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ロベルト・コッシーのキューバ紀行ーー2015年(10)キューバとアメリカ(その4)

2015年10月12日 | キューバ紀行

(写真:デンバーに移住するキューバ人の一家、米国大使館の近くで)

アメリカとキューバ(その4)  

越川芳明

アメリカ大使館の近くにある公園には、初めて入国査証(ビザ)の申請のために訪れた人も、すでに大使館員との面接を済ませ、申請が受理されてビザを取りにきた人もいた。2度目に訪れたとき、いろいろと話が聞けた。  

25歳だというが、とても落ち着いた感じの白人女性は1週間前に申請を済ませて、ビザを取りにきていた。4年前から夫(30歳)がフロリダのタンパに住んでいて、ようやく一緒になれるのだという。  

恰幅のいい中年の白人女性(45歳)は、初めて申請に来た。この10月で50歳になる夫が1年前にアメリカに亡命した。彼女も夫の住むマイアミに移住したいのだという。  

50歳ぐらいの混血女性は、ハバナ空港に近いボジェロ地区に住んでいる。初めて申請にきた。親族らしい人たちが彼女を囲んで、話を聴いていた。女性によれば、彼女の夫、娘夫婦、娘夫婦の子どもたちだという。彼女の弟がフロリダに暮らしていて、家族全員で移住したいのだという。みなでフロリダのディズニーワールドに行くみたいに、期待に胸をふくらましている感じだった。  

30代の白人女性は、夫の代わりに短期滞在用のビザを取りにきた。夫がメソジスト系(プロテスタント)の教会の仕事で、オハヨオ州に行くのだという。あなたは同行しないのですか?と訊くと、私は行かない、とあっさりと答えた。こうした手続きには慣れた感じだった。  

この小さな公園は、まるでいろいろな人々の思惑や不安や希望が交錯するジャングルだ。とはいえ、ここにいる人たちには、ちょっと前までキューバが閉塞状況にあったとき、ボートや筏でメキシコ湾流を渡ろうとした人々の切羽詰まったようなところはない。少なくとも飛行機でアメリカへ旅するだけの経済的な余裕がある人たちだった。  

ビザを申請するにせよ、受け取るにせ、みな午後1時に来るように指示されていた。ようやく1時半をすぎた頃に、大使館のゲートから赤いビブスをつけた白人女性が公園のほうにゆっくりと歩いてくる。いま大使館で働いているキューバ人は3000名と言われるが、そのうちの1人だ。女性は、ビザを申請にきた人のグループと取りにきた人のグループに分かれ、2列に並ぶように命じる。初めて申請にきた人は4、5名。それに対して、ビザの受け取りにきた人は20名以上いた。

赤いビブスの女性に率いられ、彼らはまるで囚人みたいに一列になってぞろぞろと大使館のゲートのほうへ歩いていく。真上から太陽が彼らを容赦なく照らす。  

これは、親しい友人から聞いた話だが、アメリカに旅するのは比較的容易になっているようだ。一度、滞在許可が得られれば、何度も行き来できるようだ。ちなみに、その友人の知り合いは、3カ月ほどテキサス州のヒューストンに滞在して、そこで働いてカネを稼ぎ、いったん帰国して1カ月ほどキューバにいて、またアメリカに出稼ぎにいく。手に職があるので、それほど過酷な労働条件にさらされないという。  

私は、それ以外に二つの出稼ぎのケースを思い出す。ハバナのサントスワレス地区に住み、タクシーの運転手をしているアーノルドは、いま53歳だ。数年前に弟が単身でフロリダに出稼ぎにいった。最初、マイアミに行ったが、その町でカストロ体制のキューバへの反感、経済難民への冷たい視線を感じて、さらに北の都市へいき、そこのタイヤ工場で働いた。休むことなく働いたが、暮らしはちっとも上向かなかった。  

アーノルドは、「上向く」という意味で「プログレソ」という単語を使った。英語で言えば「プログレス」。進歩、発展、向上という意味である。確かに、月給が約20ドル(約2500円)のキューバより、ずっと稼ぎはある。だが、衣食住にかかる費用も想像以上だった。休みの日もキューバにいるときみたいに、のんびりできなかった。おまけに、健康保険に入っていないので、病気はできない、怪我もできない。そうした緊張感で、まるで仕事やカネの奴隷になった気分だった。それで、3年ほどでそんな暮らしに見切りをつけて、貯めたカネを持ってキューバに帰国した。いまは兄のアーノルドがそのカネの一部で57年型のシボレーを買い、タクシー運転手をやって、弟の家族をふくめ、一家を支えている。贅沢はできないが、ほどほどの稼ぎはある。弟には孫もできて、いまは幸せだ。  

ハバナ湾の対岸の街グアナバコアに住むオダリスは、30代半ばの白人女性だ。母親の家に、夫と生まれたばかりの息子と同居している。数年前に、彼女はマイアミでひと稼ぎしようとキューバを離れた。もちろん、名目は親族への訪問である。マイアミではホテルのメイドをした。しかし、毎日、同じ肉体労働の繰り返しで、うんざりした。カネも思ったほど儲からなかった。それで3カ月の滞在期限が切れると、キューバに戻ってきた。アメリカに不法滞在するのは意味がないと思ったからだ。稼いだカネを元手に、ときどきメキシコやベネズエラに行って、安い女性服を仕入れてきて、それを転売している。もはやアメリカに出稼ぎに行く気はない(1)。  

大使館の向かい側で写真を撮っていると、ある家族がゲートの回転ドアから勢いよく出てきた。中年の両親と中学生ぐらいの息子が2人、白人の家族である。道路を渡ってきた彼らに、フェリシダデス(おめでとう)と声をかけると、両親は破顔一笑した。マイアミですか?と訊くと、デンバーだと言って、また笑う。  

冬は雪に覆われるロッキー山脈にある都市だ。標高は1600メートルもある。何でまたそんな寒いところへ? と失礼な質問をすると、夫の弟がいるので、そこへ家族で移住するのです、と嬉しそうに母親が答える。私が息子のひとりに、英語はできるの?と訊くと、全然できません、と笑う。これから勉強します。でも、スキーができるね、と二人の息子に言うと、彼らは微妙な顔をした。  

デンバーは人口63万人の大都市だからそんなことはあり得ないだろうが、将来、またこんな風に彼らに出会うことができたら、ぜひ話を聞いてみたいものだ、と思った。

註 1 ここでは、米国に「出稼ぎ」に行きキューバに戻ってきた人たちの話を収録しているので、アメリカ生活にあまりポジティヴな感想はあまりない。キューバから米国に「移民」した人の話は、牛田千鶴氏の論文(『アメリカのヒスパニック=ラティーノ社会を知るための55章』(明石書店)所収)や、四方田犬彦氏の『ニューヨークより不思議』(河出文庫)の第二部などに詳しい。  

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