昨日のブログで私が中学2年の時(1976年)の床下浸水体験談を少し書きました。
もう40年も前の記憶ですが,断片的に覚えています。
でも,記憶違いもありました。
気になって,昨日調べ始めると,ネットはすごいですね,すぐにわかりました。
でも,私は9月ではなく,10月と思い込んでいました。
確認のため,いくつか信憑性が高いと思われる自治体関係のサイトを見たのですが,
やっぱり,9月でした。
そうなってくると,金曜日という記憶は・・・
と調べると,
山口百恵の「赤い運命」は,金曜日でしたから,やっぱり金曜日であっていたのですね。
あの金曜日は雨が降っていましたが,
学校が休みになるほどではないでしょ,と思っていました。
午前中は母はいつものように網干K地区のスーパーにパートに行っていました。
当時,中学2年の私は,小学5年の妹とオセロゲームをして遊んでいました。
すると,母から電話がかかってきました。
「こっちは,床上まで水がきはじめた。
そっちは大丈夫か。」と。
その時,S地区に住む私の家は全くそんな気配は感じられませんでした。
妹と2人,びっくりしました。
そうこうしているうちに,
母は帰ってきたのだと思います。
夕方,
家の横の田んぼの水がいっぱいになってきました。
今度は,家の前の道が冠水してきました。
父が会社から歩いて帰ってきました。
いつもは自転車通勤ですが,その日は雨だったからはじめから歩いて行っていたのかもしれません。
父は,「○○内科の前の道が,水路のようだ。」とか言っていたような気がします。
家の庭に水が入ってきました。
母は,排水用のブロック塀の下の穴に掃除用に置いていた古着を入れてふたをしていましたが,
そんなことしても無駄でした。
そうこうしているうちに,
家の中にいても,
ボコッ,ボコボコっと音がし始めました。
玄関や勝手口の靴を置いているところに水が入り始めたのです。
怖かったです。
父母は,冷蔵庫の下に,ブロックを1段積みました。
2階に大事なものは持って上がろうとしました。
そして,「赤い運命」が始まるころ,
玄関の水位は下がり始めました。
翌日だったと思います。
市から消毒液やパンが配られました。
「うちはパンをもらうほどでもなかったのにねえ。」
と話をしたのを覚えています。
畳をめくり,床下の水を家族みんなでかき出しました。
当時,土曜日は学校がある日でしたが,
休校です。
いつまで休校だったか,覚えていません。
中学校は,床上浸水だったし,
片付け,消毒など,あったから,数日休みだったのかもしれません。
体育館は,論外。
床はすべてピカピカ新品!張り替えられました。
我が家で父が,「よかったなあ。」と言っていたのが,トイレです。
当時は水洗トイレではありません。
私たちは,「ぼっとん便所」と言っています。
水位はトイレの汲み取りの穴よりも上に行ったのだろうと思うのですが,
きっと,ふたがしっかりしていたのでしょう。
便などが,あふれだすことはありませんでした。
学校が始まり,
クラスメートの家は,床上50センチの浸水。
その子の家は,すっごく盛り土をして,建て替えられました。
この水害の姫路市等の被害は,前日に書きました。
姫路市だけで,死者6人浸水被害は床上,床下合わせて2万9千件余り。
そんなすごかったとは,昨日,調べてみるまで知りませんでした。
Wikipediaによると,日本全体では,
死者 - 161名、行方不明 - 10名、負傷者 - 537名
住家全壊 - 1,669棟、住家半壊 - 3,674棟
床上浸水 - 101,103棟、床下浸水 - 433,392棟
だったそうです。
長々と失礼しました。
私の床下浸水体験談でした。
姑は戦後,満州から引き揚げてきましたが,
(当時小学4年生だったそうです。)
けっして,体験談を語ろうとしません。
PS.今日,スーパーで会った友達の話
1976年の水害の時,高砂市に住んでいた。
自分の家は床下浸水だったが,隣の家は床上だった。
水害の被害がすごいときに,
秋祭りをしていいものだろうか,という話が出たが,
祭りは行われた。
もう40年も前の記憶ですが,断片的に覚えています。
でも,記憶違いもありました。
気になって,昨日調べ始めると,ネットはすごいですね,すぐにわかりました。
でも,私は9月ではなく,10月と思い込んでいました。
確認のため,いくつか信憑性が高いと思われる自治体関係のサイトを見たのですが,
やっぱり,9月でした。
そうなってくると,金曜日という記憶は・・・
と調べると,
山口百恵の「赤い運命」は,金曜日でしたから,やっぱり金曜日であっていたのですね。
あの金曜日は雨が降っていましたが,
学校が休みになるほどではないでしょ,と思っていました。
午前中は母はいつものように網干K地区のスーパーにパートに行っていました。
当時,中学2年の私は,小学5年の妹とオセロゲームをして遊んでいました。
すると,母から電話がかかってきました。
「こっちは,床上まで水がきはじめた。
そっちは大丈夫か。」と。
その時,S地区に住む私の家は全くそんな気配は感じられませんでした。
妹と2人,びっくりしました。
そうこうしているうちに,
母は帰ってきたのだと思います。
夕方,
家の横の田んぼの水がいっぱいになってきました。
今度は,家の前の道が冠水してきました。
父が会社から歩いて帰ってきました。
いつもは自転車通勤ですが,その日は雨だったからはじめから歩いて行っていたのかもしれません。
父は,「○○内科の前の道が,水路のようだ。」とか言っていたような気がします。
家の庭に水が入ってきました。
母は,排水用のブロック塀の下の穴に掃除用に置いていた古着を入れてふたをしていましたが,
そんなことしても無駄でした。
そうこうしているうちに,
家の中にいても,
ボコッ,ボコボコっと音がし始めました。
玄関や勝手口の靴を置いているところに水が入り始めたのです。
怖かったです。
父母は,冷蔵庫の下に,ブロックを1段積みました。
2階に大事なものは持って上がろうとしました。
そして,「赤い運命」が始まるころ,
玄関の水位は下がり始めました。
翌日だったと思います。
市から消毒液やパンが配られました。
「うちはパンをもらうほどでもなかったのにねえ。」
と話をしたのを覚えています。
畳をめくり,床下の水を家族みんなでかき出しました。
当時,土曜日は学校がある日でしたが,
休校です。
いつまで休校だったか,覚えていません。
中学校は,床上浸水だったし,
片付け,消毒など,あったから,数日休みだったのかもしれません。
体育館は,論外。
床はすべてピカピカ新品!張り替えられました。
我が家で父が,「よかったなあ。」と言っていたのが,トイレです。
当時は水洗トイレではありません。
私たちは,「ぼっとん便所」と言っています。
水位はトイレの汲み取りの穴よりも上に行ったのだろうと思うのですが,
きっと,ふたがしっかりしていたのでしょう。
便などが,あふれだすことはありませんでした。
学校が始まり,
クラスメートの家は,床上50センチの浸水。
その子の家は,すっごく盛り土をして,建て替えられました。
この水害の姫路市等の被害は,前日に書きました。
姫路市だけで,死者6人浸水被害は床上,床下合わせて2万9千件余り。
そんなすごかったとは,昨日,調べてみるまで知りませんでした。
Wikipediaによると,日本全体では,
死者 - 161名、行方不明 - 10名、負傷者 - 537名
住家全壊 - 1,669棟、住家半壊 - 3,674棟
床上浸水 - 101,103棟、床下浸水 - 433,392棟
だったそうです。
長々と失礼しました。
私の床下浸水体験談でした。
姑は戦後,満州から引き揚げてきましたが,
(当時小学4年生だったそうです。)
けっして,体験談を語ろうとしません。
PS.今日,スーパーで会った友達の話
1976年の水害の時,高砂市に住んでいた。
自分の家は床下浸水だったが,隣の家は床上だった。
水害の被害がすごいときに,
秋祭りをしていいものだろうか,という話が出たが,
祭りは行われた。