自宅と道志の日々

タイトルを「自宅と道志の日々」にしました。日記のようにつぶやいています

ダンスを始めようとしたきっかけと この50年

2021年10月16日 | なかま道志

今日は以前撮った廃墟の写真をアップします。

さて、ダンスを始めようとするきっかけは、60歳で退職したら船旅でもして船内でダンスが踊れればと考えたからです。

ある方に、ダンスが踊れるようになるには、10年はかかりますよ!と言われました。

それじゃ~と、50歳から始めました。

市のサークルに参加したのですが、楽しいダンスではなく競技ダンスの会でした。

画像は以前使用されていた広域のし尿処理場を撮らさせていただいたものです。

30年くらい前からほとんど水洗化が進み、その時(撮った時)でも工事現場のトイレや貸家の汲取り便所くらいで、この施設も処理量が少なくなって解体することになっていました。

まさに廃墟と言うべき広大な施設だったのでしょう。

若い方々は、汲取り便所を使ったことはないかと思います。

今から50年くらい前から、道路のあちこちが掘り返され下水道の普及と水洗化工事が始まりました。

大阪万博のころは、まだ水洗になっている家は珍しかったかと思います。

ちょうど、私が働き始めた頃です。

50年は昔のようですが、私には鮮明に覚えています。

ある会社に勤め、年功序列?女性や新人のお茶くみは当たりまえ。

11時半ごろから、近くの食堂へ食堂へぞろぞろと・・・。

昼休みは、たっぷりと1時間は取る。

電車やバスのスト決行で、一日中動かない日もありました。

まだ、学生運動の余韻?が残っていて、威勢の良い組合執行部も団体交渉と総して、激しく理事者側とやりあった時代です。

理事者のフロアー通路は座り込みで、壁には頭の位置で黒ずんでいた時代でした。

あくまでも私の場合ですが・・・。

当時は新人が早出して、冬は石炭のダルマストーブに火を入れて室内を暖めておきます。

そのうち直ぐに石油ストーブに代わりました。

先輩方の机拭きは当然で、灰皿もきれいにしておきます。

出勤した方から湯呑を覚えていてのお茶出しです。

とりあえずは、米国暮らしを経験している者(私)にとっては、これが日本の会社なんだと思ったくらいです。

日本の働く環境がだいぶ遅れているなと、強く感じていました。

執務室でタバコを吸うのは当たりまえで、私も吸っていましたが、好奇心から18歳(学生になって)から25歳くらいまで喫煙者でした。

タバコを吹かして美味しいと思ったことは一度もありませんでしたが、習慣で止められなかったのです。

このころ結婚して、中古の自家用車(サニー)を持つようになりました。

子どものできて、タバコも止めました。

あれから50年以上吸っていません。

まだ、ジョギングが流行っていないころ、自宅から会社まで弁当などを背負って小走りで出勤していました。

変わった新人だったのでしょう。

当時、部長と言われる方とは2度しか会話をしたことがありません。

いずれも、決済印をいただく時です。

すごく緊張したことを覚えています。

いつしか、その幹部になりましたが部下とも積極的に話しかけていましたね。

ほとんど毎晩、一杯を誘われました。

いわゆるノミ(飲み)ニュケーションです。

しかし、後輩にはおごってくれました。

ほとんどが給料日払いのきく店です。

給料日には職場に、飲み屋のお姉ちゃんが大勢集金に来ていましたね。

背広も一着が給料2カ月分くらいしていた時代です。

徐々にそんな時代の職場生活も変化しました。

給湯器も付いて、女性がお茶くみすることもなくなりました。

封建的な時代であっても、何故か懐かしい時代です。

パワハラは日常的で、叱咤激励と称して飲み会の席では強く怒られましたね。

バブルになり比較的派手な生活になって行きました。

また、次にバブルの崩壊により、生活様式も変化してきました。

大量生産と大量消費が経済を支えていた時代が終息しつつありました。

田舎の田植えも、手植えからコンバイン?(機械式)になり、2~3日で終えることができるようになりました。

女房の実家も少しの田んぼがありましたので、田植えや稲刈りは手伝いにも行きました。

生活様式が急激に代わったわけではありません。

徐々に変化していったのでしょう。

今やコロナ禍により、この2年間で再び生活様式が大きく変化しました。

この自粛生活に慣れてきたのでしょう。

慎ましやかに、暮らすことも必要だと感じています。

フル稼働していたし尿処理場も廃止され、整備されて住宅(マンション群)が立ち並んでいると聞きました。

やはり、50年(半世紀)は長いようで、短かったんですね。

私たちも来年50年を迎えます。

前述しましたように、記念に国内の船旅でもと考えていますが、コロナ禍によりダンスホールは使われていないとのことでした。

コロナが落ち着けば、ダンスを始めたきっかけ(目的)で、退職して船旅でダンスが踊れればと思ったからです。

乗船したいのは、「日本丸」です。

初めてダンス教室で習った、直〇先生(女性)がスタッフになっているからです。

実際に50年過ぎて、当初の目的である船内でのダンスを遅まきながら実現できる日を待ち望んでいます。

明日は、女房と道志に入る予定です。

男にはできない片付けなどを手伝ってもらいます。

 

Hiro


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