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ATSUー歴女(おばさん?)のひとりごとー

見たこと・聞いたこと・ちょっと調べたこと,気ままに「My 日記」として書いています。

信長・・・本郷和人氏の書評より

2016-03-05 16:20:30 | JMOOC
「織田信長は歴史の変革者である。
だが日本史学界は今、信長はごくごく普通の戦国大名だったと大合唱している。
唯物史観を信奉する人たちは「英雄はいらない」し、
手早く成果が欲しい人たちは、とりあえず世間と違うことを言っておこう、というところか。
 
 けれど冷静に考えてみれば、そこに無理があることはたちどころに分かるはずだ。
信長のほかに、宗教の総本山たる比叡山を焼いた人物がいるか。
万を超える民を虐殺した人物がいたか(但〈ただ〉しこれらは全く褒められた話ではない)。
だれが石垣を積み、天守閣を創造したか。
茶の湯を政治に取り入れたか。
そして何より、他の何者が、日本は一つであるべしと考え、天下の統一を試みたか。」


2月28日(日)の朝日新聞読書欄に載っていた,本郷和人氏の書評の最初の部分です。


 最近,本郷先生がテレビのバラエティに出て,歴史の面白いお話しをされているのをちらっと見ました。
広く歴史に興味を持ってもらおう・・・と言う意味ではいいのでしょうが,
先生の専門の中世ではなく,面白い逸話的なことを話されていたので,
私としては,興味がありませんでした。

でも,この書評の出だしは,久々に本来の日本中世史の本郷先生でした。
(本当は,いろんなところでもっと学者としての本郷和人氏が活躍されているのでしょうが,
 私としては,久々でした。
 新聞に載っていた書評ですから,学者としてではなく,
 ちょうど,JMOOCで学んだような人にあった文章ですよね。)

私が学生だった頃は,唯物史観が主流でしたから,
「たとえば,信長がいなかったとしても,別の信長のような人が現れ,
早かれ遅かれやはり時代は,中世から次の時代へと向かっていった・・・と言う事だ。」
と先輩から聞いたように覚えています。


戦国大名は,自分の領国を守るのが精一杯だった。
戦国大名の誰もが天下を目指したわけではない,信長だけが,
「日本は一つであるべしと考え、天下の統一を試みた」


久々の“本郷節”を読んで,このページを書きました。
私ごとき者には,信長とは何だったのか・・・なんて分かりませんが,
少なくとも学生時代と今とでは,
歴史学は変わったのだと思います。



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朝鮮通信使と接待&食事

2016-02-29 13:30:15 | JMOOC
以前,
「朝鮮通信使ーJMOOC 田中優子「江戸文化入門」」のところで,朝鮮通信使の食事に興味が行った事を書きました。

ありました,ありました,ぴったりの本が

倉地克直『「鎖国」のなかの「異人」たち
     近世日本人は朝鮮をどうみていたか』(角川選書)

その中の
「第3章 朝鮮通信使が通る」

ここでは,岡山藩,備前牛窓での朝鮮通信使とその接待などが詳しく書かれていました。

朝鮮通信使一行の人数は,500人前後。
しかし,その通行の先導や警備の対馬藩総勢が約1500人。(50数艘)
通信使の中心は,正使・副使・従事官の三使。
朝鮮通信使は,三使がそれぞれ乗る騎船が三艘,それに卜船(ぼくせん・貨物船)が1艘ずつつく。
これとは別に,礼物(献上品)や馬や鷹を積んだ献上船がある。

たとえば,寛永13年(1636年)の使節
これは,名称を正式に通信使と改めた最初の使節
(その前3回は,いわゆる朝鮮出兵の被虜人送還の意味が強い。
 柳川事件(対馬藩による偽国書事件)後)
岡山藩主池田光政自ら出向いて直々に接待を指揮した。
一行が牛窓に着いたのは,11月6日午後8時頃。
対馬藩主宗吉成が三使に上陸して接待を受けるよう懇願するが,正使は,霍乱(急性腸カタル)を患って,とても接待を受けるような状態ではないため,副使と従事官が出席。
接待場所は,本蓮寺。

次に,正徳元年(1711年)新井白石の改変の時の接待
岡山藩では,家老を遣わして,接待をしたいと申し出,三使以下残らず上陸して,6軒の客館にはいる。
三使の接待には,宗対馬守,岡山藩家老(藩主は「寒気に痛み」牛窓までこられなかった。)
饗応は五々三の膳(昼食相当)饗応の儀式後,引き替えの料理。
上々官以下の使節一行にもそれぞれに応じた料理が提供。

享保4年(1719年)の史料は池田家文庫の中に30点近くあり,「朝鮮人御用留帳」17冊も残されている。
享保3年6月に馳走の準備をするよう指示があり,その頃から岡山藩の準備が本格化。
8月には,接待御用役員が順次任命。
閏10月には,岡山藩から対馬藩江戸留守居に対して下行(げぎょう)物についての問い合わせをする。
享保4年2月に今回の牛窓での馳走は往来とも下行のみと幕府から指示,正式の饗応は行わないことになり,計画全体の見直し。
使節一行の宿舎として準備された町屋は44軒。
この町屋提供は牛窓の住民に大きな負担。
なぜなら,通信使来朝時に宿舎として使われた後,帰帆時までの約半年,家の人が立ち入る事ができない。
ほか,岡山藩士のために,146軒の町屋準備。
こちらは1ヶ月前から藩士が待機しているので,1ヶ月以上家に帰れない。
ほか,船や水主の動員
先だって通行する献上船の馬や鷹などのえさの提供。
(ただし,先を急いだため,えさや官人への下行物は,次の室津まで運んで,室津で渡す。)
8月,藩の船奉行が鞆浦に入って宗対馬守に挨拶,一行が領海内にはいると,先導・随行。
9月牛窓へ。今回は饗応がないため,簡単な食事提供。
三使の献立
素麺  汁 からし
  吸物 みそ  鱸 冬瓜 青さんせう
 煮鳥 鶴
 酒煮麩 梅干
 切焼鯛 かけ汁 しやうか
  重引 たこ にしめいりこ むき玉子
       菓子 西瓜

でも,今回の接待の中心は,下行物の提供。
朝鮮人の食習慣の違いを考え,朝鮮人が好む物,嫌いな物をいちいち名前を挙げて細かく指示。
種類や数量はあらかじめ幕府から指示。岡山藩では,6日分用意。


あと,帰帆時の食事なども史料に残っています。


きりがないので,このくらいにして,私のまとめ&感想。

食事は上陸する時は,その地で日本食を接待。
ただし,饗応料理による接待を三使などに行う時もあれば,
簡単な食事だけの時もある。
身分に応じた食事を出す。

食材など(下行物)を藩が準備し,(幕府の指示に従う)
通信使側に渡す。
料理は船で,朝鮮から来た料理人が料理をする。

今回調べて思ったのは,
これは,参勤交代みたいに幕府が藩に課した負担ではないか。
大名統制の一環につながるのではないかという事です。
一般の人たちも,かなりの負担が強いられ大変ですが,そのなかでも,異文化との接触を楽しみ,見学したり,なかには制約があるなかでも交流したりしていたのだろうと思います。

長くなりましたが,読んでくださった方,ありがとうございました。

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JMOOC「江戸文化入門」一応満点合格なんですけど・・・

2016-02-18 14:20:52 | JMOOC
JMOOCの田中優子先生の「江戸文化入門」の講座にあわせて読みました。
講座とほとんどかぶっている内容ですし,写真が多くて読みやすかったです。
江戸時代観が変わりました。
じゃあ次の明治は?と思いました。
(読書メーター 田中優子『グローバリゼーションの中の江戸』 ATSUの感想より)

田中優子先生の本と講義でずいぶん江戸時代観が変わりました。
『カムイ伝講義』では,生き生きとした農民などが出てきました。
「生きぬよう死なぬよう」ではないと思いました。

「江戸文化入門」では
江戸時代は本当に「鎖国」だったのか。と思いましたし,
想像以上のグローバルな江戸の文化を知りました。

ただ,
「秀吉はそんなに馬鹿なのか?」(いや,そうかもしれない。)
「じゃあ,明治は侵略へと向かったひどい時代だったのか?」(もちろんそう言う側面もあるけど)
田中先生のおっしゃる事は,その通りだし,勉強になったけど,多少大きすぎるような気もしました。

そしてもう一つ,
ここでは,いわゆる「鎖国」以降を江戸文化と見ているようですが,
元禄も文化文政もみんなまとめて「江戸文化なのか?」とも思いました。

PS.一応全問正解,満点で合格しました。
(レポートじゃなかったからね。)
が,残念な事に,出題ミスがあり,98点満点になってしまったようです。
JMOOC,初の満点合格なんですけど・・・
“100点”とつきませんか?
(ちなみに今までの最高は100点満点の98点でした。
 本郷先生の「日本中世の自由と平等」は96点でした。)
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朝鮮通信使ーJMOOC 田中優子「江戸文化入門」

2016-02-06 16:19:10 | JMOOC
JMOOCの田中優子先生の「江戸文化入門」を聞いていて,朝鮮通信使に興味を持ちました。

江戸時代=鎖国のイメージが覆ってきたこの講義ですが,
その一つに朝鮮通信使があります。
朝鮮通信使がいたことは高校で勉強したし知ってはいましたが,
この講座から,江戸時代の人々は少なくとも今まで私が考えていたよりも外国と触れる機会があって,
朝鮮通信使もその一つの機会であると思えてきました。
幸い,近くのたつの市立海駅館には,朝鮮通信使に関する展示,出された食事の復元,さらにその食事の一部を食べる事ができるのです。
今まで何度も海駅館に行ったことがあるのに,
「食事に興味ないわ」とほとんど見なかったのが,もったいないです。

ところで,JMOOCのディスカッションの中で,私はこう書きました。

「講義の中で,朝鮮通信使は料理人を同行していた事,また,日本料理には見られない食材が提供された事を学びました。
食材の話の中で出てきたのは,対馬藩のほか,黒田藩や毛利藩,広島藩でした。
姫路藩(室津は姫路藩の飛び地だったと思います。たぶん)は出てきませんでしたが,
室津での料理は,日本食だったのでしょうか?日韓折衷だったのかもしれませんね。」


昨日の歴博ボランティアの空いた時間に調べました。

平成19年 特別展「朝鮮通信使と岡山」 岡山県立博物館
図録49 朝鮮人御饗応七五三膳部図 1810(文化7)年名古屋市蓬左文庫 より
 七五三の膳とは,古来より吉数とされた七五三にちなんで,本膳に七菜,二の膳に五菜,三の膳に三菜を出す祝儀の御馳走のこと。
 朝鮮通信使を饗応する料理もこれに則って出された。 
 七五三の膳は,実際に食するのではなく,儀式に使用され,これと引き換えに三汁十五菜という本格的な料理でもてなしを行った。

特別展「朝鮮通信使 ー海を渡った使節団ー」 御津町教育委員会 御津町立海駅館 2001
(御津町は現在は合併でたつの市の一部になっています。)
・信使通筋覚書朝鮮人好物附之写 岩国徴古館所蔵
 通信使の接待は宿泊地の藩の責任であった。失礼や事故のないことはもちろん,他藩に負けない応接が求められた。
 そのために担当藩は他藩の様子を探り準備を行った。
 本書には,通信使の好物や調理法などを記載している。
 このような情報をもとに饗応料理は用意された。
 (ただし,別の項目の中に,饗応料理は歓迎儀式に使われ,儀式終了後引替本膳が出されたと書かれています。)

室津の海駅館に行く前にちょっと調べました。

家の本棚になぜか仲尾宏「朝鮮通信使」(NHK人間講座 2001年4月~5月)がありました。
この本もちょっと読んでみようかと思います。
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田中優子「江戸文化入門」・・・歴史的寒波の日に記す

2016-01-25 07:26:47 | JMOOC
昨年11月に田中優子氏の『カムイ伝講義』についてブログでこう書きました。

江戸時代とはどんな時代であったのか,歴史の教科書や参考書,歴史学者が書いた本,小説,今までいくつか読んだ。
でも,この本では,江戸時代の人間,生きていた人々や生活が見えてきた気がした。(読書メーター:ATSUより)

田中優子『カムイ伝講義』の感想です。

江戸時代の百姓というと,「生きぬよう,死なぬよう」のイメージが大きいです。
かつて,搾取されていた農民,を学んだものとしては,「生きぬよう」が強烈でした。
しかし,中世との比較で考える時,近世は,「死なぬよう」が大きいことを改めて思いました。



先週JMOOCで田中優子氏の「江戸文化入門」が始まりました。
『カムイ伝講義』では,江戸時代の農村・農民観が変わりました。

今度は,江戸時代観,江戸幕府観も変わったような気がします。

鎖国は幕府による貿易統制,国を閉ざすという事はなくても,かなり制限されたもの・・・と思っていました。

しかしこの講義では,朝鮮通信使行列(日本人の間で通信使の行列を祭として取り上げたもの)や,
朝鮮通信使に出された料理(日本料理に見られない食材を対馬藩から各藩に情報を送りつくってもらう)などから,
外国人に接するのが,幕府上層部だけでなく,意外と庶民にまでおよんでいたと言っています。

そう言えば,
室津の「たつの市立室津海駅館」には,朝鮮通信使のコーナーがあります。
朝鮮通信使饗応料理復元、朝鮮人来朝図(贈・神戸市立博物館)などを展示されています。

今まで何度か見たはずです。
「お料理は興味ないわ。」
と素通りしたのです。

今度,室津海駅間に行った時には,朝鮮通信使のコーナーをきちんと見てこようと思います。


参考文献の
田中優子『グローバリゼーションの中の江戸』
おもしろそうです。


今日は,記録的な寒波のため,姫路の朝の最低気温がマイナス5.6度
昨日は115年ぶりに奄美大島で雪
そんな気象の歴史を塗り替えた時に書きました。

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