカトリックの流れを汲む)教会は間違い、ということになるでしょう。
でもそれ以前に、「礼拝するべき日として定められているのは」という問い自体が不成立なのではないでしょうか。
律法には、十戒の安息日規定も含めて613の戒律があるのだそうですが、使徒言行録(使徒行伝)15章に記録されている使徒たちの論争(以下「エルサレム会議」と呼びます)において、異邦人キリスト者が守らなければならない戒律は「偶像に献げられたものと、血と、絞め殺した動物の肉と、みだらな行いとを避けること」だけになったからです。
「エルサレム会議の決定は人間によるものではないか。それによって、神がさだめた旧約律法が変更されうるのか。」という疑問があがるかもしれませんが、エルサレム会議の決定の正当性については、マタイ16:19で主イエス自身が「あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」と言っています。
この箇所は、「教会が赦した罪は天でも赦され、教会が赦さない罪は天でも赦されない」と解釈されることがありますが、「解く/つなぐ」とは律法の用語で「許可されている/禁じられている」ということを表すものです。つまりこの箇所は「赦す/赦さない」の話ではなく、「許す/許さない」の話で、主イエスは「教会が『それは許可されている』『それは禁じられている』とした判定は、天においても支持される」と言っているのです。
だから、「偶像に献げられたものと、血と、絞め殺した動物の肉と、みだらな行い」だけがつながれており、その他のことはすべて解かれているとしたエルサレム会議の決定は、天においてすでに支持されているはずです。そうでないなら私たち異邦人も、安息日規定だけでなく割礼など613の規定をすべて守らなければならないということになるでしょう。
そしてこの中で、第4戒の安息日規定も免除されています。あれほどユダヤ人がこだわり、パリサイ派がイエスを攻撃しないわけにいかないほどだった安息日規定が、です。このようにして、礼拝しなければならない日というものはなくなっているのです。
(念のためですが、エルサレム会議の決定は「律法を守るとは、異邦人キリスト者にとっては具体的にこうすることだ」という意味であって、律法自体が変更されてはいません。)
ただ、以上は「戒律としては」です。
人の行動を縛るものとしては、法治国家においては「法」というものがあります。ですが法より以前に人は「思い」によって自分の行動を規定しています。
613の戒律の具体化としてエルサレム会議が異邦人教会に示したものは、キリスト者に対する「法」と言えますし、その中で安息日規定も免除されましたが、「安息日に礼拝しなければならない」という法が免除されたことは、「神への愛による自主的な思いとしての礼拝したい」を禁じたものではないはずということです。
本来、礼拝って「十戒やその他の律法に規定されているから、する」ではなく「たとえ迫害によって禁じられようとも、せずにはいられないから、する」ですから。
われながら回りくどい説明になりましたので、少し整理します。
「日曜日は安息日なのだから、教会に行って礼拝しなければならない」というのは誤りで、しかもそれは反ユダヤ主義であると同時に反聖書的と思います。
そうではなく「神への愛のゆえに、特定の日を神のために取り分けて、自主的に集まって礼拝をささげる」というのがキリストを信じる者の礼拝なのではないでしょうか。もちろん「取り分けて」というのは、旧約において安息日を「聖として」というのと同じ意味です。
イエスを信じるユダヤ人「メシアニック・ジュー」が、「律法の義だから」を超えて「神を愛するゆえに律法を守りたいから」ということで、他のすべての律法と同様に土曜日の安息日を大切にすることに、何か問題があるでしょうか。
同様に、イエスを信じる異邦人が、(安息日は日曜日だなどと捏造してではなく)「神への愛によって、安息日規定に縛られず」礼拝するのも問題はないはずですし、さらあに同様に「主イエスを愛するゆえにその初臨や復活を記念して日曜日に礼拝する」というのも正しいはずです。
「安息日規定の免除」とは「安息日を守ってはならない」という禁止ではありませんから、無教会主義やSDAのように、非ユダヤ人でも神への愛のゆえに土曜安息日に礼拝するのも同様に正しいはずです。
これらは、過ぎ越し祭などの旧約律法についても同じです。(ただ、ワントーラー論という議論があることを坂井はつい最近になって知りまして、これらについてはまだ勉強中です。よろしければシオンとの架け橋のサイトをどうぞ。)
(では「神を愛してはいるけれど、今週は予定があるのでまた都合がいい日に」というのもアリなのか?神を愛するから礼拝したいというなら、一度「この日をあなた(神様)にささげます」としたならそれを「自分の都合」でどうこうすることはふさわしいことではないように思います。愛する人に自分から「この日時に」とデートに誘っておいて、自分の都合で一方的に日時を変更した上に相手の同意も求めない、という人はいないでしょう。)
ところで、メシアニック・ジューたちが聖書(旧約)の戒律を大切にしつつ、それとはまったく矛盾せずにイエスを救い主として信じていることについて、キリスト教の中には彼らの「イエスによる救い」への信頼を疑う声があると聞きます。
しかしこの疑いは、私個人の考えとしては、どこまで反ユダヤ主義(反「神の民」主義)なのかと感じます。
安息日規定が免除されたのは、異邦人の兄弟たちについてです。しかもそれは、ユダヤ人教会からの「自分たちユダヤ人も苦労してきたものを、異邦人の兄弟に背負わせるのか」という愛ゆえの免除だったのに、と。(使徒15章10)
蛇足になりますが、神を愛するがゆえの自発的な行為であっても、聖書によって禁じられる場合があります。今思いつくのは次の2つですが、他にもあるかもしれません。
ひとつは、ささげすぎないこと。出エジプト記36章で、幕屋を建てるために民が必要以上の資材を奉献したとき、モーセはこれをやめさせました。
もうひとつは、新婚一年以内に従軍すること。イスラエルの戦いは神の戦いですが、申命記24章では新妻をめとった者は兵役等を一年間免除されるとあります。
どちらも、「人が神を愛する愛」にまさる、「神が人を愛するゆえの制止」であるように思います。
ただ、なぜ日曜に礼拝するのか(日曜を取り分けるのか)ということになると、「キリストの復活を記念するため」という理由は後付けらしい(歴史的な経過としては、初代教会では土曜に安息日礼拝を守り日曜に復活を記念していたのを、後代に日曜礼拝に変更したあとで、復活を記念するためという理由が付された、らしい)ということにまで踏み込む必要が出てくるため、勉強不足な現状ではあえて話題を避けたものです。
ところで、「安息日が日曜に改定された」なんて言いませんよ、とのことですが、実際に日曜日を「安息日」と呼ぶ牧師を何人も見ているので書いたものです。おっしゃるとおりこうした発言は問題であると思いますし、「安息日が日曜に改定された」なんて言わない牧師・教会が聖書的だと感じます。
私の長い間の疑問がすっきり解決されます。同様に、じゅういち献金についても、真に聖書的であれば、すべては神のものというところから、喜んで捧げられる額のように思うのですが…いかがでしょうか?
具体的に教会を誰かにおすすめするというのは、特に自分が行ったことの無い教会の場合は難しいので名前は出しませんが、本文中に書いた教派を含め、「キリスト教 土曜礼拝」でGoogleなどで検索するといくつか見つかると思います。
じゅういち献金はこれも私見ですが「什一」という言葉がまずいけないと思うのです。この熟語には「十分の一」という分数を表すだけの意味のほかに、「その年の収穫の十分の一の税」という意味もあるからです。確かにレビ記27:30などでは十分の一は「規定されたもの」ですけど、税ということは、納める側の自由意志ではなく、納められる側の決定によるものということになってしまいますから。
献金に関しては、ルカ11;42が重要だし、マラキ3:10では献金は神へのチャレンジです。
理想としては、その教会をとおして聖書的な意味で喜びがあれば、それこそ幕屋のためにささげすぎようとしたイスラエル人のようにささげたくなるだろうと思うのです。「キリスト教はご利益宗教じゃない」を強調しすぎるところもありますけど、詩編81:17などもありますから、神様に向かって堂々と「教会員の財布を祝福してください」と祈れる教会なら(そして「この祈りはすでにかなえられた」と信じるとき)、モーセのように「什一もささげられては多すぎて困る」という事態だって起りえると思うのです。