布屋忠次郎日記

布屋忠次郎こと坂井信生の日記

教会と反戦

2005-09-02 06:00:00 | 教会
内村鑑三選集2「非戦論」を読んでいると、内村は繰返し、欧州各国に「キリスト者」はいるにしても、各国の「教会」はこぞって戦争に賛成していて、「キリスト教国」というものはない、といかにも無教会派らしい主張を繰り返している。

ところで大東亜戦争において、日本の教会も(ごく少数をのぞいてほとんどが)戦争に協力した。その結果、戦後にはその過ちを悔いて、現在の日本の教会はことごとく(と言っていいだろう)戦争に反対している。
少しでも「いつか来た道」を匂わせるものには過剰に反応し、「これらの小さい者」のための人道支援が名目であっても自衛隊海外派遣に反対するという非聖書的なところもあるが、とにかく徹底して戦争に反対する。米国のいわゆる「キリスト教右派」が別の宗教に見えるほど、徹底して反戦だ。

ふと思う。
神はこの日本の国に、戦争に反対する教会を建てるために、戦中に日本の教会に道を誤らせたのではないだろうか。いや、万事を益にする神が、日本の教会の過ちを「戦争に反対する教会」のために用いた、というべきだろう。

いずれにせよ、あの時代の戦争協力がなければ、戦後の悔い改めもなかった。であれば日本の教会は今も、内村の時代に各国で戦争に賛成していた教会と同様だっただろう。
あるいはもし日本が敗北しなかったなら、日本の教会は今も、今のアメリカの「キリスト教右派」と呼ばれる教会と同様に、戦争に反対しない教会だっただろう。

いのちの泉キリスト教会の木村眞之牧師は、他の国で始まった仏教や儒教を完成させた日本が、キリスト教をも完成させないだろうかと語っている。(メッセージ「歴史を動かす主」を参照

そのとおりであるとするなら、神は、日本においてキリスト教を完成させるために、日本の教会を「聖書が反対するとおりに、戦争に反対する教会」へ変えようと、内村の時代になかった(あるいはついに見つけられなかった)教会を世にもたらそうと、大東亜戦争下での日本の教会の過ちを用いられているのではないだろうか。

戦争中の自分の言動にあやまちを認めるだけなら、キリスト者でなくてもできる。
戦争の悲惨を経験した者が戦争に反対するのも、キリスト者だけのことではない。
戦争に関係なく、認めたあやまちを繰り返さないと誓うのはキリスト者でなくても当たり前だ。
日本の教会は、自分たちがあやまちを犯したから戦争に反対するのか?むしろ、戦争に反対することが神の御心だと信じるからではないのか?

悔い改めを捨てて開き直れというのではない。
イエスの十字架によるあがないのためにユダの裏切りは必要だったが、だからユダは悪くないというのではなく、ユダはサタンによって罪を犯した。その裏切りを神が用いたというだけだ。
同じように、日本の教会の戦中の行いが、日本の教会が戦争に反対する教会になるために必要だったとしても、だから当時の日本の教会に非がないわけではない。
しかし、いつまでも「失敗した分、反省してます」でいいのだろうか。「わたしたちが戦争に反対するのは、わたしたちの反省が理由ではない。聖書が理由だ」であるべきじゃないだろうか。