ATSUー歴女(おばさん?)のひとりごとー

見たこと・聞いたこと・ちょっと調べたこと,気ままに「My 日記」として書いています。

金毘羅信仰

2024-04-22 14:14:15 | 日記
「続きは後日」と書いてから20日近くたってしまいました。
実は,ほぼ書けていたのに,間違えて全部消してしまったのです。 ( ;∀;)
気を取り直して,



写真は金刀比羅宮・大門を入って,五人百姓のすぐ先です。
桜の写真を撮りたかったのではありません。奉納されている燈籠の写真を撮りたかったのです。
「特別展「江戸時代庶民の旅~金毘羅参りと室津~」2015年」に
印南敏秀氏が「金毘羅参りと室津」を書いています。
そこには,このあたりに,嶋屋半四郎(嶋屋は現在は室津海駅館になっている)奉納の燈籠がある,と書かれているのですが,どこにあるのかよくわかりませんでした。
でも,たくさんの燈籠は,江戸時代の人々がこんぴらさんを信仰し,参詣したことを物語っていると思います。

さて,金毘羅信仰
せとうち観光専門職短期大学の「観光Web講義」の一つ,
谷崎友紀氏の「こんぴら詣での今昔」によると,
江戸時代,旅人たちは,伊勢参宮を終えたのちに金毘羅参詣をおこなうようになり,旅の範囲が広がり,金毘羅参詣が流行したことで,旅人たちは瀬戸内海を越えて讃岐国を訪れ,そのまま厳島神社や錦帯橋まで足を延ばす者も現れたそうです。
現在,金刀比羅宮は主祭神を大物主命とし,崇徳上皇を合祀しています。農業・殖産・医薬・海上守護など広汎な神徳を持つ神様だといわれています。
でも,私には,海上守護が一番しっくりきます。
以前,「ブラタモリ」で,帆のついた樽のようなものを瀬戸内を通る船が海に落とし,漁師がそれを担いで金刀比羅宮に運んでいた,と言っていました。実際に,宝物館でこの樽のようなものが展示されていました。
北前船などの船員が,あちこちで金刀比羅宮の話をし,金毘羅信仰は広がったと言っていたと思います。
もちろん,伊勢も,こんぴらさんも「聖」だけでなく,「俗」があるから参詣(?)するわけで,この点については後日また。

785段の階段を登るのは,さほど疲れませんでしたが,
登りは階段ばかり見ていたように思います。
お参りして,階段を降りる時に見た景色・・・満開近かった桜や,人々が階段を登っている様子,大門を出てからはお土産屋さんで買い物を楽しんでいる人々の姿,・・・いいですね。
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