布屋忠次郎日記

布屋忠次郎こと坂井信生の日記

アフター・アルファ第1回

2005-09-07 23:55:00 | 聖書
堺福音教会・東京チャペルで、アルファコースのアフタークラス「価値ある人生」の第1回、「新しい心」に参加。

今回、パウロたちが獄に入れられ鞭で打たれても信仰を捨てず神を賛美していた、という話しになって思ったこと。
もし迫害の時代になったら、根性なしの私なんかあっさり踏絵を踏むだろう。仮に自分自身に対する肉体的苦痛は耐えられたとしても、遠藤周作の「沈黙」のノリでたとえば迫害者が家族を人質に取ったりしたら、あっさり転びそうな気がする。
で、仮に私が棄教を表明したとすると、キリストが「人前で私を知らないという者を、私も父の前で知らないという」と言ったことにぶつかることになる。けれど私の中では、たとえばキリストに礼拝を捧げる行為をやめたとしても、それでキリストを信じる信仰をとめられるわけではない。そうすると私は、「主よ主よ」とキリストを呼ぶけれどもキリストからは「あなたを知らない」と言われるようになるわけだ。いわば片思いのように。

…そうなんだろうか。
キリストは、こういう弱さには目をとめてくださらないのだろうか。
聖霊をけがす以外の罪は赦される、ともキリストは言った。この言葉にすがりたい。

でも罪は赦されるとしても、棄教することは罪なのだろうか。
契約したままで契約書の条項に反することをすれば、契約違反となる。罪というのは契約違反のことだろう。聖霊をけがすという契約違反以外は赦される、とキリストは言ったわけだ。
けれど棄教することは契約を解除することだろう。としたら、罪が赦されるとか赦されないとか以前の問題になってしまうんじゃないだろうか。キリストが私を赦したいと思ったとしても、人前で(つまり公式に公開で)こちらからキリストとの関係を捨ててしまっている、ということになるんじゃないだろうか。

…よくわからない。今はただ、日本が迫害の時代になっていないことに感謝するだけ。
とはいえ、再臨は迫害のあとであると聖書に明確に書いてある以上、心から「マラナ・タ」(主よ、来てください)とは言えなくなるなぁ。