高松宮宣仁親王 著
1996年11月25日 初版
中央公論社
ISBN 4-12-403395-8
昭和17(1942)年10月から昭和18(1943)年2月までの御日記を収録。戦雲うずまく中、あいかわらず軍事電報の書き写しが中心で、戦史研究には第一級の史料だろうけれど私には猫に小判。
そんな中で興味深かったのは、昭和18年1月7日におこなわれた、近衛と東條の会食。殿下は「平泉博士ノ話ニヨツテ両派対立ノ融和策ナリ」と記しておられる。
東條いわく
「開戦について心配したことは
一、陸海軍が対立、分れ分れになること
ニ、蘇(ソ連)が攻撃してくること
三、国内混乱に陥ること
の三つが負ける因になると考え、之に対しては開戦と仝時に全国戒厳を奏請しようかとも思ったが、どうも日本では之は不適当で、」
東條「物的に資源をすでに十分にもち得ている。之をとり出せばよく、敵は石油はもっているが、その他は決して十分にないのである。」
(日本に資源があるとは、鍋釜のことか。敵は石油以外がないとは、いつの時点のどういう情報によるのか。)
東條「(独ソ和平について、駐日ドイツ大使には)少しでも日本がその様な希望をもっている様に見せてはならぬ。あくまで戦うことを云うつもりである。併し先方から申出があれば之は大いに利用して、仲介実現につとめる必要がある。」
近衛「三国同盟にもソを加えることを初めから考えていたので、之は日本に有利である。独ソ和平は大東亜戦の講和の機会と考える」
東條「ソは戦力としては60%位になっているが、崩壊するものとは思えぬ。日本が日ソ開戦をほのめかして独ソ和平に導くのは、日本として攻勢をとり得る戦力を持たねばやるべきでなく、」
(ソ連に「日本の言うことを聞いて独とのテーブルにつかなければ」と思わせる状況を作ってから、という話だが、それにしてもいわゆる「単独不講和」のために、日本もドイツもメンツと意地のために滅びるまで戦うほかなくなっているわけだ。陛下も、そうなるのではないかと懸念しながらも、一度結んだ条約は遵守しなければならないとお考えだった(とどこかで読んだ)が、20年8月15日の時点でもしドイツが継戦可能だったとしたら、玉音放送はあっただろうか。少なくとも陸軍は、玉音盤奪取どころかクーデターを起こしてでも終戦を妨害しただろう(このところ海軍側の本ばかり読んでいるので、陸軍ばかり悪者にしてしまう))
東條「大東亜戦争終末の機会は、(一)地域的に戦勢が固定して安定する場合と、(二)平和会議による場合とが考えられるが、米国の倦戦等は考えられぬ」
(それをいうなら(一)も(ニ)も考えられぬ。時間がたつほど敵が「行け行け」になるだろうことは戦前から予想されていた。その状況で(ニ)は考えられないし、膠着状態に持ちこめる可能性も時とともに低くなっている。)
東條「支那の方面を落付かせることは大切で、今度は汪政権を強化してゆくことに方針を定め、…蒋は宗一家と結んでからはとても日支の同協に向いてはこぬ。」
(日本が中国と戦ったというとき、それは中国を統一しているひとつの政府が相手だったわけではなく、戦国時代さながらに割拠しているいくつもの政府を相手に、その私兵と戦っていたのだという。これも日支講和の難しさだったというか、和平交渉の相手がいなかったというわけだ。)
18年2月2日、瀬島少佐による「十八年度計画作戦」より。
「五、北方方面。対ソ情勢判断。直接本上に近く行わるる戦争で国の死命を制する大戦争なり。出来るだけ準備はやって之が日ソ戦防止の鍵となる。ソの対日関係は十七年より十八年は悪くなるが、開戦は十八年は避けられると考えるが、十九年乃至二十年には発生を予期せねばならぬ。」
(結果的に、正確な情勢判断だった。)
1996年11月25日 初版
中央公論社
ISBN 4-12-403395-8
昭和17(1942)年10月から昭和18(1943)年2月までの御日記を収録。戦雲うずまく中、あいかわらず軍事電報の書き写しが中心で、戦史研究には第一級の史料だろうけれど私には猫に小判。
そんな中で興味深かったのは、昭和18年1月7日におこなわれた、近衛と東條の会食。殿下は「平泉博士ノ話ニヨツテ両派対立ノ融和策ナリ」と記しておられる。
東條いわく
「開戦について心配したことは
一、陸海軍が対立、分れ分れになること
ニ、蘇(ソ連)が攻撃してくること
三、国内混乱に陥ること
の三つが負ける因になると考え、之に対しては開戦と仝時に全国戒厳を奏請しようかとも思ったが、どうも日本では之は不適当で、」
東條「物的に資源をすでに十分にもち得ている。之をとり出せばよく、敵は石油はもっているが、その他は決して十分にないのである。」
(日本に資源があるとは、鍋釜のことか。敵は石油以外がないとは、いつの時点のどういう情報によるのか。)
東條「(独ソ和平について、駐日ドイツ大使には)少しでも日本がその様な希望をもっている様に見せてはならぬ。あくまで戦うことを云うつもりである。併し先方から申出があれば之は大いに利用して、仲介実現につとめる必要がある。」
近衛「三国同盟にもソを加えることを初めから考えていたので、之は日本に有利である。独ソ和平は大東亜戦の講和の機会と考える」
東條「ソは戦力としては60%位になっているが、崩壊するものとは思えぬ。日本が日ソ開戦をほのめかして独ソ和平に導くのは、日本として攻勢をとり得る戦力を持たねばやるべきでなく、」
(ソ連に「日本の言うことを聞いて独とのテーブルにつかなければ」と思わせる状況を作ってから、という話だが、それにしてもいわゆる「単独不講和」のために、日本もドイツもメンツと意地のために滅びるまで戦うほかなくなっているわけだ。陛下も、そうなるのではないかと懸念しながらも、一度結んだ条約は遵守しなければならないとお考えだった(とどこかで読んだ)が、20年8月15日の時点でもしドイツが継戦可能だったとしたら、玉音放送はあっただろうか。少なくとも陸軍は、玉音盤奪取どころかクーデターを起こしてでも終戦を妨害しただろう(このところ海軍側の本ばかり読んでいるので、陸軍ばかり悪者にしてしまう))
東條「大東亜戦争終末の機会は、(一)地域的に戦勢が固定して安定する場合と、(二)平和会議による場合とが考えられるが、米国の倦戦等は考えられぬ」
(それをいうなら(一)も(ニ)も考えられぬ。時間がたつほど敵が「行け行け」になるだろうことは戦前から予想されていた。その状況で(ニ)は考えられないし、膠着状態に持ちこめる可能性も時とともに低くなっている。)
東條「支那の方面を落付かせることは大切で、今度は汪政権を強化してゆくことに方針を定め、…蒋は宗一家と結んでからはとても日支の同協に向いてはこぬ。」
(日本が中国と戦ったというとき、それは中国を統一しているひとつの政府が相手だったわけではなく、戦国時代さながらに割拠しているいくつもの政府を相手に、その私兵と戦っていたのだという。これも日支講和の難しさだったというか、和平交渉の相手がいなかったというわけだ。)
18年2月2日、瀬島少佐による「十八年度計画作戦」より。
「五、北方方面。対ソ情勢判断。直接本上に近く行わるる戦争で国の死命を制する大戦争なり。出来るだけ準備はやって之が日ソ戦防止の鍵となる。ソの対日関係は十七年より十八年は悪くなるが、開戦は十八年は避けられると考えるが、十九年乃至二十年には発生を予期せねばならぬ。」
(結果的に、正確な情勢判断だった。)