長唄三味線/杵屋徳桜の「お稽古のツボ」

三味線の音色にのせて、
主に東経140度北緯36度付近での
来たりし空、去り行く風…etc.を紡ぎます。

同朋町

2010年03月22日 00時20分03秒 | 旧地名フェチ
 ある時、私は自分の芸の源流、師匠のルーツを尋ねて神田の同朋町(どうぼうちょう)を探していた。
 わが杵徳の家元・杵屋徳衛のお祖父ちゃんは、杵屋勝吉という、大正から昭和前期に活躍した三味線方の大師匠である。かつて、俗に「杵勝三千人」といわれるくらい、杵勝派は長唄の流派では最大派閥だが、勝吉はお師匠番のような立場にいたらしい。別派を樹て家元になった。弟子だけでも五百人を数えたそうである(概数ではなく実数とのこと)。飛ぶ鳥を落とす勢いだったアラカン(嵐寛寿郎)の映画にもかかわっていたし、カツシン(勝新太郎)のお父さんである杵屋勝東治さんもお祖父ちゃんの後輩で、いろいろ面倒を見ていたそうだ。
 神田明神下の「同朋町のお師匠さん」として名をはせた勝吉は、戦前、府下北多摩郡は吉祥寺村(要するに現在の武蔵野市吉祥寺)に移り住んだ。千坪からの大邸宅に至る横町には「杵屋小路」と名がついた。…今は昔の物語。
 さて、私がルーツを探していた平成の初年頃には、まだ役所にも時効管理課のようなおっとりした部署があって、電話をかけると、旧町名が地名変更後の新番地のどのあたりになるか、親切に教えてくれる専門の係があった。
 調べてみると、千代田区にも台東区にも文京区にも、いくつか同朋町があるのだった。同朋町は、幕府に仕えていた同朋衆の住まいしていたところの町名だろうから、さもありなん。
 そこで、神田明神に近い、当該箇所と思われるところを、地図を広げて勘案してみた。その場所は明神下というよりも、現代の感覚では、神田明神北というような辺りになるのではないかと類推された。
 平成初年のある日、さっそく私は行ってみた。しかし、往時の面影を偲ぶにはなお余りある幾星霜、何軒かの商店に立ち寄り訊ねてみたのだが、みな戦後移り住んだというお方ばかりだった。路地の少し奥まったところに、ポンプ式の井戸があった。その風景とお対になる猫は、あいにく、どこにも見当たらなかった。
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