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コーマック・マッカーシー: 米国の「暴力依存」見据える作家

2008年03月29日 | 小説
米国の「暴力依存」見据える作家
『ノーカントリー』のコーマック・マッカーシー
越川芳明

 先ごろ米アカデミー賞(作品賞、監督賞ほか)に輝いたばかりのハリウッド映画『ノーカントリー』が公開中だ。

 ドラッグの密輸団による抗争を題材にしたこの映画には原作があり、著者はアメリカの作家、コーマック・マッカーシー(一九三三年生まれ)。

 フィリップ・ロスやトマス・ピンチョンらと並んで、毎年秋になると、ノーベル賞の「候補」として噂される実力派作家である。

 小説『ノーカントリー・フォー・オールド・メン』(二〇〇五年、邦題『血と暴力の国』)は、スリラーとも「暗黒小説」とも括られても仕方ないほどに、暴力シーンが目につく。

 だが、マッカーシーは、これまでずっと執拗に暴力を描きつづけてきた。

 フォークナー賞を受賞したデビュー作『オーチャード・キーパー』(一九六五年)は、実の父親を殺した密造酒売人をそれと知らずに英雄と仰ぐ少年を主人公にした物語だった。

 二作目の『アウター・ダーク』(一九六八年)はアパラチア山脈の奥地を舞台にして、兄妹の近親相姦と嬰児殺しをテーマにした小説だった。

 マッカーシーにとって、暴力とは何だろうか。『ノーカントリー』は、八〇年代のテキサスが舞台となっているが、二〇世紀にアメリカの絡んだ戦争が影を落としている。

 たとえば、登場人物の一人、モスはヴェトナム戦争では狙撃兵だった。いまは、安っぽいトレーラーハウスに若い妻と住んでいるが、平原でひとりカモシカ猟をしているうちに、密輸団の残した大金を見つけてしまう。そこから急坂を転げるように運命に翻弄される。
 
 いま米国史を振り返ってみれば、この国は紛争や事態の解決のために、絶えず暴力を使うことを肯定してきた。イギリスからの独立も民兵の武力行使で勝ち取ったものであり、その後の建国も、先住民の虐殺や排除によって成り立ったものである。国連決議を無視した最近のイラク戦争への突入などを見ても、暴力への依存は米国の強迫観念とさえ言える。
 
 マッカーシーが、小説の中でさかんに暴力を描くのは、かつての西部開拓を美しい神話にして美化したりせず、米国の暴力への依存体質を見据えているからに他ならない。
 
 この小説でも、老いたベル保安官はみずからの無力を自覚しながら、「この郡は四十一年間に未解決の殺人事件が一件もなかったのに、いまじゃ、一週間に九件もある始末だ」と、嘆く。
 
 しかし、かれのいう<古きよき西部>というのは、後の世代の者たちがこしらえた神話であり、ノスタルジーの産物だ。現実は無法者たちの狼藉がまかり通っていた暗黒世界ではなかったのか。
 
 国境三部作の『越境』(一九九四年)に出てくる、メキシコに住む盲目の老人の言葉が忘れがたい。老人の娘がいまはずいぶん時代が変わったと言うのに対して、盲目の老人は、世界は何も変わっていないというーー
「世界は、日々新しく生まれ変わる。神が毎日そう作るからだ。だた、その世界の中に昔と同じように、悪魔たちもいるのだ」と。
 
 『ノーカントリー』にも、ドラッグ密売団に雇われたシガーという殺し屋が出てくる。牛を屠畜するための圧縮空気銃を使って、誰構わず容赦なく殺しをおこなう冷血鬼だ。

 マッカーシーは、この血と暴力を欲する男に、血塗られたアメリカ「西部」の真の姿を象徴させようとしているのではないだろうか。

(『毎日新聞』2008年3月28日(金)夕刊 文化欄)



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