第二次世界大戦の終戦記念日がまたやってくる 敗戦記念日と言った方が切実である
東京大空襲は 広島・長崎の原爆にも匹敵する 怖ろしくも哀しい惨劇であった
碁盤の目のように焼夷弾を落とし 逃げ道を無くした人々が 業火に身を焼かれ 隅田川や中川に飛び込んだ
何万の亡骸は 無造作に上野公園や錦糸公園など 広い場所に積み上げられ荼毘に付した
これは生き残った方たちが 今年 ある場所で証言してくれたものである
生々しく語る地獄のような光景は この方たちによって語り伝えられ 平和の尊さを私たちに教える
先日の鹿児島のFM銀河 てんがらもんラジオでは 海野さだこさんが 奄美大島の本土復帰運動を伝えた
沖縄の地上戦ほどではないが 日本の敗戦 無条件降伏によって 奄美大島は本土と切り離された
もちろん 日本全体もアメリカ軍の占領下に置かれたが 講和条約後も取り残されたものである
奄美大島も 沖縄も 今ではリゾート化され そんな悲しい歴史は 時代とともに埋もれて行く
海野さんのように 証人としの語り部の存在は大きな意義を持つ
奄美群島の地理的位置や 十島村の話が出てくるが ラジオでは理解が難しいので ここに紹介します
鹿児島の南方の離島が多くあるが 屋久島の西に3つの島がある・・これを上3島
そして さらに南に口之島から横当島まで トカラ列島の島々 これを含めて十島村(じっとうそん)だった
だが占領軍は北緯30度から北を鹿児島県に 下7島は占領下に置いたのである
以前は同じ村のくくりにあったのが 敗戦によって分割されてしまったのである
占領下ではもちろんアメリカ軍の指揮系統に入る
本土が講和条約以後 独立国家になったが 奄美の方々と沖縄は 本土復帰運動を激しく活動する
中には過激思想だと逮捕されるものもいるが 本土へは往来も禁止されて復帰への願いも強かったと思う
そんな背景の中で 海野さんたちは 身体を張って活動の先頭に立つ
なお 女性の仕事への思いも 生活の苦しさから強い そのためには託児所の建設も必須だった
この間の復帰運動の記録とについては 自身が著書として残した きょら島慕情 である
ここでは語られないが 奄美では仕事もなく 同じ占領下の沖縄に出稼ぎに出る方も多かったと何かで読んだ
だが 沖縄でも外部の人間 本土からは見放され このはざまで奄美の方は嘆き苦しんだ方も多い
ラジオという媒体で イメージだけで想像させるのは 話術も含め難しいものである
さらには ごく短い時間で 半生の生き方 来し方を語るのも大変と リスナーとしても労いたいものだ
86歳の現在 平和のありがたみを身を持って感じ取られているだろう
ちなみに奄美大島の本土復帰は 1953年のことである
さらに沖縄の本土復帰は それよりもかなり遅れ 1972年 昭和47年のことである
東京も 広島も 沖縄も 戦争があったことが信じられないほど発展した
こうして 語り部が伝えてくれなかったら 平和の意義も薄れてきてしまう
私も 私と同じ世代の方も 幼かったけれど戦争のむなしさは身を持って体験してきた
そういう面でいえば シニアの方々も みんな何がしかの哀しい思い出を伝える語り部でもあろう
http://www.ustream.tv/recorded/90040299
もうすでに一度聴いた方も この地図を眺めながら 海野さんの話を聴きなおして欲しいと思う
2時間番組の ほぼ前半に語られ 出だしは 私たちリスナーさんの感想などが丁寧に読まれている
てんがらもんラジオ 皆さんと鹿児島の距離を大幅に縮め 親しみが更に深まっているでしょう
最後までお読みくださいまして有難うございました m(_ _)m
実家の母は私を身ごもったまま 旧樺太から引き上げてきました。
日本の北と南で状況は違うけど、日本人が悲惨な苦労をしてきたのですね。
出先からのコメント感謝です
なんだか固い記事になってしまって 放送の肉づけになるかは疑問です(笑)
でも想いだけは伝わるかなと そんな感じですね
だんだん戦争を知らない世代が増えてきますね
でもごお母様の波乱万丈の道を知ることは大切ですね
樺太には沖縄と同じように地上戦のようなものがありましたね
ポツダム宣言を受けて無条件降伏したにも拘わらず ロシアの軍隊は不可侵条約をも破って 樺太へ侵攻して日本人を殺戮 最後は全員を追い出しましたね
命を落とされた方も多く 本土へ逃れて来た方も 厳しい環境にさいなまれたと思います
お母様の極限の苦労を私も察します