木めぐり像めぐり

気に入った木、気になる像などを紹介していこうと思います。

黒姫山、表登山道にあるしなの木

2015-10-10 16:47:59 | 

 「山と高原地図」の黒姫山表登山道上に「シナノ木」と記入されている場所があり、どのような木があるか楽しみにしていました。上の写真が、その木です。まあまあのきですが、驚くほどの木ではありませんでした。写真の左下にある立て札に「樹皮のじん皮せんいが強く布をおり船舶用ロープ、手綱、腰みのなどの一部に用いる、特に榀布(しなぬの)は有名である。花は蜜療植物として優れている。この古木は数百年前から黒姫山登山の道しるべとして茂している。登山者は大方小休止していく」となっていました。蜜療植物、榀布(しなぬの)などの言葉をはじめてしりました。
 ところで、シナノキは信濃によくある木からつけられた名前のようです。栃木県は、その逆かも。トチノキがいっぱいあったから、栃木県とつけられたのかも。
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黒姫の一茶像

2015-10-09 09:41:08 | 

 黒姫山に登るために、黒姫駅を下車、時間があったので、黒姫駅周辺を散策したところ、
一茶の生誕地であることを知りました。
 左の写真は、一茶旧宅跡の近くにあったもの、右は墓所の敷地にあったものです。
 小林一茶旧宅跡にあった説明は
「俳人小林一茶は、1763(宝暦13)年柏原にうまれ、15歳で江戸に出て葛飾派の俳人となりました。30歳から6年余にわたり、俳諧修行のために関西。四国、九州を廻りました。その後、再び江戸にもどり、夏目成美に師事し、房総地方などを巡回する漂泊の生活を続けました。
 50歳で帰郷した一茶は、父の遺言により家屋敷や田畑を弟とわけました。屋敷の北半分を一茶、南側を弟弥兵衛のものとなり、間口9間の家を仕切って暮らしました。他に、一茶は間口3間半、奥行2間2尺の土蔵を譲りうけました。52歳でようやく結婚し、4人の子どもをもうけましたが、次々となくなり妻にも先立たれました。その上、宿場の大火で類焼し、1827(文政10)年11月19日、焼け残った土蔵で65歳の生涯を閉じました。一茶没後、後妻との間に女子が生まれ、一茶家を今に伝えています。……」
 何かさびしい終わり方ですね。
 西行、芭蕉、一茶、山頭火、牧水と漂泊しながら詩をつくる伝統があるみたいですね。しかし、現代は通信・交通機関が発達していて、漂泊するなんてことはできない状況ですね。
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