仁左衛門日記

The Diary of Nizaemon

獄門島(その2)

2018年12月04日 | ムービー
11年ぶりに『獄門島』(1977年/市川崑監督)を見た。
物語は、「昭和21(1946)年。瀬戸内海に浮かぶ周囲二里ばかりの小島で、明治以前は流刑場だった獄門島に、探偵・金田一耕助(石坂浩二)がやって来た。帰国の途中、復員船の中でマラリアにより死亡した本鬼頭(本家)の長男・鬼頭千万太(武田洋和)の絶筆を千光寺・了然和尚(佐分利信)に届けるという依頼を友人・雨宮から受けたからだった。そしてもう一つ、自分が帰らないと殺されるという千万太の妹・月代(浅野ゆう子)、雪枝(中村七枝子)、花子(一ノ瀬康子)についてことの真相を確かめ、可能なら未然に防いでほしいということだった。しかし、本家に住んでいる分家の娘・早苗(大原麗子)に事実を伝えた夜、殺された花子の死体がノウゼンカツラの木に吊るされ・・・」という内容。
殺人事件の捜査に当たるのは、岡山県警の等々力警部(加藤武)、阪東刑事(辻萬長)と、駐在の清水巡査(上條恒彦)の三人なのだが、金田一を容疑者として留置する清水もそうだし、誰よりも等々力警部の早合点が酷い。
「よし!分かった!!」と言いながら、手をポンと叩くのだが、これがマッタク当てにならない。
(^_^;)
そればかりか、捜査を間違った方向に導いて時間ばかりを浪費してしまいそうな気がするし、何より冤罪を生み出す原因にもなりかねないのが、本筋とは違う妙な怖さがあるのだった。
これは、推理作家・横溝正史(1902年~1981年)による同題の探偵小説が原作で、"金田一耕助シリーズ"作品の一つとして、昭和22(1947)年から昭和23(1948)にかけ、雑誌に連載されていたという。
なかなかに難解な事件をいくつも解決する金田一だが、いつも殺人事件を未然に防ぐことが出来ないのが残念だ。

八つ墓村

2017年12月08日 | ムービー
『八つ墓村(1977年/野村芳太郎監督)を見た。
物語は、「新聞の尋ね人広告で自分が探されていることを知った寺田辰弥(萩原健一)は、早速、大阪の弁護士事務所に連絡を取った。その依頼主は岡山県三田村在住の資産家で、辰弥の異母兄だという多治見久弥(山崎努)だったが、療養中のため、辰弥の母・鶴子(中野良子)の父親である井川丑松(加藤嘉)が事務所に迎えに来ていた。ところが丑松は、諏訪啓弁護士(大滝秀治)に紹介された直後に、突然苦しみもがき死んでしまう。辰弥は、父方の親戚筋の未亡人である森美也子(小川眞由美)の案内で、生れ故郷に向かうことになったのだが、彼女の説明によると、ここは町村合併するまで、"八つ墓村"という何とも恐ろしい名称だったという。その八つ墓村と多治見家にまつわる話は戦国時代にまでさかのぼり・・・」という内容。
1566(永禄9)年、毛利との戦に敗れ落ち武者となった武将・尼子義孝(夏八木勲)が同胞(田中邦衛)らと計8人で村外れに住みついたが、毛利からの褒美に目がくらんだ村人達の策略で惨殺されたという。
その際の首謀者、庄左衛門(橋本功)は莫大な山林の権利を与えられ、今の多治見家の財の基礎を築いたのだが、義孝に「末代まで祟ってやる」と呪われ、庄左衛門はその後に発狂、村人7人を斬殺し、自らも首を斬り飛ばし突然の死を迎えたのだという。
思いがけず多治見家の財産を相続することになった辰弥を、その落ち武者の祟りが放っておくはずがない。
(^_^;)
丑松、久弥をはじめ、金遣いの荒い医師の久野(藤岡琢也)、辰弥の出生の秘密を知るただ一人の人物である工藤校長(下條正巳)など、辰弥にまつわる村人が次々と死んでいくことになるのだから、探偵・金田一耕助(渥美清)雇い、調査に派遣した諏訪弁護士の見立ては正しかったわけだ。
ただ、残念ながら金田一耕助は次々に起きる事件を未然に防ぐことはできないというのが、横溝正史原作の同シリーズにおける共通点なので、これは誰が監督をしようと、誰が金田一耕助を演じようと変わらない展開だ。
(^。^)
ただ、石坂浩二古谷一行などの主演シリーズ作品と違ったのは、時代設定。
第2次世界大戦終了直後の昭和20年代ではなく、昭和52(1977)年という設定になっていた。
辰弥は、「母親が生まれた所を見てみたかった」、「父親がどんな人か知りたかった」という理由から見ず知らずの土地に赴いただけだったのに、とんだ災難に巻き込まれてしまうのだが、一連の事件は、まさに"八つ墓村の祟り"。
そして、事件の謎ときというより、まるで"オカルト映画"を彷彿とさせる内容も、他の作品とは趣が違っていて面白かった。

私は貝になりたい

2017年04月13日 | ムービー
『私は貝になりたい』(2008年/福澤克雄監督)を見た。
物語は、「高知の小さな町で、清水理髪店を営む清水豊松(中居正広)と妻・房江(仲間由紀恵)は、かつて駆け落ち同然で新しい生活を始めた2人だった。太平洋戦争の戦局が激しさを増し、庶民の日常生活もいよいよ厳しくなってきた昭和19(1944)年、ついに豊松にも召集令状が届く。配属先は矢野中将(石坂浩二)率いる本土決戦を想定した部隊で、滝田二等兵(荒川良々)とともに立石上等兵(六平直政)に目をつけられた豊松は、撃墜されたB29から脱出したアメリカ兵の"処刑"に関与することになる。"一番たるんでいる奴にやらせろ!!"という上官の命令で立石上等兵は滝田二等兵と清水二等兵を指名したのだが・・・」という内容。
召集令状を配る竹内(武田鉄矢)という役場職員は、根本(西村雅彦)に「どうもあんたの顔を見ると赤紙を連想する・・・」(確かそのような台詞)と言われるのだが、こういう役目を担うことになった人にも相当な気苦労があったのだろう。
仁左衛門祖母に聞いたところによると、戦時中、仁左衛門伯父に赤紙が届いた時、近所に住んでいた役場の担当者は、「あとでお伺いしますが驚かないでください」と事前に電話をくれていたのだという。
そのおかげで覚悟する時間ができたと、感謝していた。
さて、上官から、捕虜としたアメリカ兵を銃刀で突き刺すという"処罰"を命令された豊松。
「捜索して適切な処置を」との指令本部・矢野中将の命令は、現場の日高大尉(片岡愛之助)の「2名を処罰する」との判断になり、「第3班より2名を選抜しろ」との命令で選ばれてしまった豊松らは、「立派な帝国軍人になったところをお見せしろ!!」、「突撃!!進め!!」と、息も絶え絶えのアメリカ兵に突撃する。
戦後、この"大北山事件"に関与した旧帝国軍人を裁く進駐軍のBC級戦犯の裁判で、豊松らが、「上官の命令は天皇陛下の命令である!!」と常々教え込まれていたと主張しても、アメリカ人は爆笑するだけで取り上げてくれない。
まぁ、リーダーである大統領が選挙で選ばれる"民主主義"を標榜するアメリカ人にとっては、絶対君主である天皇を頂点とした日本の組織の考え方は、理解の範囲を超えたものであったのだろう。
後半、巣鴨プリズンに収容されていた大西三郎(草彅剛)や西沢卓次(笑福亭鶴瓶)、矢野といった死刑囚の姿も描かれていたのだが、サンフランシスコ講和条約の発効が昭和27(1952)年4月28日よりも早ければ、処刑されなくても済む人達だったのだろう。
この物語は、あくまでもフィクション。
ちょっと救いのない物語だった。

犬神家の一族

2008年03月23日 | ムービー
『犬神家の一族』(1976年/市川崑監督)を見た。
「日清・日露・第1次世界大戦と、戦争によって莫大な資産を築いた犬神佐兵衛(三國連太郎)は、顧問弁護士の古館(小沢栄太郎)に遺言状を託していた。密かに中身を盗み見た弁護士助手の若林は遺産相続を巡る争い事が起きかねないと考え、探偵金田一耕助(石坂浩二)を呼び寄せる。しかし、その若林は死に、犬神一族の人間も次々に殺されていく」という物語。
舞台は昭和22(1947)年の信州(長野県)で、出征していた犬神佐清(あおい輝彦)が復員してきたり、金田一耕助が「外食券の代わりにこれを使ってください」と旅館の女中に米を渡すなど、まだまだ戦争の余韻が残っている時代(外食券というものは昭和27年まで使われていたよう)である。
しかし、この映画が制作された昭和51(1976)年にはすでに蒸気機関車は走っていなかったので、音は使われているが映像は出てこない。
明治・大正・昭和と使われ続けたあらゆる物が、戦後の高度経済成長を続けた中で徐々に新しく置き換えられていき、この頃にはすっかり何もかも変ってしまっていたのだろう。
そうなると、山や湖といった自然の中で撮影するか巨大なセットを作るか、音だけを使ってあとは見る人の想像力に期待するしか無い。
さて、金田一耕助が登場する物語は、最後に行われる謎解きがメインイベントで、これ抜きには終わることができないのだが、殺人を未然に防ぐことはほぼ出来なくて、いつも悲しい現場に立ち会うことになるのだった。
そこがシャーロック・ホームズとの違いだろうか。
しかし、用意されたキーワードや言い伝え、わらべ唄になぞらえた事件が、次々と起きていく様が大きな魅力ではある。
この『犬神家の一族』も当然そこを踏まえていて、それがあるから面白い。
解っていながらまた見たくなるのだ。
(^_^)

女王蜂

2007年05月18日 | ムービー
『女王蜂』(1978年/市川崑監督)を見た。
横溝正史原作&市川崑監督&石坂浩二主演の一連の金田一ものだが、これほどまでに面白くないのはどうしてなのだろうかと考えてしまう。
(^_^;)
さすがに終盤の金田一の謎解きの部分には見入ったが、あんなに時間をかけなくてもいいだろうと思った。
序盤から中盤にかけても、中井貴恵(大道寺智子役)の学芸会の演技を見せられているようでとても退屈だった。
毎度の横溝作品のパターンを材料として、その後の展開を想像しつつ見ていたに過ぎない仁左衛門だが、この作品は仁左衛門の想像力を上回ってくれなかったということなのだろうか。
いっそのこと、『刑事コロンボ』のように最初から犯人が解っているうえでの展開のほうが退屈しなかったのではないだろうか。
この映画には少々がっかりしてしまった。
(-_-;)

悪魔の手毬唄

2007年05月03日 | ムービー
『悪魔の手毬唄』(1977年/市川崑監督)を見た。
これは横溝正史の探偵小説が原作だ。
1961年には高倉健主演(金田一耕助役)で映画化されていたらしく、この石坂浩二主演版は再映画化ということのようだ。
金田一耕助が登場する映画やテレビドラマは数多く作られていて、何人もの俳優が演じているのだろうが、仁左衛門の世代では、映画の石坂浩二とテレビの古谷一行が結構印象に残っている金田一耕助ではないかと思う。
さて、金田一耕助が遭遇する事件の特徴は、複雑極まりない人間関係が描かれていることと、離島や片田舎の小さな村落が舞台になっていることだ。
大衆が遠くの町まで頻繁に行き来することなどほとんどなかった時代が背景になっているからなのだろうが、交通網や情報網が極度に発達し、夜の暗闇が随分と少なくなった今の時代では、こういった舞台は設定しにくくなったのではないだろうか。
この『悪魔の手毬唄』という物語は、岡山県のとある地域に残る手鞠唄になぞって次々と起きる殺人事件の謎を探偵金田一耕助が解いていくという内容なのだが、これを見るのが初めてではない仁左衛門はすでに結果を知っている。
まるで"刑事コロンボシリーズ"を見ているかのように、犯人が分かっているのにそれでも見てしまうのだが、映画というのはそれもまた良いのだ。
(^_^)