昭和48年(1973年)3月16日、私たちは縁あって東京の杉並会館で結婚式を挙げることができました。早や結婚50周年(金婚)を迎えることができました。
私たちは大神の御前で、お互いに助け合い深い理解と愛情と誠実さをもって幸せな家庭を築くことを誓いました。
あれ?とお感じになる方もいらっしゃるかと思います。新郎新婦が二組です。
私が結婚を決めた時に、妹が私たちもとなって合同での結婚式を挙げさせていただきました。よくご両家と言いますが、御三家がご参集していただた結婚式です。
ご挨拶いただいた時も、ある方も混乱してか〇〇家の嫁となり・・・と義弟の方の姓を読み間違てえいるくらいです。
お互いの幼きころです。
それぞれが、こうして結婚できたのも幼きころから両親などより愛情をたっぷりと受けてきた証なのでしょう。遅まきながら感謝しております。
今では私の母だけになりましたが、百歳を越え施設で穏やかに暮らしています。
二組ですので、妹たちは会館から大型の外車に乗り羽田空港に向かいました。
一方、私たちは女房の親父さんの車(カローラ)を借りて、東名高速道を利用して、四国半周(帰りは高知からサンフラワー号)の新婚旅行でした。
何年か前に、新婚旅行で四国で宿泊した宿に再び伺いました。結婚当初はまだしまなみ海道も無い時代で、フェリーで四国に入ったのですが、今回は飛行機で四国に入り、レンタカーで四国内やしまなみ橋もわたりました。このように思い出旅行をしたこともあります。
二人の息子に恵まれ、何かと相談したり頼れる年齢になっていました。
これも周りのみなさんに助けられたことで、たくさんの思い出も作ることもできました。
子育てや、昭和・平成・令和と時代の変化があり、また新型コロナウイルスが発生したり、私は72歳まで仕事中心の生活がありましたが、いろいろとあって人生なのでしょう。
息子たちともよく遊びました。また、よく怒りました。子どもがダメなことをすればダメと強くしかる時もありました。
しかし、成長し自尊心が付くころ3~4歳になると言葉で言い聞かせていました。
やさしい女房でしたので、子どもたちは女房のそばに行ってしまいます。家に帰って来て、先ず”お母さんは?”です。お父さんは無用な存在になっていたのでしょう。
たまたま趣味を同じくして(同じくさせられて!)、ダンスを愛好していました。
このコロナ禍で試合はほとんど中止になり、ダンスに対する考え方も異なってきました。まぁ~それぞれのダンスを楽しむことができれば良いかと思います。
私は数年前に50年間(72歳まで)、仕事オンリーでやってきましたので急に無職になると淋しいものがあります。
先日も、私が本線をバイクで走っていたら路地から出てきた作業用ワゴン車と事故を起こし(私は被害者)、ほとんどが治りましたが首回りに違和感があり、昨日も接骨医院で治療してきたところです。
それだけ年齢と共に老化が表れているのかも知れません。
我が家のソメイヨシノも昨日から咲き始めました。やはり春を感じます。
息子たちから、50年前の3月16日の「思い出新聞と花のバスケット」が送られてきました。
その気持ちに感謝です。息子たちは私より女房への祝いの気持ちが強いかと思います。男ってこんなもんです。
夕食も特に祝い膳ではなく、普段のままです。
強いて言えば、普段より高そうなお肉でした。これで十分なのです。
この間、いろいろな方のお世話になり、思い出がだくさん出来た50年になりました。
息子たちからも、「仲良く、健康で」とメッセージがありました。
ここまで50年間過ごす秘訣は、やはり健康が一番かと思います。まだまだ通過点かと思いますし、このまま惰性で?暮らして行くのでしょう。
本当に、これまでに両親を含め周りの方々の助けなどあって、ここまで来たと感謝いたしております。
ありがとうございます!今後ともよろしくお願いいたします!
Hiro