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~私と音楽~ 志位和夫(日本共産党委員長)HP プロフィール  

2011-09-22 | ピアノ
 志位和夫 HP  私のあゆみ  より。 (「私と音楽」を最初に、順番変更しました) 


私と音楽

 音楽は、私にとって、人生の一部といってもいいほどのかけがえのない世界です。高校のころは、作曲家に本気でなりたいと勉強していた時期もありました。
ピアノ、バイオリン、作曲について、習いました。作曲の勉強は、和声法と、対位法、そして簡単なソナタ形式の習作を作ることでした。幼稚なものですが、当時の作品も残っています。

しかし、この世界は、どんなに望んでも才能の壁というものがあることを知らされました。作曲家の道は断念しましたが、音楽は生涯の友人です。
もっぱら聴くことが中心ですが、どの時代のものも好きです。バッハから、ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェン、シューベルト、シューマン、ショパン、リスト、ブラームス、チャイコフスキー、マーラー、ラフマニノフ、プロコフィエフ、そしてショスタコービチ。どれも大好きです。

ピアノは、少しずつでも、毎日練習することを目標にしていますが、いっこうに上達しません。それでも大好きです。人さまの前で演奏したのは、高校時代に。シューマンの『ノベレッテン』(第一番)という私の技術ではとほうもない難曲に無謀にも挑んだときと、結婚式のさいに妻とシューベルトのヘ短調の『幻想曲』を連弾した二回だけです。
この『幻想曲』は、ピアノの連弾曲としては、奇跡的な傑作ですが、演奏が、とくに私の受け持ったバス・パートが傑作にふさわしいものだったかは、まったく疑わしいものでした。

音楽は、言語の世界とはまったく違った、独特の力で、人の心に直接訴えてきます。この素晴らしい世界と出会えたのは、私の生涯にとって大きな幸せです。


 
落花生の畑が原風景

 私は、1954年7月29日、千葉県四街道市(当時は町)に生まれました。「和夫の『和』は、平和な世界をという願いを込めた」と、聞かされました。私の家は、町の中心部から離れた落花生の畑が広がるなかにありました。四街道は、とりたてて名所・旧跡があるわけでもない、平凡な田舎の町でしたが、私にとってはいまでも故郷であり、畑や野原のなかを走り回って遊んだ懐かしい思い出があります。父(明義)も、母(茂野)も、日本共産党員で、二人とも小学校の教員でした。父は、船橋市の教職員組合の書記長をつとめ、日本共産党の船橋市市議会議員もつとめました。

父の肩車にのって安保闘争

 私の初めての「政治体験」の記憶をたどると、幼稚園児だった時、1959年から60年にかけての日米安保条約改定反対の大きなたたかいがおこるなか、千葉市でおこなわれた安保反対のデモ行進に「参加」したことでしょうか。「参加」したといっても小さな私が大勢のなかを歩くのは危ないと考えたのか、父の肩車の上でした。当時の安保闘争の緊迫した熱気ある情景がはっきり思い起こされます。おそらく、5歳から6歳のころのことだと思います。



入党--輝いていた日本共産党の姿

 日本共産党に入党したのは、1973年、大学1年生のときです。当時、自民党の田中内閣が、小選挙区制をもちだすという動きがもちあがり、大きな反対運動がおこりました。私の大学でもストライキを決めて、駒場から国会へ700名ほどのデモ行進もしました。このたたかいなかで、民主主義をまもるために輝いていたのが日本共産党でした。たたかいに参加するなかで、仲間もでき、よびかけられて入党しました。学生時代は、党の活動と学生運動に熱中しました。科学的社会主義の古典も夢中で読みました。大学の学業の方はというと、講義の出席は悪く、立派な学生とはいえません。物理工学科でしたので、卒業には実験と卒論が必要で、これだけは何とか仕上げました。超伝導といって、極低温で、電気抵抗がゼロになるという物性の研究でした。この時期は、私にとって、人生の進路を決めた、ほんとうに大事な時期となりました。


日本共産党の専従の道に

 党員になったとはいえ、進路については、いろいろと悩みました。大好きな音楽の道を本気で考えていたこともありましたし、物理の道をやりたいと考えたこともありました。でも、選んだのは、日本共産党の専従活動家の道でした。大学を卒業後、1980年に、日本共産党東京都委員会の青年・学生分野で仕事をはじめました。1982年からは党本部の勤務となりましたが、おもに青年・学生分野での仕事と、政策委員会や、社会科学研究所などの仕事でした。かけだしの専従時代には、多くの先輩からたくさんのものを、教えていただきました。新しい経験の連続でした。


1990年の党大会で

 私の生活が一変してしまったのが、1990年の7月に開かれた日本共産党第19回大会でした。大会で中央委員に選ばれた後に開かれた第1回中央委員会で、突然、書記局長に選ばれたのです。私には、まったくの突然の話でした。「ほんとうですか」とよく聞かれますが、ほんとうに突然の話でした。「えらいものが回ってきた」という驚きもあり、不安もありましたが、重責を担うことになりました。35歳のときでした。
この時は、まだ国会に議席もなく、衆議院に議席をえたのは、1993年の総選挙の時でした(旧千葉1区)。知名度の低い私にとって、たいへんな苦戦でしたが、地元のみなさんの必死の支援と、不破委員長(当時)にも何度も応援にきていただくなど、たくさんの応援をいただき、国会におしあげていただきました。38歳のときです。


逆風と上潮と、新たな試練

 書記局長に就任した当初は、旧ソ連・東欧の崩壊がすすんでいるさなかであり、「共産主義崩壊論」が、内外で荒れ狂っているたいへんな逆風の時代でした。
しかし自主・独立の党への強い自信と誇りがあって、将来を悲観するような、悲壮な気持ちは少しもありませんでした。この時の党全体のがんばりが、90年代の後半からの躍進につながりました。その後、相手の側からの巻き返しもあり、新たな躍進をつくれるかどうかという、とても重い責任を担って、2000年に開かれた第22回党大会で、私は、幹部会委員長に選ばれました。

「21世紀の早い時期に民主的政権」をつくることが、私たちの目標です。書記局長になってからの12年間をふりかえってみても、いまこそどんな風が吹いても、揺るがず、国民から頼りがいのある、強大な党をつくりたいーこれが、私の願いであり、決意です。




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