かずこの想い

日本共産党区議会議員ぬかが和子の日々の出来事や想いを綴るページ

「5月の募集を止めたのは困る」の声に応えて…都営住宅の募集が始まります!

2011年07月31日 | 住まい・まちづくり
「なんでも相談会&都住申込み書き込み会」も行います

8月に「ポイント募集」と合わせて一般も実施ます。用紙は区民事務所にて
 募集期間
 8月1日(月)~8月10日(水)
 募集戸数
世帯向け、単身向け、定期使用住宅、 家族向け(ポイント方式)等
 合わせて約2600戸

詳しくはこちらです

地域で「なんでも相談会&申込用紙書き込み会」を行います
日時はこちらです

今回は、今までと違う点があります!
「5月の募集を止めたのは困る」の声に応えて、再開したため、5月の分も募集します。そのため、一人が2枚の用紙で申し込みができます。
また、今回行うポイント方式は書き方で決まります!
ぜひ書き込み会においでください。

区内で平和のパレード

2011年07月30日 | 平和
毎年恒例の、原水爆世界大会に向けての平和のパレード、平和大行進が、今年も29日に区内竹の塚の公園から梅島のベルモント公園までの行程で行われました
北は北海道、南は沖縄から、平和のたすきをつないで、大会会場まで全国を経由して「大行進」がおこなわれます。思想信条・党派を問わず、短い距離でも、誰でも参加できます。


パレードに先立って、朝、竹の塚の公園でミニ集会が行われ、各分野の方があいさつを行いました。
その模様をご報告しますね。


勇壮な太鼓に迎えられてはじまりました。この太鼓の会の方々も職種はさまざまですが、明るくて楽しい方々ばかりです


私が草の根から20年以上にわたって運動を続けている足立中部原水協


その代表として長崎の大会に参加してくれます


うたごえの方々がリードして、「原爆ゆるすまじ」「ヒロシマのある国で」などみんなで平和の歌をうたいました。
一番右はしの方が、ピースフラワー合唱団の団長で、私もかかわる「中部原水協」の代表でもある、横川昭さんです


区議団全員で参加しました。
右から4番目が私、左から2番目が大島よしえです

 
「通し行進者」のごあいさつ。北海道から歩きとおしているそうです。
東北3県も歩き、地震の爪痕を目で見て、また原発の問題を通じて保守系の自治体の首長さんからも「核をなくしてほしい」と激励をされたそうです。

 
区議団からは、原水禁世界大会に参加する はたの議員が代表としてあいさつ。
区議団では、毎年みんなでお金を出し合って、1名の代表を、原水禁世界大会に送り出しています。新人議員は最優先です。
そのため、今年は初当選した はたの議員が代表として長崎に行きます。

 
東京土建組合足立支部の委員長もあいさつ

 
学校の先生もあいさつ。福島県の原発避難地域に行った時の話が印象的でした。


各分野の方々のお話の中で、特に今年、共通していたのが「原発の被害」のことでした。

唯一の被爆国日本で、また放射能を心配する事態が招かれたこと、やはり人類と核が、現時点では共存できないことなど…さまざまな角度から語られました。

これほどの被害と影響をだした原発。
広域にわたり、肉・野菜、漁業も被害を受け
子どもを持つ親は不安・心配が広がり
観光地では外国人がいなくなり、どこも軒並みダウン。
日本をこわした、ダメにした原発を、ドイツなどのように自然エネルギーに切り替えることと核廃絶の取り組み、違いはあるけれど、根っこの共通点を感じ、決意を新たにする機会となりました




「原発・放射能 これまでとこれから」野口邦和さんの講演会開催

2011年07月29日 | ワークショップ
本日、区議団主催で「原発・放射能 これまでとこれから」と題した放射能問題での学習会を開催しました。

会場手配から資料印刷、保育室の手配まですべて区議団のメンバー総出で準備してきました。


講師は、放射線防護学の第一人者で、今やTVで引っ張りだこの野口邦和先生。
この種の学習会、今あちこちで開催していますが、それでも予定を上回る参加者で会場は満杯になり、資料も足りなくなるほどでした。

 
針谷議員が主催者あいさつをし、その後鈴木議員が区議団の取り組みを報告。

そしていよいよ野口先生のお話です。

予定時間を超過した熱のこもったお話、沢山書き込まれた質問カードもすべて、回答をしていただきました。


私は司会を務めました。


大島都議もかけつけ、都議団の取り組み報告と、野口先生とのかかわりを話してくれました。

参加者の感想の一部をUPしますね

この講習会を受けるまでは、放射線に対していつまで続くのだろうか、安全な対策はないのかと不安でしたが、お話を聞いて安心しました。
野菜や木の実、水についての安全性もわかり、とても良かったです。
こまかくくわしく教えていただいたので、よくわかりました。とても良い講習会でした。

大変わかりやすく、明快でよかったです。いたずらに恐れていたことが確かな理論で安心できることだとわかったのが、何よりの収穫です。
わざわざ毎月水を購入している(子どものために)息子に、水は安全、思うほどのことじゃないと早速メールしました。
このような講演会を企画された共産党区議団に感謝!!
 福島の一部地域にもう戻れないところがあるということに胸が痛みます。故郷に帰れないということを知った人はどんなに悲しむことでしょう。東電と政府はそういう方々に十分の補償をすべきです。そういう世論を高めることが大切ですね

大変よい企画でした。ありがとうございました。

目からウロコのお話でした。第一原発の収束状況を質問させていただきました。しっかり現状を簡潔にお話していただき、とても良かったです。ありがとうございました。(野口先生の)本は、職場の人たちにもみせて広めます。区議団のみなさまも本当にありがとうございました。

原発について基本的なことが理解することができました。今まであいまいに思っていたことがわかり、確信をもてるものもでてきました。本当によい企画をして下さり、共産党足立区議団に感謝いたします。自然エネルギーの開発推進に力を入れて原発ゼロに向けてがんばらなくてはと思いました。

いろいろ疑問もありましたが、先生のわかりやすい説明で大分理解を深めました。ありがとうございました。尚詳しくは先生のお書きした本
「放射能の話」を今読んでいるところです。

日本共産党足立区議団主催の学習会とても良かったです。ありがとございました。野口先生の講演で原発・放射能のことがよくわかりました。テレビや新聞の記事を見たり聞いたりすると不安が強くなりますが、思いのほか楽天的で、少し気が楽になれました。

区内放射線量独自調査にもとづき区長に緊急申し入れ

2011年07月28日 | 防災・安全
 「子どもは大丈夫?」の不安にこたえたい
日本共産党が独自に区内65か所で
放射線量測定

 大島よしえ都議会議員と足立区議団は、7月11日(月)と15日(金)子どもたちの生活の場での放射線量の状況、そしてどのような場所に放射性物質が蓄積しているのかを調査するために、区内をほぼ1㌔メートルメッシュで区切り、65地点・142ヶ所の空中放射線量の測定をおこないました。測定は地上1メートルと地上5センチメートルの地表面でおこないました。
 この測定は、同機種で同測定方法で、広範囲にわたって行われたことで、専門家からも高く評価を得ているものです。

今回の調査は5月に共産党都議団の調査で東京東部地域の放射線量が23区の中でも高いことが判明し、より細かい調査が必要との判断から実施したものです。

ぬかが地域では8地点17か所で測定
 私、ぬかが和子は、15日の炎天下、西新井周辺と六月地域を担当し、公園を中心に8か所を測定しました。



お母さんたちの要望の強かった西新井栄公園。幼児用遊具付近の溝(水の枯れた水路のところ)の地表5㎝では、0.184と比較的高い数値でした。区の示す目安(0.25μ㏜/h)以下ではありますが、都議団が専門家のアドバイスも得て設定した目安0.15よりは高い数値です。地上1mや、ほかの場所(遊具そのもの)などは大丈夫でした。


これは興野神社の児童遊園の側溝。側溝や砂の吹き溜まりなどが一番高い数値になります。ここも0.25を超えました。


西新井本町のあみだばし公園


ふれあいまつりを行っている西新井西公園


通称タコ公園の新西新井公園では、じゃぶじゃぶ池付近で測定。子どもを遊ばせていたお母さんも気になって一緒に測定を行いました

トップの写真は栗原中央公園です


ギャラクシティ前でも、居合わせた若いお母さんも気になって一緒に測定


六月1丁目の特養脇の公園

全体の測定結果は?
 測定の結果、同一地点でも場所によって数値が大きく異なることが明らかになりました。
区が測定しているような公園の中央部分では線量が低く、側溝や草地面、植込みでは高くなる傾向があります。L型側溝ふたなどの道路脇ではたまった砂の量が多い場所ほど高線量でした。木片チップを敷いたところは、砂地や土よりも高い数値でした。雨水がたまりやすい滑り台の下なども比較的高い数値が測定されました。

地上1メートルでの測定結果の特徴は、74か所中、0.25を超える地点が4か所、0.15を超える地点が23か所ありました。もっとも高い箇所は、中川一丁目アリオ付近の隅田あいあい児童遊園で、毎時0.29マイクロシーベルトでした。
 地上5センチメートルの地表面では、68か所中、0.25を超える地点が19か所、0.15を超えたのは7割以上の53か所でした。もっとも高かった所は、千住スポーツ公園の吹き溜まりの砂地でした。

詳細は、都議団HP「都内東部地域の放射線量測定結果について」をご覧ください。

 公園内に限っても、広場の中央部か隅か、葉の茂った大樹の下に入るか入らないか、雨どいのない建物の周辺かどうか、公園に斜面があるかどうか、側溝の近くかどうか、側溝内が清掃されているかどうか、植込み内か芝生地かなど、綿密に測定すればするほど同一地域愛であっても場所によって放射線量に違いがあることがわかりました。
 
 足立区では、区内752カ所の全小中学校・幼稚園・保育園、公園・児童遊園、児童館などの測定を行うだけでなく、屋外プールや砂場の測定も行ってきました。独自の目安も設けて対策も講じてきました。これは、23区でも有数の測定体制です。
 でも、測定位置は、各地点の中央部などに限られているのも事実です。これではホットスポットを見つけられません。区がいま緊急にやるべきは、ホットスポットをおさえ、除染など必要な対策を住民と共同ですすめることによって、住民の不安を解消することだと考えます。
 。


測定結果にもとづき緊急申し入れ
 よって、日本共産党区議団は、明日(29日)、測定結果にもとづいて、区が放射線の影響を受けやすい子どもたちの安全を厳しく守るという立場に立って、測定と対策をさらに拡充し、必要な除染などの対策をすすめることを強く求め、除染などの対策について提案、緊急申し入れを行います。
 
主な項目は以下の通りです(一部表現など変更の可能性があります)

1、放射能測定については、広域的な線量分布を調べるものと、水の流れなどに留意したホットスポットの検出という、二つの異なる性格の調査を同時に行うという立場で
とりくんでいただきたい。
 その中でも、すべり台・ベンチ下、雨樋がない建物の軒下、雨水が溜まりやすいところ、側溝などホットスポットになりやすい場所については、詳細に調査すること。
 これらのホットスポットについては、施設管理者や子どもを持つ親などからの要望をふまえ、必要な除染をすみやかにおこなうこと。

2、道路わきの砂が溜まりやすい部分、排水溝・側溝、雨水が溜まりやすい場所、草地などのホットスポットになりやすい場所について、都の協力も得て、詳細に調査し、その結果にもとづいて、必要な除染を行うこと。

3、東京都は「区市町村から協力要請があれば、できるだけ支援したい」と都議団に回答しています。以下のことを協力要請し、力を合わせて進めていただきたい。
①上記の場所をはじめ、都住の草地など都有地の測定と除染を求めること。とりわけ高い線量の検出された都立中川公園、東綾瀬公園の対策を緊急かつ強く求めること。
②荒川土手などの対策も国土交通省に求めること
③線量計を希望する住民に貸し出せるよう、都に協力依頼をすること。
④区は独自の目安を設けているが、国や都も目安もしくは基準を、住民の不安にこたえる形で設けるよう、改めて強く要請すること。

4、除染方法について
専門家のアドバイスを受けながら、側溝の洗い流し、草刈、土の入れ替え、チップの入れ替えなど、すみやかにおこなうこと。

被災地(宮城県石巻地方)に支援ボランティア 最終回

2011年07月27日 | 防災・安全
いよいよ最終回です。少し長いかもしれませんが、お付き合いくださいね。


宿泊したのは、松島海岸。
「被災地に宿泊することも支援活動」だということで。

津波の被害は当然あり、それでも再開した宿に。
宿泊者は、支援ボランティアばかりで、泥だしなどでそれこそみんなドロドロになって宿に。

本来露天風呂もあったそうですが、それは、津波のヘドロで使用不可。

現地に行って、「東松島・奥松島は壊滅」で松島は「壊滅ではない」ことの意味がよくわかりました。
「東」とか「奥」といっても、陸地の奥ではなく、海岸で、まるで松島の防波堤のように突き出しているのが「東松島」や「奥松島」なんですね。だから、松島の被害は海が目の前でも「壊滅」ではなかったことが、痛いほどわかりました。でも、通常の松島とは違い、海岸線に出ることもできず、何となくにおいが違っていました。
「海が怖い」ような感じでした。

早朝、海岸の方に出てみると
 
こんな風に桟橋が壊れ
 
やっぱり津波の傷跡が


この看板はいつからあったのでしょう

話は飛びまして

ボランティア活動に参加しているときの数少ない写真です。仮設住宅を訪問し、個々の困りごと、お話をを聞き、炎天下の仮設付近のあずまやでその状況交流をしているところです。
 
2~3人のグループに分かれ、仮設住宅に入居している被災者を訪問。話をうかがう「聞き取り」の活動に参加しました。
 入居者が少ない仮設住宅では、「不便さ」を嘆く声が相次ぎました。

 

「ここは車がないと病院も買い物もいけない」
 私(ぬかが)とはたの議員で訪問した仮設では、「仮説に入れてよかったが、車がないと病院にも買い物にも行けない」「せめて一日に一便でいいからバスを出してほしい」と。聞けば亡くなった奥さんを埋葬も何もできず、その悲しみをこらえて怒りを吐き出すような言葉でした。
 
 他にも「扇風機も掃除機もない。日用品をそろえるのに結構お金がかかって大変。支援物資は何でもありがたい」「天井や床や戸のつくりよくない。そのせいかアリやゲジゲジが入ってくる」という声が寄せられ、入居が少ない理由がわかったような気がしました。

「頭の中はまだ3月11日のまま」という人も
 またある方は「まだ頭の中は3月11日のままで、夢を見ているような気分。何を話したらいいかわからない」と言いながら、あの日のこと、それから今日までのことをぽつりぽつりと語りました。最後は「良く来てくれた。ありがとう」と別れを惜しむように話を終えました。

「九死に一生を」
 別の仮設住宅では「車に乗って津波から逃げようとしたが波に呑まれ、車から這い出して助かったが一人はダメだった」と語り、仮設に入れたから贅沢はいえないがハエが多くて、網戸もないので困っているとのことでした。

 また「自宅は1階だけが津波にやられ2階は大丈夫だったが、1階にどなたかの遺体が流れ着いた。もどるかどうか決めかねている。家族には病人もいる。やっと仮設に入れたがこれからも不安」「あなた方はこんなところまで来てくれるなんて…」と涙ぐむ方もいらっしゃいました。
 あれから4か月がたちましたが、灰色の街、がれきの山、臭いとほこりが漂い、信号機も鉄道も完全には復旧しておらず、生活再建もこれからという状況でした。被災者のみなさんからは控えめながら要望はたくさん出されましたので救援対策センターに報告して、さまざまな思いを胸に東京に帰ってきました。

知って驚いたこと
 「宮城県知事はダメだ!他と違ってひどすぎる」―被災者からのよくいわれました。
 共通して出されていた仮設の不備には、実は背景がありました。宮城県だけは、住宅建設の発注を「地元業者にやってもらい地域経済回復」とは逆行し、ゼネコンにまかせて現実にそぐわない手抜き工事が横行していたとのことです。

 また阪神淡路大震災との大きな違いは
①4か月でガレキの撤去がわずか35%。ガレキの範囲は広いが、その量は阪神淡路の2倍にしか過ぎない。本来なら2か月で撤去できた、
②東日本大震災は「家族が波にのまれる」ことを目の当たりにしてきたことでした。

 心の傷も深く、悲しみを抑圧するのはよくないとのこと。だからこそ被災者との人間的交流が必要です。ところが行政(社会福祉協議会)などのボランティアは「被災者と直接話はするな」ともいわれたそうです。話をすれば「要望を聞くことになるから」という信じられない話でした。
 だからこそ私たち日本共産党がやっている「被災者に直接話を伺い、行政に要望を届ける」活動が、どれほど大切なことが、痛いほどわかりました。

復興への希望をつないで
帰りに道の駅によると

これは、石巻で被害を受けた鰹節会社の表示です。
わずかに残った鰹節を売って、再開の財源にするとりくみです。
その商品の鰹節には「希望」の文字と共に「長い間お世話になりました。閉店します。無念です」の言葉が…

帰りの東北道です
 
明日への希望を願うかのような晴れ間・きれいな空と積乱雲が見えてきました。

長い道中のSAでも


再び支援活動に、そしていのちとくらし守る活動に、固く決意をして帰ってきました。



被災地(宮城県石巻地方)に支援ボランティア⑩

2011年07月26日 | 防災・安全
大川小学校は、海からは3km以上ある、北上川沿いにある学校です。
津波の際の避難所にもなっていて、近所の方々も避難していた中、北上川を津波が遡上し、児童の7割が命を落としました。お母さんたちが必死で子どもを、せめて子どもの遺品をとの姿がTVで報道されていたのをおぼえている方もいるのでは…。

 
学校すぐ隣の国道の信号はいまだ稼働せず


学校では、がれきの撤去が
「がれきの撤去が始まったということは、遺体の捜索を打ち切ったということなんです」との言葉が胸に刺さりました

 
お母さんたちの祈りが無念が…。ことばになりません。



国道の橋は途中で寸断されたまま


その橋の残骸が



市街地に戻ると迎えてくれるのは仮設住宅


 
どこもハエがすごくて、車の中にも10匹以上。ハエ取り紙が支援物資として今も歓迎されるのもよくわかります。
慣れとはすごいもので、少々のハエは気にならなくなりました。


救援センターには、刻々と支援物資が…。もうすでに私たちが持ち込んだ物資は、活用されて、なくなっていました。

あと1~2回で、報告・記録が終わりますので、どうぞお付き合いくださいね。




今度はごいっしょに震災ボランティアに行きませんか?

2011年07月25日 | 防災・安全
8月7日(日)~9日(火)

被災地報告を中断して、震災復興支援ボランティア募集です!


現地はまだまだ支援が必要です。行先は宮城県石巻地方。主なボランティア内容は「物資お届けや無料バザーの開催」「被災者訪問・ご要望聞き取り」です。
「現地を知ってほしい。少しでも多くの方に参加してほしい」現地の救援センターの声です。
「熱中症対策さえすれば誰でも参加できる!」7月にボランティアに参加した私の実感です。宿泊は1泊2食付の民宿。交通費は不要です。

前回は1泊2日でしたが、十分にボランティア活動をやって役立ちたいので、2泊3日の日程です

【相談・申込締め切り】7月29日(金)ぬかがまで(=区役所控室3880-5770不在の場合は伝言を!折り返しお電話します)

ボランティア保険に入ったり、ボランティア登録、車両の届け出など、様々な手続きは私、ぬかがが行います。そのために申し込み締め切りが直近になってしまって、もうしわけありません。もし少しでもそのお気持ちがあれば、連絡してみてくださいね。


支援物資も募集しています
ティッシュ箱・トイレットペーパー・子どもの紙おむつが必要です。ご連絡はお近くの党員へ

被災地(宮城県石巻地方)に支援ボランティア⑨

2011年07月24日 | 防災・安全
女川町から雄勝町に向かう美しい海岸線。でもこの海が猛威をふるい襲いかかってきました。



樹木も塩でやられ


海と陸の差がなくなり


それでも懸命に生活している人たちの姿があり

 
海岸線も河川もいまだ傷は深く


遠くに見える建物。わかりますか?


近づいてみると

 
なんと観光バスが10メートル以上の建物の上に流され揚げられたままに。確か中央公民館だったとか
 
ここは海が見えない入江深い地です。雄勝湾の一番深い位置だったので、細長い入り江で津波は猛威を増して信じられない高さだったそうです

 
となりには雄勝硯伝統産業会館が。
雄勝町の玄昌石は日本の9割を占める硯の産地でした。雄勝硯、学童用の硯、山梨の雨端硯の原料として活躍していました。
津波の時にも、出荷前の硯がみんなダメになったそうです。どれだけ悔しかったでしょうか。
リアス式の美しい海岸で、ホタテ・うになどの美味しい土地でもありました。
今はもう見る影もありません。

 
すぐ近くの雄勝小学校

さらに山の方へ向かうと
 
あちこちに観光バスが流されたままに
きっとバスを連ねて走っていたんでしょうね
 

信じられない奥深くまで津波の猛威が
 

続いては、北上川沿いにある大川小学校へ




被災地(宮城県石巻地方)に支援ボランティア⑧

2011年07月23日 | 防災・安全
昨日に続いて。

石巻の漁港から女川に向かう道のりの風景です
 
どこへ行ってもがれきの山。



わずかなスペースにも仮設住宅がひしめくように


きれいな海岸線

 
この辺は被害が目立たないと思いきや

 
こんな光景が

 

こんな風景がどこにも広がっている中を通りながら感じたのは
石巻で唯一被害の少なかった日赤病院の医師の言葉。TVでのことで、覚えていらっしゃる方も多いと思いますが
実情と支援要請に宮城県庁(仙台)に行ったら、街が普通に生きていて「こんなところで役人が毎日机の上で仕事していれば、被災地の実情がわからない」ということ。それほどに、同じ石巻でも被害の少ないところもあり、ましてや仙台の県庁付近は全く津波の影響はなく…。なんだか同じ日本にいて、その落差というか、
お会いした被災者の方が「政治は何やってるんだか」「信頼できない」と思うのも当然だと、痛いほど感じました。
今なお復興にほど遠いこの東北の街のことは、他人事ではなくて、同じ日本で生きる人の命がかかった問題だと。

いよいよ女川町に
 



高台にある町立病院の地に立ち


実は女川は、私にとって特別の想いのある地で、黙祷をし、胸が詰まって、涙がとまりませんでした。
今、思い出しても涙が。
私の親しい方のお母さんとお姉さんが命を失いました。津波で。
まず津波でお姉さんが行方不明に。
お母さんは要介護状態で、命はとりあえず助かりました。「何で私なんかが生き残って」と悔やんでいたそうです。
それでも私の知人は「命が助かって良かった」と駆けつけた時には亡くなっていたそうです。
避難所を移動移動させられて転々とする間に衰弱して…。
本当にに無念です。
被災地では、このように災害弱者が、最初は命が助かっても衰弱して亡くなられた災害弱者が後を絶たなかったそうです。
だから災害弱者の支援策にこだわるんです。
その後、跡取りのお姉さんのご遺体も発見されたそうです。
一族が女川の出身ですから、命が助かった親族も、足を失ったり…。

彼女(知人)は、じっとしていられないとの思いから、何かしていないとつらくなるからと、私の選挙も夫婦で一生懸命手伝ってくれました。
私は彼女たちの想いに突き動かされるような思いで戦った区議選でもありました。だから私の訴えは、心の叫びでもありました。

そんな想いでしたので、女川の地に立った時の記憶はあいまいですが、何枚か写真は撮りました。

 
ビルが根こそぎ倒れています
 

 

 
それでもがれきの撤去など、歩みは遅くてもすすんでいます。


いまだ再開の見込みの立たない女川魚市場。でも「がんばろう女川」のノボリがはためいていました。

続いて、同じく「壊滅状態」といわれた雄勝町へ
 

長くなったので続きはまた次回に





被災地(宮城県石巻地方)に支援ボランティア⑦

2011年07月22日 | 防災・安全
続いて石巻の漁港の方へ行くと


地盤沈下で水没したままの防波堤


はるか遠くの防波堤に、いったい何?

近づくとこんな感じ
 
津波で流されたタンクが防波堤に乗り上げたままになっていました。4カ月経っているのに

 
この仮設テントは、石巻の希望の光です。そう、仮設の市場です。つい前日にセリが4カ月ぶりに再開したそうです。

 
地盤沈下が激しく、一面は絶えず浸水状態。盛り土をした所だけが使用可の状態になっていました。

  
ものすごいカモメの数。

 
こちらは使用できない元の市場

元の地盤はこちら。これだけ全体が地盤沈下しているというのを伝えたくて、撮りまくりました。
 

 



はたの議員が下に降りてみました。
こうするとどれだけ高さに違いがあるか、わかりますよね。
  

道路は全体に盛り土してやっと通れるようになっていました。


続いては女川町へ

撮った写真の圧倒的多数は、移動する車の中からのものです。ボランティア活動の最中は写真は撮れないので被災後4カ月の風景と報告がどうしても多くなってしまいます。でも、記録としても、記憶としてもとどめておきたいので、あえてたくさんの写真と時間をかけてUPさせてもらいます。

ここまで付き合ってくださった方、ほんとうにありがとうございます。

明日は女川町に向かう道のりと女川町です

うれしかったその言葉

2011年07月21日 | ひとりごと
今日は、震災から離れてのつぶやきです。

どこの世界でも人の悪口とかいろいろありますよね。

そんな中で、今晩「ぬかがさんの凄いのは、人のことを悪く言ったのを聞いたことがない。私み習わらなくっちゃ。」との話でした。
私のポリシーは「人のいいところを見る」です。だからいろんな人を心から歓迎です!頑張ります

口で言うのは簡単ではなく、過去議員生活20年の中では、いろいろなことがありました。

つい先日も、信頼するある人へ、誤解を招く表現の和解をしました。

なによりも大事なのは、人の良さをリスペクトできるかどうか、ここにあると。

おめでとう、そしてありがとう。



被災地(宮城県石巻地方に救援ボランティア)⑥

2011年07月19日 | 防災・安全
 
その南浜に降りてみると…。一面はがれきの山。
 
この辺りは、津波と同時に火災が発生したため、一面が焼け野原に。

一本だけ残った樹木

遺留品は誰かが探しにきた時にわかるようにこのようにまとめてありました。
 
現地で説明を受ける区議団。砂ぼこりとにおいがひどいため、マスクを手放すことができません。


かろうじて残った家も、1階部分がえぐられていて、居住不能に。

 
かれきの撤去作業を懸命にすすめる。
そのがれきの撤去では、驚くべき話を聞きました。
政府と行政の対応の遅れの問題です。
震災後4カ月経って、全体の35%しか撤去がすすんでいないそうです。阪神淡路大震災と比較して、「確かにがれきの範囲は広いが、それでも3000万tにすぎない。これは阪神淡路の2倍程度。阪神淡路は1カ月で撤去できたことを考えても、対応の遅れは顕著で、本来ならば震災後2カ月で撤去できるものだった」というものです。夏場になり、瓦礫が残れば衛生面も悪化し問題になります。政治の対応の遅れ、その責任を感じます。
 
来月7~9日にまたボランティアで現地に行きます。それまでに大きく改善されていることを心から願わずにはいられません。

続きはまた明日。

被災地(宮城県石巻地方に救援ボランティア)⑤

2011年07月18日 | 防災・安全
国会議員団現地事務所の小野寺さんの案内のもと
まず初めに「日和山」に行き市内の被害全景を見ました。
 

「以前はこんな風景だった」という写真をみて
 

現在の風景を見ると、まさに180度、まるで焼け野原のような、何もなくなった光景が…。
「4か月経った被害の実情を見て伝えてもらうのも大事な活動」と、案内してくださいました。

  
この地域は密集した市街地だったそうです。



これは、TVでもよく映った「市民病院」です。もちろん被害を受け、利用できなくなっています。
津波の時に、屋上に避難をし、孤立して「SOS」表示をして、ヘリで救ってもらった方が何人もいたとか…。
ちなみにこの病院を建てるときに、共産党は「海にあまりにも近く、津波被害など、立地上問題がある」と指摘していたそうです。指摘通りのことになってしまったその無念さが伝わってきました。


その後浜の方へ降りていくと、どんどんと風景が変わり。この写真は「どこまで津波の被害が来たかがよくわかる」場所です。


地図で確認すると「南浜」のあたりでしょうか。
もう一面ががれきの山でした。

降り立った場所での写真は、また明日アップしますね。
あまりにも壮絶で、伝えたいことも多くて、何日かかることか…。





被災地(宮城県石巻地方に救援ボランティア)④

2011年07月17日 | 防災・安全
日本共産党の震災・救援対策センター(石巻)に到着。
事務局長の鈴木実さんとかたい握手。区議団全員で写真。


入り口にはこんな写真が。

 
中に入って、現地の方(日本共産党国会議員団東北ブロック事務所の小野寺さん)からレクチャーを受けました。


旧石巻市のなかで津波の被害があった場所を示した図が貼ってありました。

 
救援センターの2階に上がると、広いスペースに全国から届けられた救援物資が。写真に写っているのは、はたの議員です。
物資はあふれているのではなく、続々と届けられているものを瞬時に一時保管していました。私たちが滞在した数十分の間にもトラックや配送が何台も到着していましたよ。
雑然としているように見えますが、品物の種類ごとに分けて置かれています。

現地に行って痛感したのは、物はあっても買うお金の入る当てが見えないこと。生活の糧を失っていること。だから救援物資が今でも大歓迎されているのです。
古い自転車、衣類、消耗品、食料…。「ミシンがほしい」「がれきを片付けるフォークリフトが欲しい」など要望も出されていました。特に今、共通して歓迎されるのは食料品・ティッシュなどの消耗品、それと赤ちゃんの紙おむつなどだそうです。
ちなみに冷蔵庫は順番待ちだそうで、私たちの車でも2台冷蔵庫を運びました。仮設住宅には備え付けられていますが、水をかぶった自宅で生活し、冷蔵庫が使えなくなっているご家庭もたくさんあるそうです。

ボランティア活動は、さまざまな種類があります。
主なものでも「泥だしボランティア」「物資お届けボランティア」「ご要望聞き取りボランティア」などです。

私たちは、議員という特性を生かして、「ご要望聞き取りボランティア」を行うことに。主に何か所もの仮設住宅をお伺いすることになりました。
これは、孤立している被災者のお宅を一軒一軒訪ねて、困っていること、必要なものを伺い、行政へとつなげる仕事でもあります。
それとともに、先日も「仮設住宅で孤独死」のニュースもあったように、コミュニティが分断され、孤立している被災者を一人にしない取り組みでもあります。

ボランティア活動をしている最中は、夢中ですし、写真を撮る余裕がありませんでした。
明日からは、その移動中などに見聞きしたこと、特にボランティア活動に入る前に、街の概況を案内して見せていただいたので、その状況をアップしますね。

被災地(宮城県石巻地方)に救援ボランティア③

2011年07月16日 | 防災・安全
現地の救援センターに行く約束の時間に、少し間があったので、独自に旧北上川の方に行ってみました。


 
防波堤は決壊し、地盤沈下による浸水を防ぐために、土嚢で対応。これが震災から4か月たった時点だなんて!
ちなみにこの場所は河口から約1.2㎞の地点です。


 
重機も倒れたまま(左写真) 電柱も根こそぎ倒れ(右写真)


一面が広場のように。グーグルで確認すると、かつてはちゃんと建物があった地域です。


それでも植物の生命力は強く、生きる力を見せてくれました。冒頭の写真は同じ場所で。「津波があそこまで来た」と。


わずかに残った建物も、使用はまったくできません。
繰り返しますが4か月経っているのに。
TVでは今は報道されない風景です。


国道398号線。内海橋付近。
やっぱり信号機は稼働せず。全国から支援にかけつけた県警の警官が、交通誘導をしていました。
写真は愛知県警だったか、埼玉県警だったか…。どちらかでした。
共通しているのは誘導の下手なこと下手なこと。「それは止まれの合図なのに!行けというの?」という場面に何回も出くわしました。
現地の方も「ガードマンの方が誘導が上手なんですよ」とのこと。

行きの高速でも警察の車両が多かったこと。
警視庁の車も見かけましたよ。足立の花火大会の延期の理由が「警察から震災関連の対応で警備の体制が取れないといわれた」というのもよくわかりました。

続きはまた明日。