長唄三味線/杵屋徳桜の「お稽古のツボ」

三味線の音色にのせて、
主に東経140度北緯36度付近での
来たりし空、去り行く風…etc.を紡ぎます。

忘れじの桜③六世中村歌右衛門

2010年03月29日 00時35分36秒 | 歌舞伎三昧
 今の福助が襲名した時だから、もう十八年も昔になろうか。平成の福助が誕生するとて、歌舞伎座で一度きりの記念上映会があった。
 手元に記録がなく、記憶で述懐するので断定できず申し訳ないのだが、昭和28年だったか昭和32年だったかに制作された、六世歌右衛門の『京鹿子娘道成寺』である。舞台の記録映画というだけでなく、一部をスタジオ撮影していて、全篇物語映画風なつくりになっていた。
 その頃の大成駒は、神谷町との『二人道成寺』などで、一人で道成寺全曲通して勤めることはもうなくなっていた。『伊勢音頭』の万野役など、遣り手婆のようないやらしさをこれでもか、と、ねっとり愉しそうに演じていた。
 芝居はライヴ感がすべてである、と思っていた私は、舞台映画を観るのは気が進まなかったのだが、この映画が上映されることは滅多にない、大変珍しい機会なのである、という福助の番頭さんの言葉に促されて、観に行った。
 ありがたい。親の意見と番頭さんの言葉に、百に一つも無駄はなかったのである。
 おなじみの道成寺の釣鐘をぼんやりと眺めているうちに、私はもうその世界に引きずり込まれていた。ただただ美しかった。成駒屋だけではなく、成駒屋を取り巻くすべてが美しかった。山門の朱、草木の緑、舞い散る桜の花びら。一心にくるくる舞い踊る白拍子花子。
 舞台のなかの野山の春。柳はみどり、花はくれない。戦争に負けて焦土と化した国破れて山河ありの、あの時代に、あの失意のどん底にいた日本に、こんなにも美しいものがあったのかと、大道具の書割の青い空を観ているうちに、私は心が空っぽになって、ただただしみじみと感動して、ただただ涙を流していた。
 映画を観て虚心坦懐、悲しいとも可哀そうとも嬉しいとも思わず、滂沱の涙を流したのは、後にも先にも、これと、あと、中学生の時に観た、フランコ・ゼフィレッリの『ブラザーサン・シスタームーン』だけである。

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忘れじの桜②松林桂月

2010年03月28日 21時38分43秒 | 美しきもの
 歌舞伎座には多くの名画があって、その中でも特に私が好きだったのは、二階の西側の回廊に飾られている、松林桂月の桜の絵だった。
 墨一色と胡粉で描かれた満開の桜、その枝の向こうからさやけく顔をのぞかせる、朧月がほんのり輝いている。
 墨の濃淡で、春の朧夜のにおい立つような、何とも言えない、甘く切ない春の宵のかぐわしさが描き出されていて、心底酔った。墨だけでこのような風情が表し得るものなのかと、びっくりし、感服した。
 歌舞伎座のコレクションはたくさんあるから、時々掛け替えられる。ここ数年は見かけたことがなく、お別れの前にもう一度あいたいものだなあ…と残念に思っていた。
 写真は平成の7年前後だったろうか、本興行とは別の、長唄関係者の追悼記念公演があったときで、長唄協会から贈ったスタンド花の傍らで、同日撮った写真が出てきたので、たぶん、そのころだと思う。
 何かの展覧会で、北の丸の近代美術館でこの絵にあった時にはちょっとびっくりした。
 もう記憶が定かでなくて申し訳ないのだが、歌舞伎座から貸し出したものだったのか、桂月作品の模写がもう何枚かあったのか、そのときは腑に落ちた解説を読んだような気がするが、もう思い出せない。
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忘れじの桜①奈良高畑町

2010年03月28日 17時27分01秒 | ネコに又旅・歴史紀行
 ある年…たぶん平成5年ごろ、一門の旅行会で、京都御所から吉野山へ桜をめぐる旅に出かけた。
 時は春。予測の難しい満開の時期に日程はドンピシャリとはまって、吉野の桜に埋もれて、身も心も全身、さくら色に染まった旅だった。私は仕事の都合があって、3日目の朝に皆と別れ東京へ帰ることになった。
 吉野から車4台ほどに分乗していた一行にいとまして、私は街道の、奈良にほど近い駅のそばで降ろしてもらった。新幹線の時間まで午前中目いっぱい、春の名残に奈良を散策しようと思ったのだ。行きたかった松柏美術館は月曜日であいにくと休みだった。
 志賀直哉の旧宅のある高畑町や、まだ今のように観光地として整備されていなかった奈良町の辺りを彷徨った。そのころ観た戦中の映画の、ロケーションの場所を探してもいた。学校に至る坂道が階段になっている寺町を、教師役だった佐野周二が歩いていた。
 新薬師寺の裏のほうの住宅地を通りかかったところだった。細い路地の、民家の一区割だけが空き地になっていて、破れた築地塀の向こうに、一本だけ桜が咲いていた。
 以前は家が建っていたであろうに、その邸の跡形もなく苔むした庭に、枝垂れ桜の老木だけがあって、見事な白い花枝を垂らしていた。太い幹からして、もうずいぶん長いこと立っているのだろう、小さい庭は桜自身の樹影で、うっそうとしていた。
 辺りはしんと静かで、小鳥のさえずりだけが聞こえた。
 もう何百年もそこに棲んでいるかのように、ひっそりとたたずむ桜樹に、私はしばし時間を忘れて見入っていた。
 それから、もう一度あの桜の木に逢いたい、と思うのだが、奈良に行っても訪れる機会のないまま、もうずいぶん時が経ってしまった。
 あの樹はまだ、あの場所にあるのだろうか。
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勧進帳

2010年03月25日 01時38分38秒 | お稽古
 太陽暦の暦だと、どうも長唄の歌詞の説明をしづらいので、太陰太陽暦の暦を取り寄せて使っている。
 明治5年に日本の暦は太陽暦に変わってしまったから、どう考えたって、和歌や俳諧、古典文学の季節感がしっくりくる日本人というのは、だいぶ前にいなくなってしまっているわけで、実際に旧暦の暦が手近にあると、想いを致し易くたいへん有難い。
 聞くところによると、農業に携わる方々は、今でも旧暦を基準にして作付けをしているらしい。そのほうが、気候に合って、思いがけない遅霜などの冷害にあわずにすむということだ。さすが、太陰太陽暦は農耕民族の知恵の結集なのだ。太陽暦は、遊牧民族のものだもの。
 旧暦の暦は、閏月があったりして、何かと面白い。
 何年前だったか、慶応4年と同じ4月が閏月だった年があって、これだけ暑くなれば戦のあとの上野山のむくろはさぞや凄惨な状況だったのでしょうね…とか、いにしえの出来事を改めてなぞると、実に真に迫ってしみじみする。梅雨は梅雨でも末期の大雷夜雨だから、この奇襲戦法が功を奏したんだなとか、やっぱり、ここで降り積む雪を踏み分けて、討ち入ったのは当然でしょうとか、実感できて興味深いのだ。
 で、本日、2010年3月25日は、旧暦だと平成廿二年の二月十日。
 如月の十日である。
 この夜、奥州へ落ちる義経主従が都を出立する。勧進帳の幕明きである。

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同朋町

2010年03月22日 00時20分03秒 | 旧地名フェチ
 ある時、私は自分の芸の源流、師匠のルーツを尋ねて神田の同朋町(どうぼうちょう)を探していた。
 わが杵徳の家元・杵屋徳衛のお祖父ちゃんは、杵屋勝吉という、大正から昭和前期に活躍した三味線方の大師匠である。かつて、俗に「杵勝三千人」といわれるくらい、杵勝派は長唄の流派では最大派閥だが、勝吉はお師匠番のような立場にいたらしい。別派を樹て家元になった。弟子だけでも五百人を数えたそうである(概数ではなく実数とのこと)。飛ぶ鳥を落とす勢いだったアラカン(嵐寛寿郎)の映画にもかかわっていたし、カツシン(勝新太郎)のお父さんである杵屋勝東治さんもお祖父ちゃんの後輩で、いろいろ面倒を見ていたそうだ。
 神田明神下の「同朋町のお師匠さん」として名をはせた勝吉は、戦前、府下北多摩郡は吉祥寺村(要するに現在の武蔵野市吉祥寺)に移り住んだ。千坪からの大邸宅に至る横町には「杵屋小路」と名がついた。…今は昔の物語。
 さて、私がルーツを探していた平成の初年頃には、まだ役所にも時効管理課のようなおっとりした部署があって、電話をかけると、旧町名が地名変更後の新番地のどのあたりになるか、親切に教えてくれる専門の係があった。
 調べてみると、千代田区にも台東区にも文京区にも、いくつか同朋町があるのだった。同朋町は、幕府に仕えていた同朋衆の住まいしていたところの町名だろうから、さもありなん。
 そこで、神田明神に近い、当該箇所と思われるところを、地図を広げて勘案してみた。その場所は明神下というよりも、現代の感覚では、神田明神北というような辺りになるのではないかと類推された。
 平成初年のある日、さっそく私は行ってみた。しかし、往時の面影を偲ぶにはなお余りある幾星霜、何軒かの商店に立ち寄り訊ねてみたのだが、みな戦後移り住んだというお方ばかりだった。路地の少し奥まったところに、ポンプ式の井戸があった。その風景とお対になる猫は、あいにく、どこにも見当たらなかった。
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滝口入道

2010年03月21日 23時41分24秒 | 美しきもの
 高山樗牛の『滝口入道』を初めて知ったのは、昭和の終わりごろ、NHKのラジオ番組の朗読の時間でだった。文語体の小説なのだが、とても分かり易く、かつ、文章があまりにも美しくしみじみとして、日本の言葉、文学とはなんと素晴らしいものだったのだろうと、改めて驚愕し、打ち震えた。朗読していたのは嵐圭史で、その口跡のよさ、朗々たる読みっぷりも、素晴らしいものだった。
 昔のことで、記憶が定かではないが、さっそく本屋に走って岩波文庫に収録されていた『滝口入道』を手に入れた。いや、その時は絶版になっていて、しばらくして復刻されたのを手に入れたのだったかしら…。古本屋か図書館かで手に入れたかして、とにかく、むさぼるように読んだのだった。
 高山樗牛はこの素晴らしい小説を発表し、一時大層な喝采を得たのだが、当時の文壇で「時代考証が出鱈目である」というレッテルをはられ、何となく排斥された形になったらしい。こんなに素敵な本を、今までなぜ知らずにいたのか、不思議だったのだが、そうか…とちょっと悲しい気持ちになった。
 絵空事の面白さってのは、エンタテインメントの基本だ。リアルさも大切だけど、度を超すと鑑賞に堪えるものにならない。
 この小説がきっかけになって、私は海外小説から遠ざかっていった。英語ができて原文が読めるならいいが、翻訳ものの小説の文章表現が、何となく貧弱に思えてきたからだった。そして、ストーリーが面白いという物語の構築性とはまた別の、文章の巧みさという面白さを追い求めるようになっていった。
 何年か経ってから、鎌倉を散歩していてふらりと立ち寄った寺で、偶然、高山樗牛の碑に出会った。鎌倉の長谷寺に、晩年、寄寓していたらしい。横笛が結んだ草庵を想い出して、私はなんだかいじらしい気持ちで胸がいっぱいになってしまった。
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my楽器

2010年03月21日 00時44分36秒 | お稽古
 何か一つ、自分が奏でることのできる楽器を持ちたい…というのは、万人が抱く夢ではないだろうか。
 思えば、私は音楽がとても好きだったが、学校で習う音楽の授業は得意ではなかった。
 幼稚園の時オルガンを習わされていたが、幼い私にはどうしても、あのフガフガ鳴るアヒルの啼き声のような音が好きになれなくて、泣きながら通っていた。オルガンができそうならピアノに進ませようと思っていた母は、私に音楽系のお稽古をさせることを諦めたらしい。…そんなら最初からピアノにしてくれたらよかったのに。
 高校生になってギターを買ってもらった。エレキじゃなくアコースティック。禁じられた遊びとか、アルハンブラの想い出とか、妙なる調べをカッコよく弾いてみたかったのだが、どういうわけか私にはコードが覚えられなかった。
 それから、私のmy楽器探しの旅は続いた。MGM映画が好きだったので、クラリネットでスウィングジャズを演奏しながらタップを踏む寄席芸人になろう、とか、本気で考えていたこともある。
 そのころすでに二十歳前後になっていたが、そのころ妙に、日本古来のメロディ、音楽に心惹かれるようになっていた。
 そこで、クラリネットのお稽古を1年ほどで断念して、長唄のお稽古に通うようになったのだ。三味線は弾けば弾くほど面白くなる。ギターのコードも覚えられなかった私が、これは奇跡の巡り逢いだった。
 西洋音楽の音楽理論はそれはそれで素晴らしいものだが、音楽はそれだけじゃない。
 邦楽は、ドレミという符号とも、12音階の音楽理論とも、全く別の世界で生まれた日本独自の音楽なのだ。
 馬に乗るとき、西洋と日本とでは逆側から乗るように、鋸で木を切るとき、日本は引いて、西洋では押して切るように、日本の提灯が横に竹ひごが通ってて畳めるけど、中国の提灯は竪に竹が通してあって畳めないように、東洋と西洋とではすべての発想の起点が逆なのだ。
 それはどちらが優れているとかの、優劣をつけるべきものじゃなくて、全く違う発想のもとに立脚しているものだから、相手を己がほうの尺度で測って、どうこういうものでもないのだ。
 中学校で三味線の体験授業を行うたびに、音楽の授業が苦手な生徒さんほど、音楽の別の魅力を発見して、音楽を好きになってほしい、と思う。
 西洋がだめでも東洋があるさ。同じDNAを持つ日本文化から誕生した邦楽をやってみてほしい。
 きっと、諦めていたmy楽器が見つかるかもしれない。
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観劇のきもの

2010年03月20日 00時56分25秒 | 歌舞伎三昧
 昭和の終わりから平成の初め、私が二十代のころの歌舞伎座には、いわゆる着巧者のおねえさま方がたくさんいて、とてもとても、くちばしの黄色いヒヨッコが着物姿で観劇を、などという度胸が生じる隙とてなかった。
 ある日のこと。私は俳優祭へ行くために支度を急いでいた。もちろん洋装のオシャレだが、気合が入っていた。玄関先に2種類の靴を出して、出掛けに、最終調整として最もしっくりするデザインのほうを履こうと目論んでいた。
 …しかし、二十代の女子というものは、お出かけの支度にいくら時間があっても足りないものなのだ。結局、出かけ際のスタイルをチェックする間もないまま、私はドタバタと玄関を飛び出した。
 中央線の快速に乗っていた私は、御茶ノ水駅を過ぎて人がまばらになった車内で、向かいのシートのキャリア公務員風ご婦人が、しげしげと自分を眺める視線に気づき、何となく不安な心持になった。そこで、自分の本日の観劇姿に何か齟齬が生じているのではないかと、他人にそうと気取られないよう、密かにチェックしてみた。
 ……!!!!! 自分の足元を見た瞬間、私は気が遠くなった。なんと、左右、違うデザインの靴を履いているではないか。
 心臓が凍りつく、というのは、こういう時に使うべき言葉だろう。このままじゃとても歌舞伎座に行けやしない。…そうだ、新しい靴を買って履き替えてゆこう。
 しかし、靴屋さんにたどり着くまでがあまりに恥ずかしすぎる。私は急遽、降車駅を有楽町に変えて、駅から近くて、品揃えがある程度あって、しかもそんな買い物をしていても恥ずかしくない、フランクなプランタン銀座で靴を購入し、履き替えた。
 結局、ものすごく愉しみにしていた俳優祭に少し遅れてしまった。
 この事件以来、私は洋服で歌舞伎座に行くのをやめて、意地でも着物で観劇することを決意したのだった。
 
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秋の色種

2010年03月19日 22時11分30秒 | お稽古
 夏の終わりから晩秋にかけて鳴く、虫の音を聞きながら眠りに入るのが、たとえようもなく好きだ。熱かった昼の日差しに痛めつけられた身体を、湿気を含んだ夜のとばりが降りた寝床に、虫たちの柔らかくやさしい声に包まれて横たえるのは、なんとまあ、愛おしく、心やすらぐひと時であろうか。
 長唄には、そんな秋の虫の声を模したメロディの、虫の合方がたくさんある。
 自然界の中で起こっている森羅万象を、音楽の中に取り入れる。音楽だけじゃなくて絵画やお菓子のデザイン的なもののモチーフもそうだけれど、日本人はなんてやさしい視点の、そして広い着眼の持ち主なんだろうと思う。
 三味線には「さわり」があって、一の糸にわざと雑音が入るような仕組みにこしらえてある。あまりにクリアで単純な音だと、面白くないのだ。
 西洋音楽では無限にある音を合理的に12音階に区切って、音の重なりを楽しむような作曲に進んでいったが、日本の音楽は、発想がまるで違う。唄と三味線のメロディラインが全然別で、でも不即不離の関係で成り立っていて、そのズレが絶妙にマッチしているところが面白いのだ。
 だから三味線にはフレットがない。どんな音でも出せて、その揺らぎと移ろいがたとえようもなく、美しく素敵に情緒的な世界をつくりだす。正確にドレミを弾けば弾くほど、邦楽としての含蓄や面白みは失われていく。
 昔、聞いた話だが、日本人は虫の声を、芸術を司る機能がある右脳で聴いているのだそうだ。それに反して外国人は、虫の声を左脳で聴く。左脳は言語や事務的な能力を司る。それで、外国人には虫の声は雑音にしか聞こえないそうなのだ。
 なんて、モッタイナイ。
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尾張町

2010年03月19日 12時23分04秒 | 旧地名フェチ
 お天気のよい秋の昼下がり、私は日本橋の高島屋の前でバスを待っていた。
 そのころはまだ合理化の大ナタが振り落ろされる前で、都バスの路線がたくさんあった。
 何か考え事があるたびに歩いていた私は、限界まで歩くと都バスにすがっていた。
 長く柔らかい日差しを浴びて佇むところへ、品のいい老婦人に声をかけられた。
 「このバスは尾張町へ行きます?」ミス・マープルにちょっと似てらして、首をかしげて可愛らしく尋ねられて、私はドッキリした。…尾張町ってどこだっけ???
 木挽町なら目をつむってでもご案内できるけど、尾張町って????
 『タモリ倶楽部』で古地図散策をしてくれるずっと前、長尺のインド映画を同番組が紹介していたような時代だった。
 目を白黒させて、返事を言い淀んでいる私に、同じくバスを待っていた老紳士が、助け船を出してくれた。
 「尾張町、通りますよ。和光と三越の銀座四丁目の交差点の辺りだよ。若い人は知らないよねぇ」ありがたや、すべてを取り計らってくれる執事のギャリソン時田に見えた。
 
 
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歌舞伎座

2010年03月17日 02時33分58秒 | 歌舞伎三昧
 昭和の終わりごろから平成の12年ごろまで、私はなにかというと歌舞伎座の周りをうろうろしていた。歌舞伎も好きだったが歌舞伎座も好きだった。
 世の中は、バブル全盛から弾けて、でもまだ、昨日よりよりよい明日が来るという、日本経済の不死鳥性を信じていた。日本の伝統芸能にうつつを抜かしている人なんて、よっぽどの物好きと思われていた狭間のような時期だった。
 同じ芝居を月に7回ぐらい観ていた時もあったから、客席スペースは無論のこと、仕事の関係で地下の吉田千秋さんの仕事部屋に伺ったり、お世話になった長唄の先生や、後援会に入っていた役者の楽屋にお邪魔したり、その頃『歌舞伎座百年史』を編纂していた4階の幕見席の奥の小部屋を訪ねたり、とにかく、やたらとうろうろしていたのだ。
 ある時、昭和通りを東武ホテルのほうから、歌舞伎座に向かって歩いていた。歩道から、あの歌舞伎座の唐破風が少しずつ見えてきて、もうそれだけで私は、その姿の美しさにうっとりして、何となく笑みを浮かべた。
 その時、斜め前から今は亡き松助さんが歩いてらして、ハッと気がついたときには、私のデレデレとほうけた顔を見られてしまって、顔から火が出るほど恥ずかしかった。
 私は歌舞伎座に惚れていたんである。籠釣瓶の見初めさながらに。
 今の歌舞伎座のもともとの設計は、帝大の教授だった岡田信一郎の手になるものである。昔読んだ本に、まり奴という芸者を落籍して奥さんにしたという、明治の偉人らしいエピソードが載っていて、何となくシンパシィを感じるお人柄だ。
 今は建て替わってしまったが、琵琶湖ホテルという、桃山式唐破風のそれはそれはすてきなホテルが琵琶湖畔、膳所城址の近くにあった。
 これも岡田信一郎の設計で、平成の初年頃、一度だけ滞在したことがあったが、その時、歌舞伎座との瓜二つぶりに驚嘆して、後日調べてみてそれとわかったのである。
 一階のティールームから春の海のように穏やかな湖面が見えて、これは、行ったことはないけれど、黒海のほとりの保養地のソチとかこんな雰囲気なんじゃないかしら、と思えるぐらい、1910年代の革命前夜のロシア貴族社会のイメージだった。
 その後、タイトルを失念してしまったが、2002年ごろCSで放送された1960年代の東宝の、加山雄三と司葉子が主演の映画に琵琶湖ホテルが出てきた。
 1990年に観た景色を、1960年代に撮影された映画の中で懐かしむという、なんだか不思議な体験をした。
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柴田是真

2010年03月17日 00時12分01秒 | 美しきもの
 初めて柴田是眞という絵師の存在を知ったのは、13年ほど前のこと。山種美術館所蔵の『墨林筆哥』に出会ったとき、その筆致のあまりにも流麗かつ情愛にあふれていること、画題の洒脱さ・軽妙さに心が打ち震えた。
 それから是眞を追い求めてアンテナを張り巡らせていたのだが、浮世絵のように量産されたものとは違い、現存する作品が少なかったのだろうか、この十年余りの間、天井絵や調度品などを集めた企画展が、藝大美術館で一度、開催されたぐらいだった。
 収録作品の少なさに物足りなさを覚えたが、大部の画集も躊躇せず手に入れた。とにかく彼の残影は、それほど見当たらなかったのである。
 ところが昨年の11月、偶然にも日本橋の三越の前を通りかかったとき、お隣の三井記念美術館開催の柴田是真展覧会のポスターを発見! がび~~~んと心の臓にショックが走るとともに、私は雀躍した。雑事に追われ、やっと憬れの是眞の本格的な作品群にめぐり会えたのは、会期終了の前日だった。
 なんと、コレクションのほとんどは、テキサス在住のアメリカ人夫妻が所蔵するものだった。幕末から明治にかけて日本文化の粋を凝らした文物の数々は、そのほとんどが海外に流出しているが、是眞も例外ではなかったのだ。
 柴田是眞の技術、発想、おのが仕事に対する凝り性ぶり…目の前に広がる作品の一つ一つが、是眞が創造した宇宙だった。あまりの素晴らしさに私は無言で、ただ眼をしばたたかせるだけだった。
 近くにいた若い観覧者のアベックが、何度も「すごいね、すごいね」とずっと言い続けて、ちょっとうるさかったのだが、私はなんだか自分が是眞の身内になったような誇らしげな気分で、嬉しくもあった。
 そこでふと、このような素晴らしいものを生み出した百数十年前の日本人の作品を、海外から借り、そしてただ「すごいね、すごいね」と言って観ているしかない現代のわれわれ日本人って、いったいなんだろう…と思ったのだった。
 
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八千代獅子

2010年03月15日 01時51分49秒 | お稽古
 箏と三味線と、両方演奏なさる方も多いが、楽器に対する志向性は、はっきり分かれるような気がする。私は箏の音色も好きだが、13本も絃がある楽器なんて、とてもとても使いこなせそうにない。…3本の糸でどんな音でも出せる、単純ながら無限の掛け算の魅力がある。それが三味線のいいところ~♪で、いつの間にか四半世紀を超えて付き合う羽目になった。
 以前、はじめて地唄の曲を演奏する機会があったときに、その微妙な速度の曲運びに、大変てこずった。今でいえば、「イライラする」。まあ、確かに三十過ぎた頃だった。
 長唄は江戸・東京のものだから、テンポもすっきり溌溂としている。それに対して地唄のテンポはどうにも、ゆったりしすぎて間延びしてるような感じで、参った。
 しかし、それが不思議なもので、何度も弾いているうちに、その焦燥ともいえるまったり感が、この上なく快感に思えてきた。あの、ウヴィーン、イン…という揺らぎが何ともいえずいい感じに変わっていったのだ。
 そのとき、東京生まれの谷崎潤一郎が、なぜあんなに上方を愛好するようになったのかが、何となくわかったような気がした。
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幾代餅

2010年03月15日 00時01分29秒 | 落語だった
 五街道雲助の、ルックスと雰囲気が好きなのである。
 誰かに同意を求めたことはないが、文楽三味線の野澤錦糸に似てる、と私は思っている。お二方とも、憬れのお人である。
 しかし雲助師匠は、長いこと私にとっては「君の名は」的すれ違いの落語家だった。
 寄席と言わず落語会と言わず、いつ、どこへいっても高座に接することができない。出ているはずだと思っていくと、すでに出番が終わっている。これからだ!と思って待っていると、逆に私の用事で寄席を後にしなくてはならなくなる。
 そんなことが度重なり、しかし、その不遇を克服して師匠の高座を何度かは観ているのだが、私にはもはや師匠の高座姿より、お江戸日本橋亭がハネて、楽屋口からシャツ姿でふらりと出てきた雲助師匠の、柳に風の爽やかな雰囲気しか思い出せないのである。
 そこで今日、この曖昧な記憶を再確認するために、九識の会へ行ってみた。
 3月14日は、松の御廊下内の刃傷、および塩谷判官が切腹したばかりではなく、年が明けたらあなたのもとへ、きっと行きます断わりに…じゃない、幾代大夫の年季奉公が明けた日なのでした。これは偉大なる逆ホワイトデーというやつなんでしょうか。
 これがために、今日高座にかけたという雲助師匠。そういうところが好きだな~~。
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立川談志

2010年03月14日 23時16分34秒 | 落語だった
 こども時代からアラ厄のころまで、私がどれだけ立川談志を好きだったか、知ってる人は少ない。
 芸のことは私が言うまでもなく、昭和30~40年代、キュートなルックスと、なによりもあの、反骨精神と毒舌が、こども心をシビレさせた。
 日曜日のテレビ番組は正午から、大正テレビ寄席、ズバリ当てましょう(買いましょうだった??)、家族そろって歌合戦、そして、笑点だった。星の王子様で売り出していた円楽は、こどもの目線ではカッコイイとは思えず、いくら笑っていても目が笑っていない、何となく好かん人だった。
 私のオッカケが本格化したのは、談志が落語協会を飛び出して野に下った以降だ。ある時は多摩川線に乗り込み、鵜の木寄席というお寺に詣で、またあるときは東陽町は寄席若竹へテープマニアの集いという、当時TBSラジオの早起き名人会からスピンオフした企画集会へ、またあるときは千人規模のホール観衆となり…。独演会の切符があまりに取れないので、姿を観たいがために日暮里サニーホールでの漫談までも通った。
 小よし時代を知っている親戚は「源平」を絶賛する。私のリアルタイムでは…談志なら何でもよかった。ある時期はやたらと「野ざらし」ばかりかけてたこともあった。も一度聞きたいのは「桑名舟」。
 あの、立て板に水の名調子と、客をいじる機転の素晴らしさ。ことさら偽悪的な気風のよさ。好きだったなあ。
 21世紀になってから、落語も寄席も、一時ほどの熱狂を私に与えてくれなくなった。
 談志は高座で「業」を強調するようになった。私は、観客として、拘束よりも解放を欲する。
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