越川芳明のカフェ・ノマド Cafe Nomad, Yoshiaki Koshikawa

世界と日本のボーダー文化

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書評 J.M.クッツェー『鉄の時代』

2008年11月07日 | 小説
白人老女と浮浪者の目から
J.M.クッツェー(くぼたのぞみ訳)『鉄の時代』(河出書房新社)
越川芳明

 本書は1986年の南アフリカ共和国のケープタウンを舞台にしているが、アパルトヘイトに撤廃されるのが1993年のことだから、この国がまだ混乱の最中にあった時代を扱っていることになる。のちに大統領になるマンデラもまだ獄中に繋がれている頃の話だ。

 学校でのアフリカーンス語の強制に反発した黒人学生の授業ボイコットに端を発し、警察によって武器を持たない黒人学生が射殺されたりした、いわゆる「ソウェトの蜂起」は、それより10年前のことである。この小説は、そうしたきな臭い時代を、その理不尽かつ差別的な制度の恩恵を受ける一般白人市民の目から捉える。

 主人公(語り手)ミセス・カレンは七十歳の白人老女。かつて大学でラテン語の教師をしていたらしいが、いまは黒人の家政婦フローレンスを雇い、独居生活をしている。ハイブラウな職業柄、彼女の語る物語はウェルギリウスの詩や古代ローマの言い回しをはじめ学識にあふれていて、まるで「講義」のようだ。

 だが、それらは身近にいる黒人たちの心には入らないし、かれらから返ってくるのは、「沈黙」でしかない。もっとも身近な黒人たちの現実ついてまったく無知なせいで、彼女の学識は、まるで実のならない果実の木のように、かれらからありがたがられない。

 老女自身はたぶん乳癌を患っており、片胸を手術で失っている。この小説は、十年前に米国に逃げた娘に当てた「遺書」という形式をとる。その中で老女は面白いことを言っている。

 娘はアパルトヘイトを嫌って国外に脱出したのだが、それは決して亡命とは呼べない、自分こそが国内で亡命しているのだ、と。

 彼女にそうした認識をもたらしてくれるのは、白人からも黒人からも「人間のクズ」として白い目で見られる社会的アウトサイダー、浮浪者のミスター・ファーカイルだ。かれは彼女の庭に居候をきめこみ、彼女のぽんこつ車を押すという労働を得て、つねに彼女のドライブに付き添う。

 本書は、またの名を「メタモルフォシス(変身)」と呼んでもいいかもしれない物語だ。この小説は、老女の大きな精神的変化を扱っていて、彼女が通常の境界を越えて黒人居住区(タウンシップ)へと越境し、そこで初めてこの国のジャージャリズムがまったく伝えていない警察による黒人少年への暴力事件を目の当たりにして、次第に目覚めていくプロセスを追う。

 彼女は自らの家に逃げ込んだ黒人少年を守ろうとして警察に抗議し、撃ち殺された少年のことを「わたしはあの少年とともにある」と告白するまで変わる。

 アパルトヘイトを死守しようとする白人支配層も、それに断固反対する黒人側もすべて原理主義の「カルヴァン派」のように「鉄の時代」に生きているなかで、唯一、アル中の浮浪者と死に行く老女だけが、鉄を溶かす柔軟性を持つ。著者は、そこに変化する南アへの期待をこめたにちがいない。

(『Studio Voice』2008年12月号、112-13頁)

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