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書評 コーマック・マッカーシー『ザ・ロード』

2008年07月28日 | 小説
終末論的世界を旅する父子の物語
コーマック・マッカーシー『ザ・ロード』(早川書房)
越川芳明

 マッカーシーはメルヴィルやポーなど、アメリカン・ゴシックの代名詞というべき<暗い想像力>を受け継ぐ作家として知られている。

 映画化された前作『血と暴力の国』(映画の邦題は『ノーカントリー』)の殺人鬼アントン・シュガー同様、本作でも、核戦争後とも思える地獄絵の中を旅する父子を襲う野蛮な人食集団が出てくる。

 主人公の父子は、そうした「悪者」と対峙する「善い者」として、自分たちを「火を運ぶ者」呼ぶ。そもそも古代に人類が手にした「火」がやがて核兵器をもたらし、この小説の舞台である「死の灰の世界」を生みだしたと考えれば、作者の意図するところは単純ではなく、むしろ両義的だ。

 「火」は人類に科学的な進歩をもたらす一方、科学文明そのもの死をもたらしかねないからだ。それでも、人類は生き延びるために「火」を手放すことはできない。
 
 父子は、人類も動物も草木もほとんど死に絶えた厳冬の終末論的風景(米国)の中を南へと旅する。ショッピングカートに缶詰や水やオイルなどを載せて。

 斬首された赤ん坊が串焼きされているような悪夢的な光景をたえず目の当たりにする少年が父親に向かってする根源的な問いは、「ぼくは人を食べたりしないのだろうか?」というものだ。果たして人間は希望のない世界で絶望に陥らずに生き続けることがでるのか。それは、作家がこの小説で自らに問うた問いであった。

 小説は、父子が野宿し、食料をあさる荒廃した土地やひと気のない見捨てられた家などを、地をはうような徹底的な写実主義で描写する。その一方で、メッセージ性の強い寓話によく見られるように、登場人物に名前はつけられていない。

 唯一、父子が途中で出会う乞食の老人だけが嘘の名前を告げるだけだ。また、父子が旅する土地にも名前がない。ボロボロになった地図で、父子は現在位置を確認するが、読者はその名を知らされない。
 
 かくして、写実主義的な細部描写と、より普遍的な寓話的操作とが混交した、ユニークなハイブリッド文体で、こうした暗い終末論世界がどの街にも、どの人にも訪れるものとして、圧倒的な説得力を持って迫ってくる。
(日本版『エスクァイア』2008年9月号)

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