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ATSUー歴女(おばさん?)のひとりごとー

見たこと・聞いたこと・ちょっと調べたこと,気ままに「My 日記」として書いています。

播磨と本願寺 その2

2015-06-08 10:24:32 | JMOOC
JMOOC

気がつけば,「大航海時代の日本」は閉講
講義を見ることも,ディスカッションに書き込みすることもできなくなっていました。(講義はすでにダウンロード済みですが)
最後にP様にもう一言書きたかった・・・といっても遅いです。

が,「播磨と本願寺」は続きます。

「播磨の地域社会と浄土真宗」のパネルディスカッション・岩谷氏の言葉より

「真宗寺院には独特の展開があります。村々にまず絵像の開基仏をいただいてそこに道場ができる。播磨地域に一番多くの道場が設立されるのが,およそ1500年から1550年,実如上人の時代になるわけですが,それらが寺院化していくのが江戸時代の初めの1650年から1700年前後の時期です。それまで「何々村惣道場」と呼ばれていた真宗道場でしたが,他宗の寺院と同じように寺号を得て,「何々寺」と呼称したいというのが,その地域の村の門徒の総意となって,徐々に各村の道場が寺院化していきました。(中略)江戸時代の浄土真宗の場合,寺号を得るということと木仏を安置することが同時進行となり,この時代に絵像から木仏を寺院本堂に安置するという形に変わってきます。またこうした動きと関連するものに,為政者(幕府)の側の宗教政策としての寺請制度がありました。寺請制度を担う仏教寺院が必要であったのです。」


また,JMOOC「大航海時代の日本」とつながってきました。

終わってしまったのが残念です。
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本願寺・本徳寺,そしてこんふらりや

2015-06-03 15:26:56 | JMOOC
JMOOCディスカッションより


最後の最後になりましたが,今,「播磨と本願寺」(兵庫県立歴史博物館編)を読んでいる途中です。
もう,明日が閉講なので,途中ですが,書きます。

本願寺10代の証如は『天文日記』という日記を残しています。(1536年~54年)このおかげで,この時代の英賀(あが・姫路市南部・当時は播磨地区の本願寺勢力の中心)の様子がわかります。

英賀(英賀御堂・英賀本徳寺)が本願寺(当時の中心は大坂)に金銭や特産物を送ったこと,大坂の本願寺まで出かけて仏事を行ったことなども記されています。

三十日番衆制度というものがあり,本願寺に来て,御堂に詰めて番をするというものがあり,播磨の寺々は交替で番をしていたことも記されています。(草野顕之・大谷大学学長「播磨の浄土真宗」より)

「戦国時代になると,農民や商工業者などの庶民は自分たちの命や生活は自分たちで守らないと誰も守ってくれません。そこで出てくるのが惣村活動,村落共同体というものです。(中略)村落が結束していくにあたり,自分たちが仲間であると共通認識できるものとして現実社会の中で何があるのか,そこで出てきたのがおそらく信仰でした。浄土真宗寺院の前段階である道場が,播磨に次々とつくられて広がっていくのと,じぶんたちがの生活を守るために惣村が結束していく時期が共通していて,各村々に浄土真宗の教えが共通概念として受け入れられたというところに,浄土真宗が播磨で特に広まっていく要因があったのではないかと考えられます。」((岡村善史・本願寺史料研究所「官兵衛・秀吉・一向一揆」91ページより)

似たようなことが,イエズス会にもいえるのかな?と思いました。本願寺と本徳寺のような関係が日本のイエズス会本部(?)とこんふらりやにもあるのでしょうか?

続きはまたどこかで
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日本中世の自由と平等 JMOOC

2015-04-26 17:54:09 | JMOOC
 約1年前に始まったJMOOC

最初の本郷先生の講義「日本中世の自由と平等」は,眠っていたATSUを起こしました。

最終レポートを載せます。



     
     「日本中世における自由・平等・平和」について                                          
 
 「日本中世における自由・平等・平和」を本郷先生の考えに沿って述べます。    
 
 まず,「自由」について。  日本の中世は荘園制における職の体系に見られるように,土地の『所有権の未成熟』が考えられます。権利は分けて持ち,所有が確立していません。ヘーゲルは「自由は所有」と言っていますが,本郷先生もこの考えに基づき,自分の意思・身体を自分で所有することが自由であると述べておられます。そして,男衾三郎絵詞にみられるいつ理由もなく殺されるかもわからない時代から,所有権が確立し,所有概念が成熟していく過程が中世であると考えています。本郷先生は,網野氏のまさに男衾三郎の世界である自由論・無縁論を批判し,「日本中世は自由が徐々に確立していく時期であると言える」と結論づけておられると考えます。
 
 次に「平等」について。  「仏の前では平等」という考えを唱えたのは法然です。それまでの天台宗・真言宗ではトップは皇族であり,高い位を持った僧侶は貴族の子でした。これに異議を唱えた法然は,「南無阿弥陀仏」を唱えれば武士でも貴族でも庶民でもみな差別なく極楽浄土にいけると説きました。弟子の『熊谷直実』は法然と九条兼実の話を部屋の外のさらに段の所にいたため聞くことができません。直実は「極楽にはかかる差別はあるまじきものを」と言ったとされ,平等というものを求める人の叫びが現れていると本郷先生は語っておられます。また,この中世的平等(リゾーム)の考えは,一向宗が広がるとともに拡大し,ツリーの考えに基づく信長には脅威となりますが,信長によってリゾームは滅ぼされます。「中世では平等の考えが生まれ,広まった。しかし,中世的平等は中世が終わるとともに消滅した(一向宗は残っても)」というのが,本郷先生の考えと思います。
 
 最後に「平和」について。  まず,日本の『人口の増加』から平和について考えます。西暦1600年から1700年の100年間に人口が1200万人から2500万人に増えています。江戸時代のシステムが人口を大幅に増やしたと考えられます。このことから,江戸時代は平和な時代であったことが想像できます。本郷先生は今回の講義では,中世の平和について多くを語られていません。しかし,中世のはじめの男衾三郎絵詞の時代はいつ殺されるかわからない時代でした。それが,戦国時代には,自分の国を治めるのが戦国大名の義務となり,検地を行う一方で,治水・灌漑などの事業を行い,自国を守ることが重要な時代となりました。そして,江戸時代には大幅な『人口の増加』が見られます。このことから,私は「庶民にとっての平和は中世において少しずつ蕾をふくらませ,江戸時代に一気に開花した」と考えます。


 

 実は,レポートの題が何だったのか,わからないのです。
 本郷先生の講義自体はまだ見られるのですが,レポートは自分のも含め,見ることができなくなってしまいました。パソコンに保存していたから残っていますが,また講義も消えてしまうのではないか・・・と思い,ダウンロードし,ブルーレイに保存しました。ディスカッションもはずみ,本当に有意義な講義でした。懐かしいですね。

 
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