白洲 正子文学逍遥記

故・白洲正子様の執筆された作品を読み、その読後感と併せて能楽と能面、仏像と仏像彫刻、日本人形、日本伝統美術についてご紹介

佛像と佛像彫刻-002

2012-04-22 | 日本の伝統芸術

日本の伝統芸術と芸能 

佛像と佛像彫刻<その02

 

amusonia

 

* 野の花の写真には花咲おまささんの著作権が付いております。

 朝から大雨が続いております。気象庁のレーダーを見ますと、沖縄本島から奄美に掛けて物凄い豪雨の雲が掛かっていて、少し心配になっています。昨年の11月の大洪水の予感がするような感じ。 なんとか、外れてくれますように・・・・

 さて、本日も仏像についてお話したいと思います。私は仏像を彫刻したことはありませんが、彫刻関係の本は資料としてそれなりに持っております。能面の面打ちを始めましたのが、30歳代の初めの頃でしたが、仏像の初歩の彫り方を学んだのはもう少し早かった頃だと記憶しております。

近くに仏師が居なかったことも有り、その後は面打ちに転向していった経緯が有りました。本音のところの好み度合いは仏像60%、能面面打ち40%ところでしょうか。

 湖西方面より安土・蒲生野を望む・・・写真左の山は西国三十一番札所・長命寺山

 

 先回は、湖北の高月の向原寺内にある渡岸寺の「十一面観音菩薩」のところまでお話しました。 湖北は今でもそうですが、素晴らしい仏像が沢山安置されているお寺、神宮寺、観音堂などが結構多いのが特徴です。

姉妹ブログの<白洲正子著作集・読書日記>も神宮寺について書いておりますので、多少ダブルかもしれませんが、そのブログをご覧に頂ければ参考になるかもしれません。 http://shirasumasako.blog.fc2.com/

 堅田付近より比叡山連邦を望む

 

何故こんなに素晴らしい仏像が湖北に多いんでしょうか?

A- 湖北地域は古代の朝鮮からの文化の通り道であったということだと思います。百済、新羅、高句麗から日本の奈良や京都方面に文化が移入する際、敦賀湾に季節風が吹くという自然現象に、大きく影響されるということがあったと思います。当然のことながら、仏像などに関する文物(技術者、僧、文献)は敦賀ー北琵琶湖(塩津)ー大津というようなルートを経たものと思います。 <津>は港を意味します。  

 

 

B- 現在の大津市内の外れに和邇という町があります。ここは和邇氏という豪族が隋の遣隋使があったころから存在しておりました。この豪族の力の及ぶ範囲は玄界灘までだとされて居ります。大変な勢力でした。小野妹子が遣隋使に任命され都合2回ほど、隋に渡っておりますが、これが出来たのもこの豪族の力有っての事でした。そのため、今でも和邇氏の傍に小野という集落があり、小野神社、小野妹子神社、小野一族の神社、仏閣、墓地(古墳)が存在します。

C- 中世時代羽柴秀吉による坂本城攻撃によって、明智光秀一族が敗れた際に、周辺の小さな城や神社仏閣が攻撃され、その際夥しい仏像などが散逸した模様です。一部の仏像は信仰の厚い農民によって土中に埋められ、匿われたという事が有ったようです。 渡岸寺の十一面観音菩薩は傍で肌の状態を見ると良くわかりますが、漆の厚く掛かった皮肌に金粉が付いているのを発見することが出来ます。恐らく土中に埋められた時に、金箔が取れてしまったのでしょう。

             滋賀県高月 十一面観音菩薩立像

           

 

このような歴史的背景がありますので、何でもない観音堂や神社に吃驚するような仏像が安置されております。私事で恐縮ですが、信長に滅ぼされた浅井長政の出生地が神社になっておりますが、その中に産湯を使った井戸跡があります。その神社の横に私は偶然住んでおりました。

私は毎日出かける時、神社内の観音堂に礼拝をしておりました。ある時、土地の氏子が観音堂内を掃除をしておりましたので、中の仏を見せてくれるよう頼みましたところ、<何時も観音様に礼拝してるね!>と言って、快く見せてくれました。それから、中の観音菩薩を見て・・吃驚しました。 素晴らしい作の観音像でした。このような小さな観音像に安置するような仏像では有りませんでした。

                       小谷山を望む

 

一見して、都の専門の仏師が鎌倉時代の頃辺りに製作したものと思われる秀品でした。このように何でもないようなところに、驚くほどの仏像が安置されているのが、湖北の現状なのです。恐らく、昔はどこかの大寺に有った仏像だと思います。浅井 長政の死後、村民がそこにほとぼりが冷めてからこっそり隠したのでしょう。その、観音堂のところから道を山に向かうと、落城した小谷城なのです。

            小谷城址

 

いやはや、知らないでトンでもないところ(有り難い事でもありますが)に住んだものです。やはり、観音との仏縁なのでしょうね。長政の血は皮肉なことに安土・桃山・江戸時代を動かしていくことになります。彼の娘でしたね。皆さんもご存知の通り。以後、観音様は私の傍に何時も居てくれているかのようです。

高月の十一面観音は私にとって絶対に忘れられない観音様になりました。奄美に移住しても、毎日お写真に礼拝させてもらっております。

            <オン ロケイジンバラキリクソ ワカ

さて、本日の最後は能面の名品のご紹介をさせて貰います。先日辺りから男面をご紹介しております。男面も若い面<童子><今若><かっしき>などから<中将>などの中年の相貌などがあります。 面打ちの技術のほうから見ますと、女面と同様の難しさが有ると思います。凹凸が少なく、特に童子などは毛書をすこし変えるとすぐ女面に変貌してしまいます。

先回は児玉家近江満昌の弟子<宮田 筑後>作の「童子」をお見せしました。少し相貌の面から見ますと、類型面の<慈童>に近いかと思います。

               童子 

出目 洞水 作           近江 満昌 作

   

 いかがでしょうか。宮田 筑後とはやはり少し違うのが、解っていただけると思います。今回掲載した童子の方が基本面だと思います。出目 洞水は彩色の面で非常に優れた名手だそうで、流石という出来ですね。眉を落とし、毛書きを女面のようにすると、即素晴らしい女面になるでしょう。如何ですか。

近江 満昌の面のほうが童子の定型に近いと思います。天下一 近江の焼印が裏にあるそうです。 個人的には出目 洞水が好きですが、皆さんは如何でしょうか。 

次の面は先回の童子に少し近い<慈童>という妖精の面です。「舌出慈童」という面です。江戸中期の作品だとか。大野出目家の面打ち師の作のようです。

童子と同じように神性をもつ少年を表し、「大江山」の前シテの酒呑童子などに使用されます。なかなかの出来ですね。品が有ります。

慈童

       

 では、本日はこれ位にして次回は「能面と能楽」に戻ります。

 

 

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