長唄三味線/杵屋徳桜の「お稽古のツボ」

三味線の音色にのせて、
主に東経140度北緯36度付近での
来たりし空、去り行く風…etc.を紡ぎます。

江戸から東京へ

2010年08月26日 23時55分00秒 | 旧地名フェチ
 もう十年近く前のことになろうか、JR市ヶ谷駅のホームで、電車を待っていた。
 市ヶ谷駅はご存知のように、江戸城のお濠端にある。ホームに立っていると、釣り堀が見えたりして、お濠の向こうに車の往来の激しい外堀通りがあるのだが、水の流れが騒音を遮るのだろうか、喧騒を忘れる。

 たしか、初夏のいささか蒸す季節だったように思う。何となく、澱が淀んだような、水辺の腐ったような、下水の詰まったような、あまり気持ちのよくない臭いが辺りに漂っていた。……想い出せないが、浚渫工事でもしていたのかもしれない。

 「宮城(きゅうじょう)のそばで、こんな臭いをさせちゃあいけないよ…!」
 同じくホームで電車を待っていた、七、八十ぐらいの小母さんの、怒ったような独り言が聞こえた。

 …宮城。懐かしい響きの言葉だ。私は生まれたときから皇居と呼んでいるけれども、たしか、明治生まれの祖母や、大正生まれの諸先輩方は、宮城と呼んでいた。
 その変わり目はやっぱり、太平洋戦争をはさんで戦前と戦後が、境目になっているのだろうか。

 今日は、旧暦の七月十七日。
 さかのぼることの142年前の1868年、慶応四年のきょう、江戸が東京と、名を替えた。
 彰義隊の上野の山の戦も終息して、前年の十月に大政奉還し、水戸へ去っていた徳川慶喜も駿府へ移り、十六代が立って徳川本家の処遇も決着した。
 …戊辰戦争はまだ続いていたのだけれども。
 土方さんが会津戦争に向かい、福島を転戦していたころ。近藤さんは四月に、すでに板橋で処刑されてしまった。今年、大河ドラマで何かと取り沙汰される坂本竜馬も、慶応三年の十一月に暗殺されて、もういなくなっていた。

 慶応四年九月八日、慶応は明治に改元されて、1868年は明治元年となる。
 江戸城が東京城と名を替えたのは、同年十月十三日のことである。明治天皇が、初めて東京に入城したのは、この日だそうだ。

 直木三十五の『南国太平記』が面白くて面白くて、登場人物たちの情熱に泣きながら読んでいた二十数年前、彼らが江戸城を、千代田のお城、と呼んでいたような記憶がある。
 それで私も、なんだか江戸城というよりそれが気に入って、千代田城と呼んでみたこともあったっけ。

 名が変わっても存在し続けるというのは、いいことだと思う。
 どのように変わってしまっても、形骸が遺っていれば、偲ぶことができる。
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見てはいけない…!

2010年08月25日 01時51分15秒 | 稽古の横道
 夏の風物詩、恐怖映画…スリラー、ホラー、サスペンス、スプラッター…いろいろありますが、恐怖にもお国柄があって、怖がらせ方が違う。

 なんかヤダなー、ヤダなーと思って、バッと後ろを向くと…何もいなくて、でも、ますます怖い…ここら辺に出そうだな…と思って怖がる心構えをしていると、予期せぬ方角からドヒャッ!!と出てくるというヒネたパターンと、なんか、どうもヤダなー、ヤダなー、で、バッて後ろを向くと、ぎゃあああぁ~~~、やっぱりいた~~っつ!という直球パターンと、ありますね。
 もう30年近く前に考察していたのですっかり忘れてしまいましたが、イタリア映画の怖がらせ方が前者、アメリカ映画の怖がらせ方が後者のパターン、という感じだったように記憶しています。

 子どもの頃読んだ、怖い読み物特集雑誌に、ものすごく怖い次号予告のカットが載っていて…それは、タイトルが「恐怖のネックレス」というような感じの。
 そのネックレスをして鏡を見ると、物凄い顔の自分が映っている…というようなイラストでした。結局本編は読んでないのですが、あまりに怖い予告編だったので、それだけでもう40年の長きにわたって、覚えているのです。
 …どんな話だったのでしょう。たぶん、一生、分からないままだけれど。
 時々、一人で夜中に鏡を覗くのが、無性に怖い。あぁ、コワい。

 大人になってから、そんな怖いものの話はすっかり忘れて…だってお化けやユーレイより人間のほうがコワイのだもの…とか思いながら、日々を暮らしていた三十代ごろ。
 何がコワイって、歌舞伎座で着物の着こなしが妙チクリンで笑い者になるのだけは、絶対に避けたい、と、オシャレが命だったお年頃に、呉服屋さんで見る着物見る着物、全部が欲しくなってしまう、という、怖い目に遭っていました。

 内海桂子師匠が、着物雑誌に連載を持っていて……着物を見るとつい買っちゃう。なるべく見ないように街を歩いているんだけど、馴染みの呉服屋さんの番頭さんが、暖簾から半分顔を出して「師匠、いいのがありますヨッ」とかいわれると、やっぱり好きなもんだから、ずるずると見てしまって、ついつい買っちゃう…という、そんな記事を読んだ覚えがあります。

 あー、ダメダメ、目の毒なんです。私ももう、呉服屋さんには絶対に行かない。……と、思う。
 それにしても、迷って迷って迷った挙句、選びに選んで、悩みに悩んで着物を買うのですが、そうして、候補に挙がりながら買わずに過ごした着物の柄って、いまだに覚えているのです。
 特別に高くて買えなかったというわけではなく、何となく決めきれなかったというお品なのですが、10年以上が経った今でも目に浮かぶ、薄水色に印判散らしの石版摺り調小紋、パステルカラーの乱菊の大柄小紋、朱色のむじな菊が亀甲取りになってる江戸小紋、漆黒に星絣の琉球紬…エトセトラ、エトセトラ…。

 …げに恐ろしきは、着物に対する、女の執念~~~、これですね。
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節句働き

2010年08月24日 08時08分00秒 | 折々の情景
 「怠け者の節句働き」という言葉がある。
 節句は祀りごとをするので、仕事はお休みするのですが、怠け者は仕事が終わらないから、そんなときに限って働いている、ということですな。
 みんなが休んでいるところで立ち働いて、ことさら働き者のようにアッピールしていることもいうのかもしれない。

 旧盆のあいだ、東京はものすごくガラガラで、昭和の円谷プロの特撮もの、「ウルトラQ」や「怪奇大作戦」の、街から突然人が消えた…的なSF物を観ているようだ。常日頃の人口密度がすべてまぼろしだったようで、何となくウキウキする。
 そんなスカスカしたお盆の都内で、働くのも、日頃行かない都内の名所旧跡に行ってぼんやりするのも、愉しい。

 …お盆が過ぎるといよいよ夏休みは終盤で、子ども心は焦りに焦りまくるのだが、この、夏休みの誘惑にはあらがうすべがない。
 恒例、怪談やドラキュラ映画だって観なくちゃならないし、デパートの特設会場のお化け屋敷にも行かなきゃ。両親や町内会、子ども会が企画してくれる海水浴やキャンプはあまり気が進まないが、行かなきゃね…とまぁ、やりたいことはたくさんあるのだ。

 立秋が過ぎて、旧暦の七月になると、蝉の声に代わり、秋の虫の声が聞こえ始めて、ただただ青かった空も、風が透明な朱色を帯びて、そこはかとなく哀愁を含んでくる。
 …ぼんやりと、そんな秋の気配を感じていると、あっという間に夕暮れが忍び寄ってくる。花火ってすぐ終わっちゃうんだね…とか、何となく子ども心にも無常感がしみじみと迫ってくる。
 そうして、あっという間に夏休みは終わり、毎年、深く後悔しながらも、私は結局、9月1日に夏休みの宿題をやっていたのだった…。

 お盆はもともと、旧暦の七月十五日の行事で、それをそのまま新暦に移したのが東京のお盆。日にちだけ残して、気候的にマッチする8月15日に執り行うようになったのが、今いわれている旧盆である。旧暦では十五日は満月にきまっているから(月齢がそうでも暦の都合で一日ずれてる場合もありますが)、それで十五日というのは特別な意味合いがあったらしい。
 お盆を、太陰太陽暦で本来の七月十五日に行うことにすると、今年はきょう、8月24日火曜日に当たります。
 お墓参りに行きそびれた方は、本日、どうぞ…。
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罪つくり

2010年08月19日 23時55分00秒 | 稽古の横道
 …小指が痛い。誰かに噛まれたわけでもないのに。
 これは半年前、稽古場の棚を直していて金槌でやっちまった古傷だ。左手なので大丈夫、と思っていたが、調子替わりでねじを上げるとき、若干響く。
 左右の小指を眺め比べてみたら、痛い左指のほうが、心持ち、太くなっている。
 …それで、昨日稽古場で、エクレアの話が出たのを想い出した。

 もう、25年ほど以前。吉祥寺にドイツ菓子のお店があった。ご主人がドイツ人で、故郷のレシピで作った可愛らしい焼き菓子やケーキなどが並んでいた。そこに、その、エクレアがあったのだ。
 日本でいうエクレアは、シュークリームのシューを細長く焼いて、カスタードクリームをサンドし、上にチョコレートをかける。
 しかし、そのお店のエクレアは、私の小指ぐらいの大きさで、ギザギザの口金で絞り出して殻を成形したような感じで、中空のところへ生クリームが入っていた。
 それがものすごく可愛らしく、美味しい。一口で食べてしまえる、小体な握り鮨のようなお菓子なのだ。

 今思い出したが、昔、クリームコロンとかいう市販のお菓子があったでしょう、今もあるのかもしれないけれど…形状はあれに似ていて、それを細長くして、皮はミスドーで見かけるチュロー…調べてみたら、揚げ菓子系でチュロスというのが本来らしいのですが…を、デリケートにしたような感じ。

 その想い出のエクレアを、お稽古場で、たまたま、お菓子談義をしていたときに思い出したのだ。
 …あのお店は今でもあるのでしょうか。

 そういう、店主の腕一本で成り立っている、今でいえば、オーナーシェフ、とか、職人さんの腕でやっているお店は、様々な理由からご本人が仕事できなくなってしまうと、無くなってしまうところが、つらい。
 技術というのは一日にしては成らないから、仕事ができる本職さんというのはそうそういるものではなく、それは他のもので代替になるというような性質のものでないだけに、本当に残念だし、愛用していた者は困ってしまうのだった。

 銀座のあづま通りに、京屋、という草履屋さんがあって、私はそのお店が好きだった。
 ご亭主が鶴のような哲学者的細面の、品のいい方で、扱っている草履の形も細身で歩きやすく、鼻緒もすっきりとスマートで、万事がシャレていた。
 名取になったとき、このお店で楽屋履きを誂えたのだった。焼き印で名入れをしてもらって、とてもうれしかった。
 それが、10年ほど前のある時、お嬢さんとおぼしき方が店番をしていて、草履裏を直してもらったのだが、それからしばらくして、いつの間にかお店を畳んでしまった。
 それ以来、どこを探しても、気に入った草履というものが見つからない。私は、草履屋さん難民になってしまったのだ。

 今でも未練がましく、京屋の紙袋を持っている。デザインは創業時の鑑札を写したものだろう、檜皮色に墨で「諸履物株仲間 明治元年戊辰十一月 東京銀座 京や」と刷ってある。
 
 包丁を捜している。
 これも15年ほど前京都で、京極から壬生寺まで歩いていた途中、たしか堺町通を歩いていたら、たまたま刃物屋さんがあって、何となく覗いたら、割り込みステンレス鋼という珍しい包丁があった。非力な私には軽くて使いやすい、お値段も実に手頃だったので、そんなつもりもなかったのだが買ってしまったのだ。
 大層よく切れて、とても重宝して、大事に使っていたのだが、一昨年、刃がポロポロッと欠けてしまった。
 それで、京都に行くたび、たしかここら辺にあったはずだ…と、お店を探したのだが見つからない。
 唯一の手掛かりは、峰としのぎの間の平の部分に刻まれた銘、将棋の駒に「八段 早川信久」という文字。昨年思い立って、早川刃物店を電話局で探してもらったのだが、なかった。
 …親方。今はどうしているのやら。

 邦楽界でもいま深刻な問題は、職人さんが減ってきていることだ。それが、本職として腕が立つという以前に、基本がわかっていないのに、商売をしている者が増えたらしい。
 三味線を手に入れるのに、インターネットなどで気軽に買えるようになった。ご町内の邦楽器屋さんが極度に少なくなってしまったいま、それは有難いことでもあるが、心あるものには驚くような代物が出回っている、と聞いた。

 三味線の棹にハがない。
 これは、どういうことなのかというと、糸を張って演奏しやすいように、胴の中子に棹を継ぐときに、三味線の棹に若干、微妙な角度がついている。これをハというのだが、それがない三味線が時々出てきて、売ったわけでもないお客さんから弾きづらい…とか言われて修理に出されたりして、街の三味線屋さんも悩むそうだ。

 それから、撥皮の位置。
 表皮の撥が当たる部分に、撥皮という、半月の弧が膨らんだ、弓張り月のような形をした皮が張ってある。これは、皮を保護するため撥が当たる部分に張るわけだが、これが、なんと、胴のキワから、しかもど真ん中に張ってあるのだ。
 胴には木の枠の厚みがあり、そこに撥が当たると撥先が欠けるし変な音がするので、そこには当てない。だから撥皮はそこから張る必要がない。胴の際から7ミリぐらいかなぁ…、ちょうど小指の太さぐらいの空きを持たせて張るのだ。

 本来の三味線の、胴の面積と撥皮の大きさと、ヘリの空きにもたぶん、美しい調和があるように思う。
 だって、撥皮をキワから張った胴は、見た目もヘンだ。三味線屋さんの愚痴を笑い話のように聞いていたら、油断できませんねぇ、お弟子さんの一人が、自力調達したその三味線を、なんか弾きづらい…といって、稽古場に、見て下さい、と、持ってきたのだ。

 芸を極めるために精進するわけだが、三味線がなくちゃ三味線弾きはお手上げだ。
 弘法筆を選ばず、というのは、楽器には当てはまらない。

 自覚しているのかどうか、わからないけれども、シロウト相手に本職のふりをして、安直に商売するなんざ、罪つくりですョ。
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カエル天国

2010年08月13日 07時28分02秒 | 美しきもの
 どういうわけでか、カエルが好きなのだった。
 吸盤でぷっくりと丸くなった指先、キョロリと飛び出した目、比較的きちんと結んだ口角の上がった口元。凛々しくもユーモラスな、前方斜め45度から見た横顔。
 …可愛いくて仕方がなく、愛さずにはいられない。

 ことに、緑色の小さい雨蛙の可愛いことと言ったら…。
 昔、うちにあった、ナショナル・ジオグラフィクの大自然写真集に、南洋の珍しい赤みを帯びた綺麗なカエルが載っていた。…でも雨蛙の、ちょっと透き通った、薄い緑色の美しさに、私は軍配を挙げる。
 地面の色に似た、殿様ガエルや牛ガエルは、ちょっと苦手だ。

 カエルはやはり、青蛙に限る。
 …と言っても、別に、食べるわけじゃぁ、ありませんけどね。

 …とはいえ、ここ20年余りというもの、実物の雨蛙と触れ合いの時間を持った覚えがないから、この偏愛は、カエルキャラからもたらされたものなのだろうか。
 ケロヨン、薬局のケロコロコンビは言うに及ばず、ど根性ガエル、竜ノ子プロのけろっこデメタン。水木しげるの南方に棲むガマ人。
 セサミストリートのカーミット。パペット・マペットのカエル君。
 …でも、それほど好きだった記憶もない。

 10年ほど前のある時、グリム童話のカエル王子とおぼしき描画がプリントされた、舶来のコースターを手に入れた。
 あまりに気に入って、仕事机の上に置いて、ことあるごとに眺めていたので、仕事仲間にからかわれた。
 これから始まったのか…?
 高山寺の鳥獣戯画が織り出された錦の手提げは、着物のお供に使っている。

 一昨日、稽古場の隣町を歩いていたら、偶然にも、カエル屋さんを見つけた。
 実物ではなく、カエルを象ったあらゆる関連グッズや小物が店中に置いてある、まさに夢のようなお店なのである。
 …残念ながら、お盆休みです…の貼り紙がショーウィンドゥにあって、私は天国へ渡りそびれた。

 べし、というキャラクターがある。
 赤塚不二夫の『もーれつア太郎』に登場するカエル・キャラであり、ケムンパスやココロの親分さんと共に、地味ながらも忘れ得ぬ、動物変化キャラクターである。

 たしか、小学2年生だったと思う。学校で4人ぐらいずつのグループ毎に自習か何かをしていて、なぜだか私たちの班は、マンガの似顔絵を描いていた。
 べしを皆でそれぞれに描いていた時のことだ。
 誰か一人が、べしの目を耳だと言いだしたのだ。

 …それは有り得ないだろう、カエルなのだから…と、反論する私に、友人は、べしの鼻の穴を眼だ、と言い張るのだった。
 あまりのことに面喰らったが、しかし、グループの他の3人も、べしの眼を耳だと言い張る。
 …まさにキツネに摘まれたような状況に、呆然とした6歳児の私は、口をつぐんでしまった。

 ずいぶん後で、その時のグループの一人だった子に、あれは何でだったんだろうね…と聞いてみたら、自分も眼だと思っていたけれど、そう言えない雰囲気だったと、ぽつんと言った。
 私はますます不可解の念が募り、以降、べし事件として40年が経った今でも、鮮明に記憶に残っている。

 それは私にとって、多数決という民主主義の原則に、疑念が生じた瞬間であった。
 …ちょっと大袈裟ですけれどもね。
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綱館の段

2010年08月07日 14時55分50秒 | お稽古
 朝、稽古場へ向かう。
 すでに陽は高く、吹く風は熱をはらみ、日差しは苛烈さを増している。
 背中といい脚元といい、身体を灼く陽があまりにもジリジリと暑いので、つい「♪九夏三伏の暑き日は…」と、口ずさんでしまう。長唄『綱館(つなやかた)』の一節である。
 源頼光の四天王の一人、渡辺の綱は、羅生門で、茨木童子こと鬼神の腕(かいな)を斬り落した。
 この後日談が『綱館の段』で、渡辺の綱の館へ、鬼が腕を取り返しにやってくる。

 綱は陰陽の博士・安倍晴明に、七日間のうちに必ず鬼が仕返しにやってくるだろうから、物忌みをして、館に閉じ籠るように助言された。
 …十年ほど前だったか、二十世紀末に陰陽師がやたらと流行って、「週刊・安倍晴明」なる雑誌も刊行されたりしたが、あれからどうなったのかしら…。余談、余談。
 鬼は誰に化けてやって来るかもわからない。堅く門扉を鎖して、絶対に、誰にも会うなという、ありがたい晴明先生のアドバイスです。
 …そんなところへ、来てしまうんですねぇ、伯母が。はるばる故郷の摂津の国から。

 当然のことながら綱は、晴明先生の言いつけを厳守して、伯母を追い返そうとする。
 しかし、伯母は綱の事情なんかには一切耳も貸さず、これは当然、鬼の茨木童子が化けているのだからして、どうにか家の中に入れてもらおうと思って、自分がどれだけ苦労して、幼子だった綱の面倒をみたことか…それに引き換え、今のその情け知らずの態度は何だ、えぇ、情けないじゃないかねぇ…と、くだくだしく、甥をかき口説くのだ。
 そのときの伯母のセリフが、くだんの「九夏三伏の暑き日は…」なのです。

 夏の酷暑の時期には、扇であおいで暑さを凌がせて、厳冬の夜は布団をかけて温めて育ててやったのにィ…そこまで立派になったのは誰のおかげだと思っているんだぃ。
 「♪恩を知らぬは人ならず、ええ~汝は邪慳者かな…」と、声をあげて泣き喚く有様。
 そうまで言われて綱はタジタジ。まったくもう、伯母さんにはかなわないよなぁ…とこぼしながら、是非もなし…と扉を開けてしまうのでした。

 それにつけても、オニは、なんとまあ、人の心の弱点を、よく突いてくるものだと感心する。
 これが妙齢の美しいご婦人だったら、綱は絶対に入れない。
 モノノフの沽券と意地と誇りにかけて、絶対に色仕掛けなんぞでは落ちないのだ。いや、落ちてたまるか。断じて。世の中に、金と女はカタキなんですからねー。
 …というほど、後世の浪人者ほどスレてないにしても、可愛い女の子は、日頃つらい思いをすることが少ないだろうから、人としても、むしろキッパリと拒絶しやすいというものだ。いや、本人のためにも、キッパリした態度が情けというものでありましょう。

 しかし、ことこれが伯母御となると、そうはいかないのだ。
 身体髪膚、これを父母に受く。親の恩は海よりも深く、山よりも高いのだ。
 そんな大恩ある係累のオバちゃんを、無下にするわけにもいかない。年ふると、ただでさえ情けないことが多い世の中なのに、ばあちゃんを泣かすのは寝覚めが悪いというものだ。
 何より、言い負かすのが大変だ。オニより祟りそうな気もするし…。
 そして、武勇の誉れ高きサムライである綱には、人の道を外れるというのが、何よりも恐ろしい、恥ずべきことなのである。

 御所の警護役である頼光の邸には、よく、もののけがいろいろなものに化けて潜入してくるのだが…たとえば土蜘蛛が、バレ易い、入道や座敷ワラシのような幼女に扮してきたのと比べると、茨木童子は大したものだ。

 大薩摩がめちゃカッコいいこの曲は、歌詞もいいので、何かというと、思わず口ずさんでしまう。
 ♪恩を知らぬは人ならず…あたりも、思いがけない思いをしたときや話を聞いたときに、よく口を衝いて出る。

 それからクライマックスの、伯母が正体を現わす前の、唐櫃の中の腕を眺める、緊迫したシーン。
 「♪このとき伯母はかの腕を、ためつ、すがめつ、しけじけと、眺め眺めて居たりしが、次第しだいに面色変わり…」
 このところも、あまりにも面白いので、なにかというと♪しけじけと…と、口ずさんでいる。

 この♪しけじけと…を、陰にこもって物凄く…的になるちょっと手前で、含みを持たせて唄うのが楽しいのだ。…サスペンスですなぁ。
 この季節はやっぱり、物の怪の怪異譚で涼みたい。
 かにかくに、泣く子と伯母と、夏の暑さには勝てまへんなァ。

 …さて、そんなことを言いながら、今日は旧暦の六月廿七日。
 立秋です。
 
 
 

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絶滅種・かき氷

2010年08月03日 02時40分00秒 | 美しきもの
 最早こうなると、アイスクリームではこの夏を凌げない、と、思い至った。
 …かき氷、かき氷だ。
 ここ何年もというもの、そんな気になったこともなかったのだが、今日、町中を奔走して、かき氷を探した。
 甘味処でたかが氷に代価を支払うなんて…とか思ってやしませんか? ……とんでもhappened!
 日本の文化の素晴らしいところは、日常生活の隅々にまで、細かく美的感覚が行き届いている、余すところなく気配りというか、手と心が及んでいるところだ。
 たかがかき氷、されどかき氷。
 ひとひらの雪…とでも呼びたいような、うすく削がれた氷片は、口に入れるとふうわりと優しく、すーっと溶ける。

 昭和のころ、住宅街の普通の家の一角で、その家のおばちゃんが副業で、冬はお焼き屋さん、夏はかき氷屋さんをやっている家があった。駄菓子屋へ行くことを禁じられていた家の子どもでも、そのおばちゃんがやっているお店は、出入りが叶う。
 冬は、タイ焼きでもなく大判焼きでもなく、円いお焼き。要するに今川焼。
 そして夏は、かき氷。大きな業務用のカナ輪がついた機械に、これまた業務用の、大きな四角い氷柱を挟む。
 シャカシャカシャカ…と、小気味よい音とともに、雪が降る。おばさんは、斜めにした掌の器を、小器用に左右にかたげながら均等に雪山をつくっていく。
 うす雪が降りしくように、器のなかに、ひと固まりの冬景色ができる。
 途中でシロップをかけて、少し雪山が融けてくぼんだところへ、またシャカシャカ…と三角の頂上をつけてくれる。仕上げに再びシロップ。シャカシャカシャカ…。
 真夏の住宅街に雪が降る。

 口の中に入れると、ふうわり、ひんやりと溶ける。
 ……あのかき氷が、今はどこにもないのだ。

 現在、街なかに氾濫している、フラッペというようなものは、つぶ氷とでも呼びたいような代物で、昔の、あの鋭い薄いカンナで削った、天使の羽根とでも形容したいようなふんわり感が、まるでないのだ。
 食べている途中で融け出して、工事中の舗道に降りかかったみぞれが、春泥にまみれた態で、無残やな、練乳がけのかき氷…という景色になってしまった。

 ……どこにいるのだ、かき氷。
 どなたか、あの、正真正銘のかき氷の所在を、ご存じないでしょうか…。
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