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仁左衛門日記

The Diary of Nizaemon

野球少年 四月創刊二周年記念大計画號

2014年06月27日 | 明治 大正 昭和のコレクション
『野球少年 四月創刊二周年記念大計画號』(第三巻第四號/昭和24年3月15日発行/定価付録とも50円/尚文館)は、全50ページ。
表紙の絵は「別當選手」、グラビアは「八球團の猛練習畫報」、記事は「本壘打王川上哲治の話」他、小説は「三四郎の冒險」他という内容で、「神宮球場パノラマ大模型」、「日本野球六大學全試合記録書きこみ帳」が特別付録だったらしい。
少年少女 譚海 (躍進六月号)』もそうなのだが、"○○○3月号"や"△△△4月号"というようにいろいろ遊ぶのがこの頃の雑誌編集における流行だったのだろうか。
(^_^)
この本は、『野球少年 三月大発展號(昭和24年2月15日発行)』の翌月に発行されたのがこの本というわけで、キャンプインしているプロ野球全8球団の様子が巻頭で大きく取り上げられているのがいかにも春らしい(ちなみにこの昭和24年は1リーグ制最後の年で、翌年からパシフィックリーグとセントラルリーグの2リーグ制になっている。この時点では誰も想像できなかったことであろうが・・・)。
ヴィクトル・スタルヒン投手が所属した新球団・大映スターズは四国・松山球場でキャンプを張っていたようだし、「新設のホームグラウンドで思いきり練習できる中日選手のよろこび」という解説では、中日ドラゴンズの1949(昭和24)年は完成したばかりの本拠地・中日スタヂアムで始動したことが伝えられていた。
前年の"急映"から再び"東急"に戻ったフライヤーズは、「東京目白の学習院に冬眠の夢をやぶって基礎トレーニングをはじめた」とのことで、「この基礎を終わって九州・別府に移って、本格的キャンプを続ける東急。ここも強いぞ」と紹介されていた。
また、「東京審判団は後楽園に集まって"ストライーク"、"セーフ"の練習に大汗を流しています」と写真つきで解説されていたが、審判団がいずれの球団にも帯同せず独自のキャンプ(!?)を張るということは今でもあるのだろうか!?
(^。^)
次号予告では、翌月発売の5月号には別冊付録として『日本野球八球團選手寫眞名鑑』が付くと紹介されていたが、残念ながら5月号もその付録も残されていない。
(^_^;)
ただ、この4月号18ページで「插込みの廣告でごらんください」と紹介されている『野球觀戰宝典』の広告裏面に「東京六大學リーグ選手一覽表」、「日本野球八球團選手一覽表」が掲載されていることから、文字でのみ確認ができるのだった。

野球少年 三月大発展號(昭和24年2月15日発行)

2014年06月24日 | 明治 大正 昭和のコレクション
『野球少年 三月大発展號』(第三巻第三號/昭和24年2月15日発行/定価付録とも50円/尚文館)は、全52ページ。
表紙の絵は「ぼくの愛用バット」、グラビアは「春を待つ巨人軍」、記事は「めずらしい新記録」等、小説は「海の太陽」等という内容。
「オール日本代表選手原色寫眞大畫報」という9ページにわたる特集が組まれていたのだが、これはどうにも"絵"にしか見えない不思議な感じのものだった・・・。
(^_^;)
そして、今回の"誌上放送"は「私の見た大試合中の大試合」と題した1948(昭和23)年9月19日の南海ホークスvs大阪タイガース(後楽園球場)で、これは南海ホークスと読売ジャイアンツの2チームが1.5ゲーム差で優勝を争っていたシーズン終盤に行われた一戦。
「秋のひざしをうけた梶岡は、ヤレヤレといった顔つきで、腰のポケットからハンカチをひきだして額の汗をぬぐっています」と書かれていたが、この当時のプロ野球選手は試合中の汗をぬぐう時、ハンカチを使うのが普通だったのだろうか。

野球少年 昭和23年10月号(その3)

2014年06月22日 | 明治 大正 昭和のコレクション
野球少年 昭和23年10月号(その2)】のつづき
『東北・北海道シリーズ カメラの旅日記』は、プロ野球の遠征に帯同した石井善助氏(記者!?編集者!?)による写真と記事。
1948(昭和23)年7月26日の朝に上野駅を出発した読売ジャイアンツと大陽ロビンスの選手達は、27日の仙台市での試合後に夜行列車で青森に移動し、翌28日の朝には青函連絡船で函館へ。
連絡船の娯楽室ではロビンスの選手もジャイアンツの選手(川上青田、多田、川崎)も野球盤ゲームをしていたとのこと。
函館では湯の川に到着後、ジャイアンツが砂浜で練習。
翌日の試合後に大阪タイガース、金星スターズも合流して旭川へ移動したらしいが、「夜が明けると金星の車内では坪内と西澤がもう起きて話している」と書かれているので、これは夜行列車での移動だったようだ。
旭川での試合の翌日(8月1日)に帯広へ移動。
「試合では敵味方に分かれる川上と藤村。仲良く腰掛けて二十の扉を始めた」とある。
帯広到着は夜だったらしく、翌2日の早朝からなんと旅館前の道路で練習したとのこと。
市内の移動はトラックの荷台だったようで、写真も掲載されているのが面白い。
帯広での試合終了後に札幌へ移動し、翌3日は休日。
札幌市内を観光し、坪内(スターズ)、西澤(スターズ)、若林(タイガース)、(タイガース)の4人が、放牧されているヒツジの前で記念撮影をしている。
これは仲の良い選手が連れ立ってということではなく、あくまでも雑誌側の企画なのだろうと想像するが、実際のところはどうだったのだろうか。
4日、5日の試合を終え、再び函館へ移動。
そして、北海道での試合を終えてからは読売ジャイアンツと金星スターズが盛岡市で、大陽ロビンスと大阪タイガースは仙台市で試合を行い、この年の東北・北海道シリーズを終えたようである。
ちなみに、同遠征中の試合は、
読売ジャイアンツ6-3大陽ロビンス(評定河原球場/仙台市)=1948(昭和23)年7月27日
読売ジャイアンツ3-2大陽ロビンス(函館市民球場/函館市)=1948(昭和23)年7月29日
金星スターズ3-2大陽ロビンス(旭川市営球場第1試合/旭川市)=1948(昭和23)年7月31日
読売ジャイアンツ3-0大阪タイガース(旭川市営球場第2試合/旭川市)=1948(昭和23)年7月31日
金星スターズ6-1読売ジャイアンツ(帯広市営球場第1試合/帯広市)=1948(昭和23)年8月2日
大阪タイガース5-2大陽ロビンス(帯広市営球場第2試合/帯広市)=1948(昭和23)年8月2日
読売ジャイアンツ5-4金星スターズ(札幌円山球場第1試合/札幌市)=1948(昭和23)年8月4日
大陽ロビンス12-0大阪タイガース(札幌円山球場第2試合/札幌市)=1948(昭和23)年8月4日
大陽ロビンス6-2金星スターズ(札幌円山球場第1試合/札幌市)=1948(昭和23)年8月5日
大阪タイガース3-2読売ジャイアンツ(札幌円山球場第2試合/札幌市)=1948(昭和23)年8月5日
読売ジャイアンツ3-2大陽ロビンス(函館市民球場第1試合/函館市)=1948(昭和23)年8月7日
大阪タイガース4-3金星スターズ(函館市民球場第2試合/函館市)=1948(昭和23)年8月7日
大陽ロビンス3-2金星スターズ(函館市民球場第1試合/函館市)=1948(昭和23)年8月8日
読売ジャイアンツ8-0大阪タイガース(函館市民球場第2試合/函館市)=1948(昭和23)年8月8日
大陽ロビンス2-1大阪タイガース(仙台評定河原球場/仙台市)=1948(昭和23)年8月11日
読売ジャイアンツ2-1金星スターズ(盛岡市営球場/盛岡市)=1948(昭和23)年8月11日
と、以上のような結果だったようである。

野球少年 昭和23年10月号(その2)

2014年06月21日 | 明治 大正 昭和のコレクション
野球少年 昭和23年10月号(その1)】のつづき
雑誌『野球少年/十月號』(第二巻 第十號)は全50ページ。
高校野球、大学野球、都市対抗野球に関する記事がほとんどであり、プロ野球に関する記事は、『今はなき球界の偉人をしのぶ ベーブ・ルース』(3ページ)と『東北・北海道シリーズ カメラの旅日記』(4ページ)の二つだけだった。
読んでみると、ベーブ・ルース(本名ジョージ・ハーマン・ルース・ジュニア/1895年~1948年)に関する記事は、この年の8月16日に惜しまれつつ世を去った同氏を偲んでの特集記事。
「かれのなきがらは、かれがもっとも愛した思い出のヤンキー競技場へはこばれましたが、ここで、かれと最後の告別をしようとして集まる人々の數は十万人以上にのぼり・・・」等と書いてあり、寺院での葬式の前に野球場で告別式が行われたということに少し驚いた。
また、文中に「毎年4月27日をベーブ・ルース・デーとして米國でも日本でもかれの徳をしのぶ式典を行うようになりました」とあるのだが、これは現在でも行われているのだろうか。

つづく

野球少年 昭和23年10月号(その1)

2014年06月20日 | 明治 大正 昭和のコレクション
少年少女 譚海(躍進六月号)』や数々のプロ野球選手カード等と共に発見した雑誌『野球少年(十月號)』の表紙は、初見の際に戦前の物と勘違いしたほどに古めかしさを感じるデザイン。
しかし、裏表紙を見ると"昭和23(1948)年9月15日發行"、"別冊附録共定價四十圓"と書かれていた。
これは間違いなく太平洋戦争後の雑誌で、タケカズ少年が15歳の時に買った本らしい。
(^_^)
目次を見ると、表紙は「六大學應援旗」、グラビアに「甲子園大會熱戰畫報」、記事は「都市對抗第一の大熱戰」等とあり、プロ野球よりアマチュア野球の記事が多いようだった。
「誌上放送/甲子園大會白熱の優勝戰」という記事の見出しにはカッコ書きで、"この誌上放送は大きな聲で讀むといっそう興味がわいてきます"とあったので、当時の子供達は大きな声で読み合っていたのかも知れないと想像して、楽しくなった。
(^。^)

つづく

古い絵はがき(その13)帝國軍艦集

2014年06月19日 | 明治 大正 昭和のコレクション
古い絵はがき(その12)旅順戰蹟】のつづき
"帝國軍艦集 高級原色版"と書かれた袋の中に大日本帝國海軍の艦船が印刷された絵はがきが8枚入っていた。
それぞれに"横鎭第六一号ノ一六〇ノ二 昭和十六年九月廿七日許可濟"と印字されているのだが、その他は一切触れられていない。
【左上】たぶん戦艦。
【右上】航空母艦。
【左下】潜水艦。
【右下】戦艦!?
艦船名はまったく分からない。

古い絵はがき(その12)旅順戰蹟

2014年06月18日 | 明治 大正 昭和のコレクション
古い絵はがき(その11)聖徳太子實傳】のつづき
"旅順戰蹟"と書かれたモノクロの絵はがきを10枚発見した。
すべてに"要塞司令部檢閱濟"とも書かれている。
これは、"日露戦争"(1904年~1905年)後の"ポーツマス条約"(1905年9月5日)の取り決めによってロシアから日本に譲渡された関東州(遼東半島南端部)に位置した"旅順要塞"を写したものらしいが、この陣地をめぐる戦闘は4か月あまりにも及ぶ激戦だったとのことである。
【左上】望臺砲臺の遺砲。THE AFTER WAR OF RYOJUN。
【右上】東雞冠山北堡壘コントラデンコ少将戰死の場所。THE AFTER WAR OF RYOJUN。
【左下】東雞冠山北堡壘の掩蔽部。BATTERY HIGASHI-KEIKANZAN RYOJUN。大きな穴は着弾の跡か。
【右下】東雞冠山北堡壘の掩蔽部の内部。BATTERY HIGASHI-KEIKANZAN RYOJUN。2階の床がすっかりなくなっているようだ。
例によって、いつ発売された物なのかは不明である。

古い絵はがき(その11)聖徳太子實傳

2014年06月16日 | 明治 大正 昭和のコレクション
古い絵はがき(その10)北海道博覧会 第3会場】のつづき
「聖徳太子實傳(一)皇后穴穂部間人懐妊中官省を巡視し厩戸に到り太子を産み給ふ因て厩戸皇子と稱す」と、「聖徳太子實傳(七)太子佛力に依らざれば克つ能はざるを度り自ら四天王の像を作り頂髪中にて戰ふ」という絵はがきが出てきた。
このシリーズは2枚しか見つからなかったのだが、一体何枚1セットだったのだろうか!?
おそらく、1セットの中でひとつの物語が語られていたに違いない。
いつ頃に販売されたものであるかも不明である。
さて、西暁寺(増毛町南畠中町1丁目)は毎年、本堂及び境内にある太子堂において"増毛町聖徳太子祭"を執り行っているのであるが、本(平成26)年より、これまで長らく固定してきた日程(6月21日・22日)を変更し、6月28日(土)と29日(日)の2日間とすることを総代会(2014年6月2日)において決定した。
まぁ、檀家の中で細々と続けているお祭なので、どこに対しても特段の影響を及ぼすものではないのではあるが・・・。
(^_^;)

古い絵はがき(その10)北海道博覧会 第3会場

2014年06月13日 | 明治 大正 昭和のコレクション
古い絵はがき(その9)北海道博覧会】のつづき
"開道五十年記念北海道博覧会"(1918年8月1日~9月19日)の第3会場は、小樽区。
ここには水族館が設けられたようである。
【左上】水族館。ほとんどの人が帽子をかぶっている。
【右上】演芸館。外壁に飾られている看板のような踊りが出し物のようだ。
【左下】金魚の水槽。"第一会場"とあるのは誤植であろう。
【右下】あざらしの池。海水を入れて池を作ったのだろうか。人だかりがあるのは"大亀の池"だと思う。
スタンプには日付がない代わりに"小樽"と書かれている。
2種類のスタンプに共通しているのは【五稜星】と【(おそらく)すずらん】で、小樽のスタンプには星の周りに"十"が5個描かれている。
"五十年"を表現しているのだろう。

古い絵はがき(その9)北海道博覧会

2014年06月12日 | 明治 大正 昭和のコレクション
古い絵はがき(その8)仁丹毒滅本舗 森下博薬房発行】のつづき
1918(大正7)年8月1日から9月19日までの期間、"開道五十年記念北海道博覧会"という催しが開催されていたらしく、これらはその際に発売された絵はがきのようである。
当時の北海道には札幌区・函館区・小樽区(1899年10月~1922年7月)、旭川区(1914年4月~1922年7月)、室蘭区(1918年2月~1922年7月)という区分けもあったらしく、この博覧会は札幌区(第1会場・第2会場)と小樽区(第3会場)で開催されていたようだ。
【左上】正面。第1会場は札幌区の中島公園。右下には沢山の人力車がいるように見える。
【右上】京都館。ほかに朝鮮館、農業別館、土木交通館、参考館という絵はがきもあった。
【左下】大噴水。かなり大きいボートが浮かんでいる。
【右下】前駅アーチ。駅前アーチの誤植であろう。第2会場は札幌駅前通り。
絵はがきは製造年や写真の撮影日が不明なものが一般的だが、このように日付入りのスタンプ(紫色)が押してあり、そこから年代が特定できるというのは珍しい。

つづく

古い絵はがき(その8)仁丹毒滅本舗 森下博薬房発行

2014年03月18日 | 明治 大正 昭和のコレクション
古い絵はがき(その7)優勝旗を獲得したる西方猛将】のつづき
6個の円の中にそれぞれ別人の写真がはめ込まれている。
背景に竹と花の絵が描かれていることから、1個の円は花びら、その他の5個の円は竹の断面を表現しているのかもしれない。
説明の小さい文字がかすれていて良く分からないのだが、皇室の面々なのだろう。
裏面の切手を貼る欄には"完全ナル懐中薬"、"消化と毒けし"と書かれている。
"完全ナル"とは恐れ入った。
(^_^;)

つづく

古い絵はがき(その7)優勝旗を獲得したる西方猛将

2014年03月10日 | 明治 大正 昭和のコレクション
古い絵はがき(その6)日米間海底電信開通記念】のつづき
本日の画像は、"優勝旗を獲得したる西方猛将"と書かれた古い絵はがき。
"向って右より能代潟、西ノ海、若葉山、射水川"との説明があるので、この4人の力士について調べてみた。
【能代潟錦作】(のしろがた きんさく)は、秋田県山本郡藤里町出身、錦島部屋。
1915(大正4)年1月場所に初土俵(幕下付出)、1921(大正10)年5月場所に新入幕、1936(昭和11)年5月場所をもって現役を引退している。
本名は石田岩松(いしだ いわまつ/1895年~1973年)。
最高位は、大関(第161代/在位23場所)で、幕内での成績は230勝171敗9分1預43休(勝率.574/43場所)、金星を1個(玉錦)を獲得している。
各段優勝は、1928(昭和3)年3月場所の幕内最高優勝(10勝0敗1分)と、1922(大正11)年1月場所の十両優勝の各1回。
寄り、捻り、押しが得意だったようである。
【西ノ海 嘉治郎/3代】(にしのうみかじろう)は、鹿児島県西囎唹郡西国分村(現鹿児島県霧島市)出身、井筒部屋。
1910(明治43)年1月場所に初土俵、1916(大正5)年1月場所に新入幕、1928(昭和3)年10月場所をもって現役を引退している。
本名は松山伊勢助(まつやま いせすけ/1890年~1933年)。
最高位は、横綱(第30代/在位15場所)で、幕内での成績は134勝60敗2分2預116休(勝率.691)、金星を1個(鳳谷五郎)獲得している。
各段優勝は、1925(大正14)年5月場所の幕内最高優勝(9勝2敗)と、1915(大正4)年6月場所の十両優勝(6勝0敗1分)と、1914(大正3)年1月場所の幕下優勝(5勝0敗)と、1912(明治45)年1月場所の序二段優勝(5勝0敗)、各1回。
出し投げ、すくい投げ、のど輪攻めが得意だったようである。
【若葉山 鐘】(わかばやま あつみ)は、千葉県千葉郡(現千葉県千葉市若葉区)出身、二十山部屋。
1913(大正2)年5月場所に初土俵、1920(大正9)年5月場所に新入幕、1933(昭和8)年5月場所をもって現役を引退している。
本名は、小林鐘(こばやし あつみ/1895年~1958年)。
最高位は東関脇で、幕内での成績は203勝198敗1分1預15休(勝率.506/40場所)、金星を3個(宮城山福松)を獲得している。
各段優勝は、1917年1月場所の三段目優勝(5勝0敗)1回。
諸筈押しが得意だったようである。
【射水川 健太郎】(いみずがわ けんたろう)は、富山県高岡市出身、稲川部屋→高砂部屋。
1911(明治44)年6月場所に初土俵、1920(大正9)年1月場所に新入幕、1926(大正15)年5月場所をもって現役を引退している。
本名は、松崎健次(まつざき けんじ/旧姓麻井/1894年~1956年)。
最高位は小結(1場所)で、幕内での成績は53勝50敗1分1預31休(勝率.515/13場所)、金星を1個(栃木山)獲得している。
上突っ張り、右四つが得意だったようである。
さて、現在は廃止されているのだが、1909(明治42)年の旧両国国技館完成時に"東西制"という東西対抗団体優勝制度が設立され、幕内取組勝数合計の多い側を優勝、また、優勝側の最高成績力士(関脇以下)に"旗手"という名誉を与え、パレードを行っていたとのことである。
この4人の力士が同時に幕内に在籍したのは、1921(大正10)年5月場所から1926(大正15)年5月場所までの間だが、若葉山関が旗手を務めたのは、小結で8勝2敗の好成績を挙げた1925(大正14)年1月場所のことだったようで、この絵はがきはその時のもののようである。

つづく

古い絵はがき(その6)日米間海底電信開通記念

2014年03月07日 | 明治 大正 昭和のコレクション
古い絵はがき(その5)北海道シリーズ】のつづき
2012(平成24)年の夏に我が家の押入れから出てきた古いコレクションを最近になって整理し直してみたら、また沢山の珍しいものを発見した。
(^_^)
本日の画像は【日米間海底電信開通記念】と右側から書かれている古い絵はがき。
切手を貼る欄に「内國には壹銭五厘、外國へは四銭切手」と書かれている。
調べてみると、"日米間太平洋横断国際海底ケーブル"が開通したのは、1906(明治39)年8月1日のことらしく、この絵はがきもおそらく同年に発売されたものではないかと推測する。
赤い背景の部分には、左側に"皇居"、右側に"ホワイトハウス"の写真が使われており、その下の白っぽい背景(地図)の部分には、"東京 - 小笠原島 - グアム島 - ミッドウェイ島 - 布哇(ハワイ) - 桑港(サンフランシスコ)"を結ぶ赤い線が描かれている。
この赤い線こそが太平洋横断海底ケーブルであるわけだが、グアム島で分岐されたケーブルの一方は、比律賓(フィリピン)を経由して上海(シャンハイ)まで敷設されている。
"ミッドウェイ島"とは、北太平洋のハワイ諸島北西にある小さな島(面積は6.2平方km)。
かつては重要な軍事拠点のひとつとも考えられていた場所のようだが、(この海底ケーブルは現在も使用されていることから)通信の分野ではいまだに世界の拠点のひとつであるらしい。
ちなみに、このケーブルの敷設を目的として建造されたのが"小笠原丸"。
同船は1945(昭和20)年8月22日に国籍不明の潜水艦による攻撃のため沈没したのであるが、増毛町の町営墓地には犠牲者を慰霊する"小笠原丸殉難碑"が建立されており、慰霊祭も行われている。

つづく

特別グラフ 優勝巨人軍(その2)

2013年09月18日 | 明治 大正 昭和のコレクション
特別グラフ 優勝巨人軍(その1)】のつづき
画像左には「燦然と輝く優勝カップを授与される!中島治康監督」、画像中には「莞爾として栄ある優勝旗を保持する!平山菊二主将」、画像右には「"ファン手帳"よりのカップを受ける千葉茂コーチ」との説明が書かれているが、1949(昭和24)年シーズンの千葉茂2塁手はどうやらコーチ兼任であったらしい。

特別グラフ 優勝巨人軍(その1)

2013年09月18日 | 明治 大正 昭和のコレクション
"1949年度日本野球リーグ優勝チーム 巨人軍"と書かれたB4版大のポスターの裏面は【特別グラフ 優勝巨人軍】と題され、数枚の写真が掲載されていた。
表面には何の記載もなかったのだが、こちらの面には「野球日本・昭和25年1月號附録」(昭和24年3月7日第三種郵便物認可・昭和24年4月5日運輸省特別承認雑誌第926号)と書かれていることから、これはどうやらジャイアンツが優勝した1949(昭和24)年シーズンの翌年1月号として発売された『野球日本』という雑誌の付録だったらしい。
画像左には「ペナントを受ける巨人軍三原総監督」、画像右上には「連盟鈴木副会長より賞金を受ける内堀保マネエジヤー」、画像右下には「左より三原総監督、中島監督、平山主将、内堀マネージヤー、千葉コーチ」との説明がある。

つづく