布屋忠次郎日記

布屋忠次郎こと坂井信生の日記

マルコ7章

2005-09-14 23:55:00 | 聖書
アルファコース第2回「新しい目的」に参加。

で、スモールグループ(学びの後のフリートークの時間)に、マルコ7章に出てくる異邦人女性の話しに。娘に憑いた悪霊を追い出してもらおうとイエスのところに行くと、イエスから「まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない。」 (神の民イスラエルのためにつかわされている自分が異邦人のために働くことは許されていない)と言われてしまう。けれど女が犬呼ばわりを受け止めて「主よ、しかし、食卓の下の小犬も、子供のパン屑はいただきます。」と答え、イエスからその信仰をよしとされて娘が助けられたという記事です。
この話題の時に北牧師から「イエス様は、この女性がそのように信仰を表明することをわかっていたのか、それとも女性の回答に心から驚いたか、どちらだと思う?」と。

さて難しい。
全知全能である神の位格としてのキリストは、時を越えて、女が答える前から、どのような答えがくるか知ることはできたはず。
けど、この場面でイエスは感動したと思いたいんだよなぁ。ローマ人隊長の信仰に驚かれた時のように。

というのは、以前にこの箇所についてうちの嫁さんから「どうして男性(男性牧師を含む)は、イエス様が女の信仰を試したみたいに解釈するんだろう。悪霊につかれた子供を持つ母親にイエス様がそんなことするだろうか」と言われて、私自身そのように読んでいたから驚いたということがあったから。嫁さんはさらに「この時点では、『イスラエルのために』というのが神様から遣わされたイエス様の職分だって言ってるわけでしょ」と。うん、そうなんだよな。

この場面はティルス(ツロ)での出来事だけど、マルコ3:8には「エルサレム、イドマヤ、ヨルダン川の向こう側、ティルスやシドンの辺りからもおびただしい群衆が、イエスのしておられることを残らず聞いて、そばに集まって来た。」とある。
おそらくこの母親は、イエスを見てきた近所の人たちの話しを聞いただろう。そして「この人ならきっと娘を助けられる」と思ったことだろう。同時に「だけど、ティルスからガリラヤまで、こんな状態の娘を連れて旅をするのは無理だ」とも思っていたかもしれない。ところが、そのイエスがこのティルスまで来ているという。
「娘が助かるチャンスは今しかない。今を逃がしたりしたら!」というギリギリの状態でイエスのもとに来たはずだ。

これに対してイエスは、今はイスラエルのために遣わされているという「父」からの職分から逸脱することはできなかった。けれど同時に、イエスがこの母親を哀れまなかったはずがないと思う。だとすればイエスの最初の言葉には「信仰を表してくれ」という願いが込められていたんじゃないかな。
それは決して「試す」なんていうものじゃなかったと思う。むしろ、女がギリギリだったのと同じように、イエスもギリギリだったんじゃないだろうか。

そしてそんなイエスに、女は応えた。

その時イエスが「よくぞ、よくぞ答えてくれた」と感動しなかったとは思えない。
もし仮に、女がどう答えるかイエスが知っていたとしても、この感動に変わりはなかったと思う。