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仁左衛門日記

The Diary of Nizaemon

終着駅は始発駅

2007年05月01日 | 新増毛町史
札幌市在住の恩師から手紙をいただいた。
選挙での当選を祝う内容のもので、本当にありがたく思う。
高橋先生が近くに住まわれていた時には『新増毛町史』の執筆の際にアドバイスをいただいたり、同級生が帰省した際に数人で自宅を訪ねたりと色々ご迷惑をおかけした。
最近では2007(平成19)年3月23日に【留萌港三泊地区岸壁全面供用記念講演】というのをされたので友人と拝聴しに出かけたのだが、さすがは郷土史研究家とあって、太平洋戦争中に(現陸上自衛隊留萌駐屯地で)行われていた人工石油製造プロジェクトについて触れ、それと地域おこしを結びつけた話をされていたのが強く印象に残っている。
画像は、その高橋明雄先生の著書『終着駅は始発駅~留萌沿岸ペンの旅』(2006年刊)。
実はこれに仁左衛門のことも書かれていたりして、思い出すと冷汗が出るのだった・・・。
(^^ゞ

感謝状贈呈式

2006年04月25日 | 新増毛町史
昨日(2006年4月24日)の午後、『新増毛町史』の編集委員に対して石○町長から感謝状が贈呈された。
2名の欠席者がいたが、S先生や(株)ぎょうせいのK氏とS氏もみえられ、終了後には刊行を記念して祝賀会も行われた。
ただ、祝賀会といっても会費制であり、只酒を食らったわけではない。
(^_^;)
飲食をしながら、この6年間を振り返って様々な話をしたのだが、一言ずつのスピーチをと言っても、やはりそれなりに時間がかかる。
『新増毛町史』への係わり方は違っても、皆それぞれ思い入れがあるので、どうしても長くなるのだ。
話は尽きない。
その後、二次会の会場へと場所を移したが、ほぼ全員が二次会にも参加した。
全員が一つの偉大な仕事をやり遂げた仲間であり、本当に楽しい祝賀会だった。

『新増毛町史』の宣伝

2006年04月17日 | 新増毛町史
『新増毛町史』が刊行されたことについては4/10にこのブログで書いたのだが、今日は、仁左衛門が月曜日を担当している【増毛町商工会Blog】で『新増毛町史』について書いてみた
『新増毛町史』の売上げが上がっても、仁左衛門に印税収入が発生するわけではないのだが、やはり多くの人に知ってもらい、できれば買って読んでいただきたいと思うのである。

『新増毛町史』が刊行

2006年04月10日 | 新増毛町史
3月31日に刊行された『新増毛町史』がようやく仁左衛門の手元に届いた。
今日は北海道増毛高等学校の入学式に出席するなど、外出している時間が長かったので、留守中に届いていたようだった。
すでに4/4(火)には『日刊留萌新聞』で取り上げられていたし、出版社の担当者K氏が「本日納品を完了しました」とわざわざご挨拶に立ち寄られてから、2週間近く経っていた。
まぁ、事情はいろいろあるんだろうが、そんなことを考えながらも、実際に手に取ってみると、やはり何だか嬉しい。
自然に「うぴぴー!!」とか言ってしまう。
「うぴぴー」は、ないか。
(^o^)
しかし、それくらい高揚した。
本をケースから出してみる。
想像していた以上に厚みがある。
開く。
真っ先に確認したかったのは執筆者の集合写真。
「うしろのほうだな」
写真を見つける。
「あぁ、良かった・・・」
仁左衛門一人だけがノーネクタイ&黒シャツという姿で写っていた例の写真は使われず、先月撮影した写真が使われていた。
まずは一安心・・・。
次に、【あとがき】を読む。
声を出して読んでみた。
(株)ぎょうせいのK氏とSさんには本当にご苦労をかけた。
そして、藤原先生のことが書かれているくだりでは読めなくなった。
長田さんも早くに亡くなった。
この【あとがき】を読んでいたほんの短い時間の中に、興奮と感傷が同居し、この何年かのことが思い出されたのだった。

最後の編集委員会

2006年03月02日 | 新増毛町史
『新増毛町史』は今月中に刊行される予定だが、今日は最後の【増毛町史編さん委員会編集委員会合同会議】が開催された。
今日おこなったのは第三稿の校正作業だったが、委員のほぼ全員が揃っての校正作業は最初で最後のこと。
仁左衛門の担当分野では、確か16文字を削除して4文字を追加した程度で、特に訂正箇所は無かった。
また、広報と新聞掲載用の集合写真が撮影されたのであるが、撮影し直すと聞いていた『新増毛町史』掲載用の集合写真が撮影されなかったのは残念だった。
というのは、以前の集合写真は一昨年に撮影されたものだが、その日の仁左衛門は撮影のことをすっかり忘れていたので、ジャケットは着ていたものの一人だけネクタイはしておらず、黒っぽい色のワイシャツを着ていて、どう見ても一人だけ浮いていたのだ。
あの写真が『新増毛町史』に載るのかと思うと憂鬱だ・・・。

北極星

2006年02月20日 | 新増毛町史
インターネット上での仮想商店街【楽天市場】で買物をすると、100円につき1ポイントの【楽天スーパーポイント】が貰えるのだが、これは系列の検索サイト【infoseek】でも共通で、そこでWeb検索をしてクジに当たると1ポイントがもらえるのだそうだ。
このポイントは、楽天市場での買物の際に1ポイント=1円として使えるものだが、「Web検索くらいで1ポイント(=1円)が手に入るなんて、預金金利って一体何なの?」と考えてしまう。
昨日は久々に『新増毛町史』に関することで、この【仁左衛門日記】の更新をしたのだが、その際ついでに【新増毛町史】という単語でWeb検索をしてみたら、これで1ポイント(=1円)をゲットした。
「まだ刊行もされていないのに検索に引っ掛かるなんて、【仁左衛門日記】の記述か?」とも思ったのだが、実は違って、【北海道新聞旭川支社】のWebページだった。
「ナニナニ?」とサイトを開いてみると、検索に引っ掛かったのは【北極星】というコラムで、書いているのは高橋明雄先生なのだった。
そういえば、元陣屋の学芸員O氏が、「高橋先生が仁左衛門氏のことを新聞のコラムに書いていましたよ」と言っていたのを思い出した。
「これだ・・・。」
サブタイトルは、【化石のたわごと】。
【2004/12/9】との日付があるので結構前の話だが、読んでみて思い出した。
「そうか、あの話か。プロバイダーだ・・・。」
しかも、これはその年の暮れに、東京に住む高校時代の友人から面白がって電話が来たことがあることも思い出した。
他の日付のコラムも読んでみると、何だか他にも仁左衛門に関連した文章があるみたいで、「いゃぁ、これはマイッタナ・・・」。
仁左衛門は、なかなか良いネタ元になっていたようだ。

『新増毛町史』の刊行

2006年02月19日 | 新増毛町史
先日、増毛町役場から【『新増毛町史』の贈呈先について】という通信文書が届いた。
関係機関に贈呈する都合があるので、一覧掲載者以外に贈呈希望先があれば報告されたいという旨の依頼だった。
おー。
平成12(2000)年10月4日の編集委員会初会合以来、6年。
(編さん委員会は、たぶんその2年前から開催されている)
ついにこの時期がやってきたのだ。
しかし、つい最近まで校正をやっていたことを考えると、とても不思議な感じがする。
仁左衛門も自分の担当分野でそれなりに、関係者に資料や情報の提供をお願いしていただけに、今回送付されてきた贈呈先一覧の【官公庁関係】【民間企業関係】【個人】【その他】の分類をチェックしたのだが、仁左衛門の調査依頼は役場を通してのことだっただけに、ほぼ漏れは無かったと思う。
『新増毛町史』の刊行は平成18年3月が目途ということで、ようやくというか、ついにというか、来月の話なのである。

短縮しすぎ

2005年11月22日 | 新増毛町史
今日、出版社のK氏らが来た時に『地誌』の原稿を渡そうとしたが、役場の各担当課が原稿全体に目をとおして見つけたミスを一覧にして提出してくることになっているので、それを元に訂正した原稿を渡してもらったほうが良いということだった。
まぁ、そのほうが二度手間にならなくていい。
また、制作に係る予算を多少増額するそうなので、ボツになる原稿もいくらかは少なくなりそうだ。
しかし、『地誌』の仁左衛門担当分はあまり影響ないかな。
『交通運輸編』については、どうだろう。
文章を最大限に残すため、写真をカットしすぎたと自分でも自覚しているのだが、増加分は文章ではなく写真に使うということになるかもしれない。
いずれにしても次の会議ではやはりその点が指摘されるだろうことは確実だ。
さて、『地誌』の原稿から削除した部分はおそらくこれ以外には残っていないと思うが、以下がその文章。
↓ここから
雄冬稲荷神社開基についての記録はないが、明治中期の開基と推測される。
明治二四(一八九一)年頃、吉●忠好氏裏山にあった神社を中●清橘氏裏山に移転。
その後、昭和七(一九三二)~八(一九三三)年頃、現在地に移転した。
雄冬と増毛市街とを結ぶ唯一の交通機関であった増毛港までの定期航路便は、昭和二四(一九四九)年に正式に認可され、昭和五五(一九八〇)年の国道二三一号増毛~雄冬間開通後は乗客や物資の輸送が減少したものの、平成四(一九九二)年まで運航された。
昭和四六(一九七一)年の町政懇談会に浜益側住民も参加し、境界線を変更して浜益住民が増毛に編入されるよう早急に進めて欲しいとの切実な要望が出された。
また、国道開通後の臨時派出所開設は住民の強い要望からだった。
七月下旬から八月上旬までの週末と祝祭日限定だったが、留萌警察署員二人が二四時間体制を敷いた。
国道開通を控えた昭和五五(一九八〇)年九月二〇日、留萌警察署との懇談会が開催され、「車のキーはつけっぱなしでロックしたことはない」などの不安も表面化した。
↑ここまで
この辺りは文章をできる限り短くしようとして所々を切り取り、最後まで残した部分だったので、各文章の接続が悪いのではあるが、まぁ、それは仕方が無いと思っていただきたい。
(^◇^)
他にお蔵入りになっているのは、『交通運輸編』の【鉄道敷設】と【増毛港築港】のくだりであるのだが、それについてはまたいつか。

時雨音羽の観光診断

2005年11月15日 | 新増毛町史
チェックを入れられた『新増毛町史/第七編/地誌』の原稿を直さなくてならなかったのだが、厳しく催促されないことをいいことに、ここ2か月くらいの間すっかりサボっていた。
このあと、【第三編/交通運輸編】の再稿もしなければならないことを考えると、いくらかでも片付けておかなきゃならないなぁと思って、久々にやってみたのは昨日のこと。
しかし、気分はすぐには乗ってこず、ついつい余計な所に気が行ってしまった。
『第七編』の仁左衛門の担当は、『明治33年以降の雄冬・岩尾・別苅・暑寒沢』と『地勢・地理・地質』で、これについても当初の原稿が長すぎたため、いくらか短くしているのであるが、カットした部分が見当たらない。
原稿から切り取ってPC内のどこかに保存しておいたつもりだったのだが、もしかするとデータを完璧に削除してしまったのかもしれないとも思う。
残っていたのは、雄冬に関するわずかな部分。
↓ここから
昭和四五(一九七〇)年、利尻出身の詩人・時雨音羽(しぐれおとわ/一八九九~一九八〇)が増毛町からの依頼を受け、町内の観光診断を行った。
その際、町内三三か所に名称を付けている。
雄冬と増毛の名称命名(一部)
【武四郎清水】=北海道の名付け親と言われる明治初期の史家・松浦武四郎が雄冬を訪れ、清水で喉を潤したと伝えられている。
【雄冬荒浜の道】=荒海のゴロタ石の整理はコンクリートを絶対に使うことなく自然道として、ゴロタ石をそのまま上手くならして道とすること。手間をかければ必ずできる。
(時雨音羽)
↑ここまで
時雨音羽は、♪やーまーはしろっがね~♪あさひっをあーびーて~♪と始まる『スキーの歌』や、♪よいやみーぃせぇまれーば~♪とつい低い声で歌いたくなる『君恋し』といった歌も作詞した人で、その『君恋し』は、昭和37(1962)年に歌詞を原作として映画化もされている(松竹/小高雄二主演)。
時雨音羽が命名した33か所の中には、親交があったらしい当時の町長夫人の名前を冠した滝などもあったはず。
それらすべての命名と理由を記録しておいたはずだったのだが、どこにも見当たらないとは、仁左衛門もまた大胆に削除していたものである。
(^_^;)


町史編集会議

2005年08月05日 | 新増毛町史
8/5(金)午後1時30分から増毛町史編集委員会を行った。
原稿提出後は全体の調整というより、出版社と編集委員個人のやり取りが主だったので、この会議は今年度第1回目の会議だった。
2月に提出していた仁左衛門の【交通運輸編】は、7/16と7/23の2日間、計10時間をかけて原稿とゲラの読み合わせをしてチェックを済ませていたので、今日の会議時に提出しようと考えていたのだが、写真の挿入場所を指定していなかったことに気付き、結局は提出することが出来なかった。
先月行ったゲラのチェックは、一人で完璧にこなすのは無理と考えて、●田さんにお願いして手伝ってもらったのだが、それでも10時間もかかってしまった。
もし一人でやっていたらと考えるとぞっとするし、きっと未だに出来ていなかっただろう。
ひたすら感謝である。
しかし、その読み合わせの際は誤字脱字などのチェックにばかり集中していたので、まったく考慮していなかったことが一つあって、これが大問題。
交通運輸編の予定ページ数70ページに対して、72%も超過した120ページにもなっていたのだ。
今後これに写真が加わることになる訳だから、この120ページというのは有り得ない。
結構苦労して原稿を減らしたはずだったのだが、何か勘違いしていたのだろう・・・。
何とかしなければ。

置石

2005年06月03日 | 新増毛町史
JR西日本の福知山線で列車脱線事故が発生して以来、置石などによる列車妨害がほぼ全国で発生していて、北海道内でも昨日現在11件が発見されているという。
さて、この【置石】。
『新増毛町史』の【交通運輸編】では、増毛駅近辺の置石事故を取り上げるつもりでいたのだが、第一稿でほんの少し触れたのものの、例によって掲載はしないことにした。
当初予定していた置石に関する記述は以下のとおりである。
↓ここから
留萌~増毛間の置石による列車妨害については、古くは昭和二(一九二七)年の『北海タイムス』に記事が見られ、「尋常三年生の中村三太郎(仮名・十歳)と判明。署長さんから大目玉を貰った」との見出しで事件の顛末が掲載されている。
鉄道警察の係官が路線周辺宅を戸別訪問するなど、国鉄時代は住民に対して定期的に事故防止の協力要請が行われていたが、舎熊駅周辺でも昭和五七(一九八二)年八月に置石が発生した。
この時は幸いにも石は撤去されたので、列車は無事であったとのことである。
また、昭和六一(一九八六)年には阿分トンネル付近で、列車の車掌が線路上にこぶし大の石約十個を発見。
急制動したが間に合わず、そのまま石をひく事故が起きている。
鉄道沿線は周囲よりも雪解けが早いために子供の手ごろな遊び場になっていたことから、置石事故は春先に多く起きたのだという。
↑ここまで
近年は道路の雪解けも早いので線路の周辺で遊ぶことはないだろうし、道路が舗装されていない時代のように線路を歩いて街まで出かけるということもないだろうから、「置石事故は春先に多く起きた」というのは、やはり過去の話であろう。
まぁ、とにかく、置石は大惨事につながることが明らかなので、絶対にやめてもらいたいと思う仁左衛門である。

増毛の魚

2005年05月23日 | 新増毛町史
すでに1か月も前の話だが、羽幌町で留萌管内体育協会連合会(そんな名称だったか?)の会議が二つあった。
一つ目の会議は出席したが二つ目の会議は関係がないので、その間、羽幌町公民館の図書館で本を読んでいた。
『暑寒別・天売・焼尻の自然』(1996年/社団法人北海道自然保護協会)という本を見つけ、『第七編/地域誌』の参考になるかと思いつつ読んでいたら、【暑寒別川の魚たち(大久保進一)】という章に暑寒別川に生息する数多くの魚についての記載があった。
仁左衛門は増毛町内を流れる河川の名称・距離・起点終点・水利権についてはほぼ書いていたのだが、生物については一切書かなかったので、これを参考として少し触れてもいいかなとも考えたのだが、【地勢地理地質】の範囲には当てはまりそうにもないことから、そこに踏み込むのはやめることにした。
この大久保氏は、この春増毛に再度赴任されてきたようで、サッポロビール会の会員名簿に名前があって驚いた。
先月は欠席されていたようだが、そのうち顔をあわせることもあるだろうから、その時には少し話を伺ってみたいとも思う。
『暑寒別川の魚たち』は、いわばノンフィクション物だが、増毛の魚に関するフィクション物の話も書かれていて、その名もズバリ『増毛の魚』という小説。
これは、【第12回(平成13年)日本海文学大賞・小説部門大賞作】(中日新聞北陸本社主催)だそうで、作者は藤田武司氏である。
この藤田氏は増毛に縁があるらしく、自らの体験談を織り交ぜて書かれているのだが、高倉健主演映画『駅』の撮影20年後の話ながら、増毛駅には駅長以下何人もの駅員がいるという設定だったり、日本通運の建物や多田商店、増毛館も登場したりして、じもてぃーとしてはナカナカ面白く読めた。
仁左衛門も何か書いて応募してみようか。
いや、まだまだ修行が足りないな。

二つの山道(その四)

2005年05月19日 | 新増毛町史
【二つの山道】(その三)のつづき
↓ここから
やっと天狗岳を越えました。
私の力の限界のようです。
皆さんはもう大丈夫と申されますけれど、目標を越えてもなんと続くこと続くこと、だらだら坂を上ったり下りたり雪は一米以上も谷間を埋めています。
皆さんはかんじきで道をつけては私を労わってくれますが、なにせ七十二キロは雪の中に腰まで埋めてしまいます。
そして道は遠いのです。
転んでは起き起きては転び、頭からゆげが出るばかりでさっぱり進みません。
「山を越えればすぐだ。あとは楽だ」というのはどうやら私を励ます手段に過ぎず、もう気力で歩くという外はありません。
歩古丹の櫻○さんのお宅で、松○校長さんに会った時は文字通り地獄に仏でした。
十二時三十分でした。
(後略)
昭和四十四年十二月十九日『雄冬新聞』より
これは、この年に増毛町立雄冬小中学校が給食優良校として文部大臣に表彰されることになり、広島市での全国給食研究大会出席のため雄冬を出発した加○熙校長の体験記である。
増毛市街地まではこの先まだ十五キロほども歩かなければならないのだが、大別苅~歩古丹間の国道工事は着工から十一年が経過し、工事中ではあったものの通行が可能だったことから、教育委員会のジープに迎えに来てもらっている。
唯一の公共交通機関であった雄冬丸の運航は天候次第であり、予定に間に合わせるように出かける場合には、欠航を見越して早目に出かけるか、とにかく山道を歩くしか方法がなかったのだろう。
↑ここまで
加○校長の記事は長文ではあったが、あまり省略するとなかなか雰囲気が伝わらないので、全体の7割くらいは紹介したのではないかと思う(結局は使わなかったわけだが・・・)。
映画『駅』(1981年/降旗康男監督/東宝)の中では、時化で新おふゆ丸が欠航し、正月休みに帰って来た主人公(高倉健)が何日かホテルで足止めになるというエピソードがあった。
映画を見た人は「船でなきゃ行けないなんて随分と田舎だなぁ」くらいにしか思わないだろうが、作品自体はフィクションであるものの、その設定は実際にありえた状況を基にしているのである。
また、これは冬の話なのでさほど心配はしていなかったようだが、夏であれば山道で熊に遭遇する危険性もあったわけで、その辺については『石狩川流域開発秘史』などから昭和20年代の様子も多少紹介した。
以上が『新増毛町史』のために書いたものの提出しなかった原稿の一部で、同様の原稿はこの他にも相当数あるのだが、それはまた別の機会に。

二つの山道(その三)

2005年05月18日 | 新増毛町史
【二つの山道】(その二)のつづき
↓ここから
今朝の雪で道は見えません。
依○さんを先頭にして急な斜面を登ります。
左下を見ると冷たそうな海面で、身震いをしました。
なるべく下の方は見ないようにと思って三人の後を追います。
三人の人々は平気の平ざで軽い話をしながら行きます。
私はもう喉がからから、とても皆さんと同じようには歩けません。
思わず「休め」と号令をかけました。
皆さんは驚いて止まり、これからはこの「休め」にものを言わせて五分歩いては十分休み、十分歩いてはまた休むという具合です。
皆さんは道をつけつけ私を誘導してくれますが、私の体重は七十二キロもありますこととて登りになると、がっくりです。
「休め」の号令はだんだん頻繁になります。
私は休めと言うが早いか雪の中に寝転んでしまいます。
今朝降ったばかりの新雪は、疲れた私の身体を羽根布団のように包んでひやりとして、汗の身体を気持ち良く抱いてくれます。
「先生、元気を出せ。天狗岳はもうすぐだ。頑張れ」と、寝ている私の口へ飴玉を入れてくれます。
御好意だけど、喉が渇いて飴玉などは口の中でごそごそするだけで雪の方がどれ程良いかわからない。
せっかく入れてくれたのだがそっと吐き出した。
休んでは寝転び、休んでは寝転びしてやっと天狗岳を越えました。
その時はもう予定の十一時を回っていました。
↑ここまで
【左下を見ると冷たそうな海面で、身震いをしました】という光景が想像できる。
雄冬丸が欠航している11月の日本海である。
標高の高い地点からだと、激しい波というより海全体が動いているようだろう。
鉛色の水面がそれでもキラキラ、ギラギラと不気味に光って見えたのではないか。
その四につづく

二つの山道(その二)

2005年05月17日 | 新増毛町史
二つの山道』のつづき
担当者K氏に訂正した原稿を渡した。
今回は指摘のあった文章や表を削除したり、一部表現の変更などをしたのだが、新たに表二つを追加してしまった。
小さい表なのであまりスペースはとらないと思うのだが、大丈夫かな。
さて、使わないことにした山道についての記述。
↓つづきはここから。
増毛~浜益間を結んだ【増毛山道】は、明治半ば以降に廃れていった。
その後は、この道の北端を含む増毛~雄冬間が【増毛山道】と呼ばれることになるのだが、増毛から雄冬に向かっては、以前と同じくポンナイから山に入った。
三里ほどで官設の駅逓があったブヨシ(旧別苅村字武好)に達し、さらに二里ほど行ったブヨシ橋で右折、急な坂を下って岩老に出る。
岩老からは海岸伝いに岬を越え、約一里で雄冬に達したという経路が【(新)増毛山道】である。
ブヨシ橋で岩老に降りず、山間を直行して浜益に至るのが、【(旧)増毛山道】であった。
この【(新)増毛山道】を歩き、雄冬から増毛市街に向かった加○熙氏(昭和四十四年度~四十九年度町立雄冬小中学校校長)の体験記事が『雄冬新聞』(町立雄冬小中学校発行)に掲載されているので紹介する。
【資料・一の一】
「大臣表彰受くるの記~学校長」
(前略)朝の六時です。
会長さんは呆れて「本当に越える気かね。大丈夫かね」と繰り返し念を押してきましたが、私の言う通りに天狗岳を越えることになり、(中略)八時五分前に家を出て、途中の依○さんのお宅で私の足にも毛糸のきゃはんを履かせてくれ、いよいよ四人で歩き出しました。
平坦な所はお互いに元気に話しながら気軽に歩きます。
一時間二十分で岩老の山の登り口に着きました。
さあ、いよいよ登り始めました。
↑ここまで
画像(イラスト)は、武好駅逓。
『雄冬』(雄冬小学校開校100周年・雄冬中学校開校50周年記念誌)から拝借した。
【二つの山道】(その三)につづく