長唄三味線/杵屋徳桜の「お稽古のツボ」

三味線の音色にのせて、
主に東経140度北緯36度付近での
来たりし空、去り行く風…etc.を紡ぎます。

春を待つ

2011年01月31日 23時50分00秒 | 稽古の横道
 新暦の正月は今日で終わりだが、旧暦の今日はまだ、平成廿二年十二月廿八日。
 その昔、師走の二十八日は、門松を飾る日と決まっていた。うちの母はよく、一夜飾りはよくない、と言って、暮れの二十九日に松飾りをするのを強硬に拒んだ。

 まあ、一夜飾りというのも、大晦日が十二月三十日(三十という一文字の漢字が変換できないので、遺憾ながらこの二文字表記にする)に決まっていた旧暦ならではの風習だ。
 新暦だと31日という日にちが存在しますからね。正しくいえば三十一日は、「みそか」ではない。三十日だから「みそか」なわけで。
 そしてまた、月の形は、旧暦では日にちによって決まっているのだ、ということも教えないと、ふと時代小説を書いてみようと思った現代人が、「暮れの二十八日。宵に町家の注連飾りを見上げれば、満月が浩々と輝いていた」…なんて書きかねない。
 吉原を舞台にした歌舞伎の「晦日に月が出る廓(さと)も、闇夜があるから覚えていろ」なんて、ならず者の捨て台詞も、今日日の観客には効用がない。

 …小学生の電話相談室のようになってきたので、このくらいに。でも学校ではこういうことを道理を説いて説明しないので、ますます日本古来の文化への、なるほど感、というのは薄れていってしまうのである。
 詰め込み式に、季節感の微妙に異なる季語を記憶させたり、昔は一月から三月までが春だったのです、と宣言されても、暦自体が違うのだ、ということを教えなくては、昔の人はよっぽど強がりだったん?…というふうにしか納得できないだろう。

 もう何年も前のこと。暮れに湯島天神に行ったら、境内の裏のほうで、鳶職さんが門松を拵えていた。
 竹と松を、荒縄で器用に結い、美しく形づくっていく。その手先の見事さに、惚れぼれとして、しばし見入った。
 職人の街だった江戸、そして東京。
 江戸前のカッコよさ、というのは、こういうところにあるのだ。

 熟練した指先から生まれる小宇宙。その技量。
 撥先から生まれる音色で、宇宙がつくれる人もいる。…ああ、あやかりたい、蚊帳吊りたい。
 
 松は常磐木(ときわぎ)ともいわれ、極寒の季節にも色を変えない常緑樹として、古来から尊ばれた。
 「松・竹・梅」を「歳寒の三友」とまとめて呼ぶ。竹も、節を曲げずにまっすぐ伸びて、色を変えない。梅は寒いさなかに、百花に先駆けて咲く。
 逆境にこそ、いさぎよく、気高く、志を変えずに。
 日本人の美意識を、如実に表した三者。
 歌舞伎に、この三友のうち二つと、桜の名前を冠した三兄弟が登場する『菅原伝授手習鑑(すがわらでんじゅてならいかがみ)』のお話は、天神様の縁日の二十五日に譲るとして…。

 ♪松の木ばかりが松じゃない…という小唄がありましたように、判じ物に、小石に松の葉を結んで想う相手に渡す、というのがある。
 あなたに会えるのを「こいし(小石=恋し)く、まつ(松=待つ)」の心である。

 門松は、春を待つ、こころ。
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南部坂(三大仇討②忠臣蔵)

2011年01月18日 01時30分00秒 | 旧地名フェチ
 今日17日は、旧暦だと平成廿三年十二月十四日である。元禄十五年の今月今夜、赤穂浪士が本所松坂町吉良邸へ討ち入った。その前年、西暦でいえば1701年、元禄十四年三月十四日に切腹した主君の命日である。
 (ちなみに、祥月命日というのは、日にちだけでなく月も同じ命日のことである。昨年、電車の中吊り広告の、とあるお寺さんの沿線散策風紹介記事に「毎月の祥月命日には…」という記述があって、ビックリしたので、蛇足ながら書く)
 この仇討ちに関しては、あまりにもポピュラーなので、もはや私が言うべきことは何もない。
 しかし、日本三大仇討の1と3に言及しておきながら、2を捨て置いてそのまま…というのも、それこそ片手落ちというものでありましょうから、とにかく書く。
 この、暦日を旧暦に当てはめて『金色夜叉』の「今月今夜」的想いにひたる密かな愉しみは、今年は雪が降らなかったねぇ…と、独りごちることである。

 ひとつ言いたいのは、吉良上野介は憎まれ役ではあるのだが、高家筆頭という、朝廷に倣った幕府の儀式を取り仕切る家の人なのだから、人品骨柄いやしからぬ、立派な顔立ちで品のある役者に演じてもらいたい…ということだ。
 先代勘三郎の高師直の意地の悪いことといったら、痛快ですらあった。しかし私はあるときから…もう二十年以前だが、畝と水田のうつくしい三河の国・吉良の荘へ旅したとき、吉良贔屓になった。

 討ち入り前夜、忠臣たちはほうぼうに、しかし先方にそうと知れぬよう、別れを言いに行った。もとより、命懸けである。
 このあいだ煤竹を売っていた大高源吾は道すがら宝井其角に、赤垣源蔵はお兄さんに徳利の別れ、そして、大石内蔵助は、主君・浅野内匠頭の奥方・瑤泉院に。
 瑤泉院というと、どうしても私には口元がほころばずにはいられない、想い出がある。

 今はなき銀座・並木座の、昭和の文豪名作映画特集だったかで、林芙美子の『放浪記』を観たときのことだ。
 並木座は、おなじみの古い日本映画を実に絶妙なタイミングで、何度も上映してくれる心強い名画座だった。八月が来るたびに戦争映画特集をやり、心深き秋になれば、社会派推理ドラマの松本清張原作作品特集をやった。
 たしか、私がはじめて並木座へ行ったのは、鈴木清順監督『ツィゴイネルワイゼン』が上映されたときだったと思う。プランタンはまだ、なかった。

 成瀬巳喜男監督の『放浪記』で、高峰秀子の林芙美子が、艱難辛苦の末、立派な作家先生になり、自宅で編集者たちが原稿待ちをしている。ところへ、母親役の田中絹代が編集者諸氏をねぎらうために出てくる。立派な被布を着ている。被布(ひふ)というのは、簡単にいえば、着物の道行コートにへちまカラーのような折れ襟と、組紐の飾りがついている衣装である。
 芙美子は苦労をしたので、ことさら自分に、このような立派な衣装を着せたがって困る、と母親が愚痴ると、たしか、編集者役の加東大介が「忠臣蔵の、瑤泉院みたいですね」とぽろっという。
 場内大爆笑。観客一同、社会通念が世代を超えて共通していた時代だったので、同じ映画を観て一喜一憂している一体感というものが、昔の映画館にはあった。加東大介のセリフの面白さ以上に、みなでドッと笑った楽しさ、というものが、劇場内に満ちていた。面白さは誰かと共有すると倍増するのだ。

 今世紀になってから、『少林サッカー』を封切り時に映画館で観たとき、この感覚が甦ってきて、愉しかったものである。たぶん、同じ作品を自宅のビデオで一人、もしくは少人数で観るより、何割方かは、愉快ツーカイ度が増している。

 今日では歴史散歩はすっかりポピュラーになったので、内蔵助が最後の挨拶に行く浅野屋敷があった南部坂は赤坂福吉町、今でいえば、赤坂アークヒルズの六本木通りを挟んだ真向かいの細い道を入った先のあたりにある、というのはみなさんよくご存じであろう。
 しかし、昭和の終わりごろから平成ひとケタ時代、日本文化のまったく打ち捨てられ忘れ去られていたころ、この南部坂は、麻布のものと勘違いされていたことがあり、誰かからもそう聞かされたことがあった。寄席でそう言っていた講釈師もいたような…。

 南部藩のお屋敷があったから南部坂と命名されたわけだが、未亡人となって落飾した瑤泉院が身を寄せていたのは、親戚筋の浅野家のお屋敷。今の東京がそうであるように、三百年の長い間、江戸の切絵図も出版年代によって変わっているから、参考文献に使うときは、気をつけなくてはならない。
 元禄十四年を遡ること五十年ほど前にすでに、プレ有栖川公園は、浅野家から南部侯のお屋敷に替わっていたそうなのだ。

 さて、麻布の南部坂。広尾駅から有栖川公園へ向かっていくと、右手にスーパーのナショナル。そのナショナルと公園の間の、ゆるゆるとした道が南部坂だ。
 学生のころ、渋谷の学校からテクテク歩き、ナショナルで食糧を仕入れて、有栖川公園でおやつの時間。それから園内の図書館で、一応、調べ物のようなことをする。昭和の空はまだまだ青く、私は呑気だった。そのころの広尾の商店街は、まったくもって庶民的だった。
 よく観光地に「○×の奥座敷」という形容があるが、昭和の終わりのころ、広尾も赤坂も、「東京の奥座敷」というような、そんな感じの場所だった。
 広尾にも福吉町にも、もうずいぶん行っていない。すっかり違う街になっているのでしょうね…。
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無理が道理

2011年01月14日 23時55分00秒 | キラめく言葉
 「頌春」という言葉がたまらなく好きで、前世紀、年賀状には必ずといっていいほど、書いていた。
 「しょうしゅん」…「しょう」という音の響きが慎ましやかで、しんから寒いところへ、ようよう春がやって来たのをほめたたえ、ことほいでいるように感じる。すてきな言葉だ。
 …しかし、やっぱりこれはヘンだ。ことさらに最近、そう思うようになった。
 だって新暦のお正月じゃ、春じゃないもの。

 春というのは、二十四節気で「立春」になってはじめてそう言えるもので、やっぱり、星の位置を読むのがものすごく重要だった遊牧民族の編み出した太陽暦に、無理やり太陰太陽暦の年中行事を当てはめるのは無理なのだ。内実違っているのに数字だけ同じにして、帳尻を合わせる。そりゃー無理でしょ、というのが、道理というものだ。
 無理が道理。…世話物で無理やり娘に因果を含めて縁談を承諾させる、オヤジさんのセリフみたいですが。

 明治以来そういうわけで、日本民族はだいぶ無理をしてきた。その無理がここへきて祟っているような気もする。
 …そこで一人だけ、旧暦に則ってお正月をしようというほど、私には度胸はない。
 やはり世間様の風習には従いつつ、個人的に旧暦のお正月への道のりを愉しんでみようと思うのだ。

 旧暦では十二月八日からお正月の準備を始めた。
 清々しい気分で新玉の春を迎えるには、やっぱり大掃除、つまり、すす払い。そして、煤払いに必要不可欠なものは、煤竹。
 幕末にはもう売り歩いていなかったようだが、古来は、煤竹売りは、十日ごろから行商したらしい。もちろん、元禄年間も。今年は昨日が、旧暦の十二月十日だった。
 千代田のお城では、暮れの十三日に大煤払いをするのが習わしだった。
 それで民間でもそれにならって、大掃除は十三日ごろに行った。

 温暖化とはいえ、やっぱり平成の世にも寒の内はたいそう寒い。
 ここ数日の寒さに、わが意を得たりと、ひとり、にんまりする。
 ♪笹や笹、笹はいらぬか煤竹は……大高源吾が両国橋の上で、煤払い用の笹竹を売っていたのは、こんな寒い季節だったわけである。
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男伊達ばやり

2011年01月11日 01時23分00秒 | 歌舞伎三昧
 「男伊達ばやり」という芝居がある。もう十数年前。男ざかりの当代成田屋、市川團十郎がひたすらにカッコよかった。
 国立劇場の花道七三で、畳んだ手拭いだったか半纏だったかをパシッと肩に掛けて、「男伊達を、流行らせようぜぇ」と、舞台の当世菊五郎に言った、あのセリフと姿が忘れられない。話の筋は他愛のないものなのだが、理屈はどうでもいい、おおどかな味わいのある芝居こそ、歌舞伎の醍醐味だと思う。
 また、そういう大ウソの世界を、臆面もなく演じきれるものこそが、歌舞伎役者なのだ。
 今は亡き紀伊国屋の「女伊達」…いや、「女暫」も、かっこよかったなぁ。

 最近巷では、「伊達直人」ばやり。
 このキャラクターは、わが世代には捨て置くことができない。
 小学二年生だったろうか、クラスの男の子が、一晩であの、「タイガーマスク」のマスクをつくってみせる、と、大見得を切ったのだった。
 へえぇ、じゃ、出来なかったらどうする? 「丸坊主にしてやるよ!」と、言い出しっぺのI君は叫んだ。
 小学生はすべてに極端で大胆な発言をしてしまうのだった。 
 翌朝、やっぱりI君はつくってこなかった。成り行き上、賭けの受け手になっていた私は、仕方がないので、すでにして五分刈りだったI君の前髪の一、二本を、二、三ミリばかり、切った。
 クラスの連中も、それで事はおさまった。

 昭和40年代の小学生にとっては、大山といえば将棋の大山康晴名人ではなくて、大山倍達。少年誌では、相撲界に代わって、野球界の長嶋・王か、プロレス界の馬場・猪木の、各界の黄金コンビが表紙を飾っていた。プロレスはもっと、一般紙の新聞でも、スポーツ欄のトップに来ていた時代だった。
 子供向けTVアニメ番組では、「空手バカ一代」「キックの鬼」など、「巨人の星」「侍ジャイアンツ」というような野球漫画以外にも、多種多様なスポ根ものがひしめいていた。ユーモア小説味が強かった「いなかっぺ大将」も面白かった。女子に人気があったのはバレーボールの「アタック№1」。
 (私にとって「ドカベン」「エースをねらえ!」は中学生時代のスポ根なのだ)
 実写ドラマでも「柔道一直線」「サインはV」、「金メダルへのターン」という水泳もの、タイトルが想い出せないが、プロボウラーのスポ根ものもあって、あの時代流行った♪中山律子さん、というメロディとともに、ライバルの執拗な嫌がらせと謀略を描く、ある試合の1シーンを、よく思い出す。

 「さすらいの太陽」という、芸能界根性マンガもあった。シンガーソングライターを目指す少女の、出生の秘密という母子物の定石である設定を軸に、長谷川一夫の芸歴エピソードなどを主人公に当てはめて、まさにその時代のテレビドラマの要素を網羅した、手に汗握るメロドラマ・スポ根だった。
 「タイガーマスク」のエンディングと双璧の、秀逸なバラード系のエンディングテーマが、いい曲だった。今でもたぶん、そらんじて歌える。
 世の中すべて、ど根性、だった。

 今思えば、日本国中、みな、しみじみと健気な生き方をしていた。
 いつからだか日本人は、心の満たし方を間違えたのだ。
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裏街道をゆく①遠江の峠みち

2011年01月01日 02時30分00秒 | ネコに又旅・歴史紀行
 ちょうど十年ほど前の二月だったか三月だったか、ただひたすら列車に乗り、郡山から磐越西線、そして会津若松で只見線に乗り換え、小出から越後湯沢に出た。
 只見線の車窓は、もう春だというのに雪、雪、雪。瞳のなかに雪の記憶だけ残して、私は新幹線に乗って生暖かい風の吹く東京へ戻ってきた。

 その車中で、私は懐かしい人に出会った。小学生のとき読んだ松谷みよ子の『まえがみ太郎』に出てくる、突然の洪水に備えて、常に頭に小舟を括りつけている格好の里人そのままの、枯れ枝のようにスレンダーな人に。
 そのたとえは誰に話しても伝わらないだろうから、そのままあの雪景色とともに心の奥底に深くしまっていたのだが、今宵、新暦の新年を迎えるにあたり、ついと、♪お正月さんはいいもんだ……という歌詞が浮かんだ。
 これは、本の文字からの記憶なのでどういうメロディになるのか分からないのだけれど、やはり『まえがみ太郎』の文中に出てきた歌だったと思う。ゆずり葉に乗って、お正月さんは突然、まえがみ太郎の家だったか、おじいさんの家だったかを訪れる。

 子どものころから周囲の期待を裏切ってばかりいたので、すっかり偏向的になってしまった。
 ジャスト・ミートじゃないものに惹かれる。
 「巨人・大鵬・玉子焼き」なんて思いもよらない。当たり前のものをありきたりの価値観で賞翫すると、自分の存在意義が失くなってしまうような気がする。…というより、その直球度合いが気恥ずかしい。
 好んでその正反対のものを偏愛し、どこか傷のあるものに惹かれた。
 正攻法の大道をただ考えもなく直進するのも詰まらなく思えて、脇道を見つけるとここぞとばかりに潜り込み、やたらと横道へ逸れてしまう。

 十代終わり、ジャズのスタンダードナンバーが好きで、サッチモの唄真似に磨きをかけていたころ、「明るい表通りで」…Sunny side of the streetを、クラリネットで吹いてみたけれど、言い知れぬ諦観に満ちた、切なくやる瀬ないメロディだ。
 陽のあたる場所…のはずなのに、なんだか寂しい。無理やり青空に向かって口笛吹いてるような曲調は、全然明るくなくて、人間って日なたにいても…いや日なたにいるからこそ、失望感がつのる場合もあるのだった。
 そういえばそのころ丸谷才一の『横しぐれ』を読むのが、友人の間で流行っていたのだが、どうしたわけだか、全然内容が想い出せない。山頭火の「後ろ姿のしぐれていくか」にまつわる話だったような気がするのだけれども。
 
 さて、古くは正道、本道だったのに、世の中がすっかり変わってしまって、裏道のようになってしまったものがある。
 敷島の日本列島の内ばかりをあちこち旅行していたら、旧跡の、自分が行きたかったところには大概行ってしまっていた。
 しかし、人間、因果なもので、何の密命も帯びていないのに漂泊の想いやまず…それでも旅をせずにはいられない。
 関西への旅行帰りに、いつもは通過してしまう遠州か駿河で、一息つくことにした。

 ♪西行法師は家を出て…長唄『時雨西行』を口ずさみながら、あまりにも一時流行ったので考えたこともなかったが、ふと、小夜の中山へ行ってみようかという気になった。
 それに、旧東海道は、もはや天下の大道ではない。国道1号線にその責務をゆずり、隠遁する道なのだ。私は西の日坂方面から辿るので、まさに西行法師と同じ感覚である。

 尾根へ出ると、すっかり一面の茶畑。山の斜面も向こうの谷も、さらに向こうの山の斜面も、何面もの茶畑が、天と地の間にある。静岡のお茶栽培は、江戸幕府が亡くなって、失業したお侍さんたちが入植したものだそうだから、じつに立派に丹精したものだ。
 もう傾きかけた12月の陽光が、きらめきながらきれいに剪定された茶畑を照らしている。山を渡る風が冷たい。
 登りはそうでもなかったが、金谷へ下りて行くその坂道が、あまりに急勾配で、難儀した。
 こんなにも明るく、夕陽のあたる坂道なのに、とにかく心細い。一ノ谷兜のように峻厳で、自分の足元が滑り落ちていくようで、気が気ではないのだ。
 どうにか通り過ぎることができて安堵して、思わず知らず涙が出てきたのは、風の寒さばかりではない。いにしえ人がこの山を越えるさまを想像すると、いじらしい。昔の人はたいしたもんだ。よくまあ、こんなところを自分の足で歩いた。
 しかも、今は開けて茶畑になっているけれど、鬱蒼とした樹々に覆われた、恐ろしい山道だったろう。もとより人間なんて、ちっぽけなものだ。
 旅は、物見遊山ではなくて、修行だ。
 まだ陽の残る麓で、私は大層ホッとして、自分の生きてある身を有難く思った。

 「年長けて また越ゆべしと思いきや 命なりけり小夜の中山」
 昔は、お誕生日という概念がなかったので、お正月が来ると一つ、年をとった。
 こう、指を折って数えてみたら、自分でもビックリするほど、いつの間にか年をとっていた。
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