腰が悪くてザックを背負えないのと、ほかのスポーツの指導で時間がとれないため、最近は行っていないが、山歩きが大好きである。七、八年ぐらい前までは、よく時間をつくって山へ行っていた。最近は、山に近づけることはめったにない。
その頃はどんどん新しい山を開拓していたので、車から山を見ては、ああ、あそこは気持ち良さそうな尾根だなあ、とか、あのへんはブナやナラの広葉樹の林になっているなあ、とか、思いながら運転していたものである。
山好きにとっては、何の変哲もない山々が、興味をそそるものであり、観光地も何もない、ただの田舎の町や村でも、山さえあれば楽しめる場所となる。その意味では、そのころから、山好きというのは得だなあと考えていた。要するに山があり、木が生えてさえいれば、どのような辺境でも、楽しみを見つけることが出来るからである。
逆に、山好きが都会に出ると、悲しい。あるのはビルばかり、いる動物は人ばかり、うわあ、やだやだ、となるのである。山男は都会には住めないのである。おっと、これは歌の文句であった。
同じような意味で、地形図というものも、山好きには、本や雑誌などと同じように楽しめる情報媒体である。ちょっと将棋や囲碁の棋譜にも似ている。山の趣味のない人には、ただのぐるぐる渦巻きの線で表された地図に過ぎない。が、山好きには心躍る冒険への門なのであり、ぐるぐる渦巻きが登山ルートを計画させる想像をかきたてるものなのだ。
「この谷は地形図でみるとそうとう急斜面であるから、ふむふむ、いったんあっちの尾根に出て、尾根出会いから下った方が楽そうだ…」などと呟きながら、行動計画を練るのである。実際にそのとおりに行くと、尾根沿いに素晴らしいお花畑を見つけたりして、「わあ、ラッキー!」となるのである。
まさに趣味がある、ない、ということは面白い。同じもの、同じ景色を見ても、価値や意味が違うのである。世の中には人の数ほど趣味の組合せがあるので、いろいろな世界があるというわけだ。
例えば、私には想像できない趣味の組み合わせの人は、ナンバーズにこっていて、鹿を撃つのが好きな、アニメおたくの南米人という感じであろうか。はたまた、化粧品のサイドビジネスをしていて、高級ブランドのブティック巡りが大好きな、パンクロックをいつも聴いている二〇代のアイルランドの女性とか。・・・。
あぶない、話が全く山や地形図から離れていく。このへんで終わり。
その頃はどんどん新しい山を開拓していたので、車から山を見ては、ああ、あそこは気持ち良さそうな尾根だなあ、とか、あのへんはブナやナラの広葉樹の林になっているなあ、とか、思いながら運転していたものである。
山好きにとっては、何の変哲もない山々が、興味をそそるものであり、観光地も何もない、ただの田舎の町や村でも、山さえあれば楽しめる場所となる。その意味では、そのころから、山好きというのは得だなあと考えていた。要するに山があり、木が生えてさえいれば、どのような辺境でも、楽しみを見つけることが出来るからである。
逆に、山好きが都会に出ると、悲しい。あるのはビルばかり、いる動物は人ばかり、うわあ、やだやだ、となるのである。山男は都会には住めないのである。おっと、これは歌の文句であった。
同じような意味で、地形図というものも、山好きには、本や雑誌などと同じように楽しめる情報媒体である。ちょっと将棋や囲碁の棋譜にも似ている。山の趣味のない人には、ただのぐるぐる渦巻きの線で表された地図に過ぎない。が、山好きには心躍る冒険への門なのであり、ぐるぐる渦巻きが登山ルートを計画させる想像をかきたてるものなのだ。
「この谷は地形図でみるとそうとう急斜面であるから、ふむふむ、いったんあっちの尾根に出て、尾根出会いから下った方が楽そうだ…」などと呟きながら、行動計画を練るのである。実際にそのとおりに行くと、尾根沿いに素晴らしいお花畑を見つけたりして、「わあ、ラッキー!」となるのである。
まさに趣味がある、ない、ということは面白い。同じもの、同じ景色を見ても、価値や意味が違うのである。世の中には人の数ほど趣味の組合せがあるので、いろいろな世界があるというわけだ。
例えば、私には想像できない趣味の組み合わせの人は、ナンバーズにこっていて、鹿を撃つのが好きな、アニメおたくの南米人という感じであろうか。はたまた、化粧品のサイドビジネスをしていて、高級ブランドのブティック巡りが大好きな、パンクロックをいつも聴いている二〇代のアイルランドの女性とか。・・・。
あぶない、話が全く山や地形図から離れていく。このへんで終わり。