長唄三味線/杵屋徳桜の「お稽古のツボ」

三味線の音色にのせて、
主に東経140度北緯36度付近での
来たりし空、去り行く風…etc.を紡ぎます。

蘭蝶

2010年11月22日 00時00分30秒 | 凝り性の筋
 「蘭蝶」で泣いた。久しぶりに聴いた。劇場で聴いたのは正しく十年ぶりだった。
 三越劇場から出たら、東の空にぽっかりと月が浮かんでいた。そうだ、今日は十五夜だった。
 日本橋の大通りを、息もつかずに南へ歩いた。こんな気分のときは、丸善でビールを飲むのだ。休日の日本橋はすいているから好きだ。普通のビヤホールでは嫌だ。一間三尺四方にひと気がない空間で、このじわじわとした感慨を反芻しながら、のどの渇きをいやすのだ。

 今日のこの新内の会は、成駒屋が立方で出るというので、番頭さんに取ってもらった切符だった。新内のとあるお家元の弟子たちの披露目も兼ねた会、ということで、特に期待もしていなかったのだ。
 歌舞伎長唄、という言葉があるように、舞台の地方(じかた)の演奏は、素の演奏会とちょっと違う。役者の邪魔にならないように演奏するのだ。
 おなじみの曲に新趣向を組み入れた番組もご愛嬌、なんと八十回を重ねるという記念公演の、会主の口上も爽やかな、和気藹々とした会場の甘い雰囲気に、古典芸能の世界のいつものことだ…と、高を括っていた。だが、甘かったのは私のほうだった。

 終曲は「蘭蝶」だった。すでに鼻をぐすぐすいわせていた観客が、声をかけた。
 よっぽど思い入れがあるのだろう…と、そのときも私は冷静だった。

 私がこの曲に思い入れがあるとするならば、九代目澤村宗十郎、丸にいの字の紀伊国屋が、歌舞伎座で最期に勤めた芝居、というだけだ。
 あのころ私は仕事が忙しくなって、もうあまり歌舞伎座に行けなくなっていた。たしか、二十世紀最後、極月の歌舞伎座で、自分で手配したのではなく、知人が行けなくなったから、と、三階席の切符をくれたのだった。私はこの知人を、今でも恩人だと思っている。
 そしてそれが、私が紀伊国屋を観た最後の舞台になった。

 …そんなことをぼんやりと想っていた。ところが、で、ある。
 後半の山場のクドキ、「♪縁でぇぇこそあれぇ…」と、会主が一声、語ったとたん、場内の空気が変わった。そして、私の料簡も。
 三味線の調子がちょっと狂っていた。でもそんなことはどうでもいい。
 そんなことは問題にならないほど、私は一瞬にして、大夫の語る声のそのたゆとう世界に連れて行かれた。……これが芸というものだ。大夫はおそらくこのクドキを、何千回となく語っているだろう。

 「蘭蝶」は、恋にすべてをかけた女が、でも、更に、その男に命をかけて尽くしている女に義理立てして、その恋を思い切る話だ。
 しかし、私はそんな理屈をすっかり忘れていた。もう、ただただ聴き惚れて、そしてただただ、感動していた。
 理屈で感動するのじゃない。感性だ。
 聴く者の感性を揺さぶる大夫の語りに、心の芯を掴まれて、私はただただしみじみとその声に聞き入っていた。これが芸の力だ。何年もかけて、積み重ね蓄積してきた、一朝一夕にはできない、芸の力量というものが、これなのだ。
 幕が下り、また上がり、会主が終演の挨拶を述べたが「もう胸がいっぱいになってしまって…」と言葉少なに結んだ。福助も涙をぬぐっていた。

 顔を直すのに化粧室へ直行した。こんなふうに、観劇終了後、お手洗いでしみじみと泣いたのは、たぶん、アン・リー監督の「グリーン・ディスティニー」以来だ。
 あのとき私は、あの主人公の一途さに、もう胸がいっぱいになってしまって、観ている間は何ともなかったのに、今は亡き新宿松竹の、ひと気のないお化粧室で、やはりしめじめぐすぐすと泣いていたのだった。あれもやはり、二十世紀最後の年のことだった。
 それからしばらく、サントラ盤を毎晩聴いて就寝していた。ヨーヨー・マのチェロの響きが、私を果て知れぬ余韻の岸辺へ誘うのだった。
 そして、映画の中のチャン・ツイイーが演じた主人公がそうであったように、私も自分の身の落とし所に迷いかねて、砂漠をトホンと眺めていた。明日は白い霧の中にあった。

 土曜日の丸善の喫茶室はすいていた。私は一間三尺四方に人のいないソファに身をもたせかけて、気持ちよくビールを飲み干した。
 …さあ、早く帰って、私も三味線を弾かなくては。

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蟇股(かえるまた)

2010年11月14日 14時40分00秒 | 凝り性の筋
 四十前後ぐらいだったろうか、あれほど好きだった歌舞伎がなんだか私の血をたぎらせてくれなくなった。
 好きだった役者もあちらの世界へ旅立ったり、舞台世界の様子が少しずつ変わって来たり、泣くべきところで笑う観客が増えて来たりして…安直にたとえれば、贔屓の花魁が遣り手婆になっちゃって、なんか、足が遠のく…とでもいうのでしょうかねぇ。
 いつまでも惚れたはれた、切った張ったでもなかろう、という気持ちになってきたのだ。
 つまり、歌舞伎にシンクロできなくなってきた。
 逆に、能の主人公の、あのころはよかった…的な心境が、とても身にしみて共感できるようになってしまったのだ。

 長唄は能によく似ている…というか、題材を能から頂いているものが多い。
 二十~三十代のころは、能を観ながら、何か別のことをぼんやりと考えているのが好きだった。なにしろ、歌舞伎に行くと、五感が歓び過ぎて、アドレナリンが発散されすぎて…まぁ、要するに若者がロックフェスに行くように興奮してしまうのだが、能楽堂へ行くと癒される。
 歌舞伎座で聞くお囃子はもうとにかく心が浮き立ってワクワクして仕方ないのだが、能の調べは厳かな感じがして、芸能世界のリビドー的情動や俗世間にまみれた世俗の垢とは隔世の隔たりがあって、声明のような謡と四拍子のシャワーに、私は身も心も清められたような気になりながら、能楽堂のすみでぼんやりしていた。

 ところがである、四十を過ぎてそんな具合に、歌舞伎から♪バイバイ、love…というような塩梅で自分の棲みなれた世界に別れを告げる「オール・ザット・ジャズ」のロイ・シャイダーのように…つい数年前には「ジョーズ」でサメと格闘してやたらと凄かったのに…この感覚って、能の修羅ものに似てるなぁ、と今改めて思いましたが……揚幕を開けたら、私の目の前には花道ではなく、橋掛りが開けていたのだった。

 でもね、これは、枯れたとか年取ったとか老境に達したとか、そんなことじゃあ、無いンです。
 昔、市川雷蔵の「新・鞍馬天狗」を観たとき、雷蔵の倉田典膳が、「鞍馬天狗」を低く謡いながら、鞍馬山の山中に消えていった…ぅぅぅ…あまりのカッコよさに私はうめいた。
 これだ!これを私も絶対やってやるのだ!と、三十ちょっと前だった私は、強く心に誓った。

 その願いがかなったのは、その映画を観てから十数年近く経っていた。
 長唄には謡がかりという技法があり、そのためにも謡をよく知っていなくてはならない。
 心にかなう先生を見つけるまで、私はほうぼうの能楽堂へ出掛けた。ご流儀の好き嫌いなく。好き嫌いはまず、自分の目で確かめなくては。

 この、ご流儀というもの、古典芸能に携わると、必ずどのジャンルにもある。それはどんなものかよく聞かれることが多いが、要するに、演出の違いとでも申しましょうか。
 分かり易く現代劇に当てはめてみますれば、脚本を変えずに「ハムレット」を、俳優座や文学座がやるのと、唐十郎がやるのと、つかこうへい事務所でやるのと、劇団四季でやるのと、野田版やクドカンでやるのとの、それぞれの違いみたいなものですね。
 私が心を入れ替えて、ウロウロしていた21世紀初頭の能の観客は、九割方が、自分も謡か仕舞を習っている、その筋に心得のある方々だった。だから、客席でぼんやり観ていると、詞章のある部分までくると、一斉に謡本のページをめくる音がする。…教会で賛美歌うたってるみたいやなぁ…と私は思った。
 お稽古をしている方々は、どうしても勉強という観点から舞台を見るので、自分の習っているご流儀以外の舞台を観ない。
 でも私は部外者の自由な観客だったから、流儀によってどう演り方を替えるのか、そんなところも面白く、ウキウキとしていた。

 無論、退屈で死にそうになるほど耐えられない舞台を観たこともある。
 洗濯一つするにも、川でドンブラコと、桃が流れてくるのを長閑に眺めていたのと、全自動でパパッとやっつけちゃうのと、どうしたって室町時代と現代とでは、時間の流れに対する感覚が違うから仕方ない。

 とにかく、自分がこの人だ!と見込んだ好きな謡の先生に教わりたい、と思って、自分なりのメガネでほうぼうの能を観に行き、一生懸命探していたとき、とあるご流儀のご宗家の仕舞を観た。そのとき、意外なことに、私が今まで観てきたイメージの能楽とは違っていて華麗に舞台でパシッと飛んだ。そんな風に飛んだりするんだ、とビックリして、なんかそれが忘れられなくて…と、そのころ偶然にも面識を得た、とある大学の能楽研究をしていらっしゃる教授にご相談申し上げたら、
 「それは、惚れちゃったンだわねぇ」と、その先生はおっしゃった。
 ……え、そ、そーなんですかっ!?
 
 そんなこんなで、かつて、能舞台の上のほうの、蟇股をぼんやりと眺めていた私が、今は、シテのマーベラスな演技に胸ときめかせ、血をたぎらせているのだった。枯れちゃったよね…と思っていた能舞台のほうが、私をワクワクさせる要素が潜んでいるのだった。
 
 人間、歳月を経ると、今まで何気なく観てきたものに、突然シンクロできることがある。
 謡曲の「山姥」の終章。
…山また山に、山めぐりして、行方も知らずなりにけり。
 そんな老婆に、私も成りたい。
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武部本一郎

2010年11月13日 03時00分06秒 | 美しきもの
 小学四年生の時、私の理想の男性はシャーロック・ホームズだった。
 偕成社版のジュニア向けシリーズは私の宝物で、そのころ新発売された、スティックタイプの固型糊で、カバーの見返しを表紙に貼りつけたりした。その糊は、鱈のすり身のような匂いがした。

 挿絵は、何人かの画家が持ち回りで描いていたが、私の最も好きだったのは、武部本一郎のものだった。ホームズ自身の顔はイメージではなく、他の画家が描いたものがこれだ!と思っていた(そのころはジェレミー・ブレットのテレビシリーズはまだなかった)が、ヒロインの顔立ちが可憐で品があって、イイ!のである。
 頬の膨らみから顎にかけたラインが、ことに絶品で、とても好きだった。「ぶな館の怪」の猛犬に襲われるヒロインの姿など、もう四十年近く前に見たきりなのに、はっきり思い出せる。

 武部本一郎というと、SFの火星シリーズなどを第一に挙げる方も多いだろう。
 そう、武部本一郎の描く女人は、私にとって理想のヒロインだった。ほどがよく、可憐で美しいのだ。西洋人でも大和撫子的に薫り立つ。
 ウェルズの『タイム・マシン』の挿絵も忘れ難い。
 版元は忘れてしまったが、ジイドの『田園交響楽』も、確かそうだった。原節子主演の翻案物の映画も印象的だけれども。

 子供向けの本は、長ずるに及び、親戚の子に上げてしまったので、もう手元にない。学生時代に古本屋廻りをしていたとき、思いがけず、懐かしい武部の手がけた絵本にめぐり会い、何冊か手に入れた。しかし、これらも、二十代前半の愉しい生活とは訣別して家を出てしまったので、今はもう手元にない。

 私が学生の時、武部本一郎は亡くなった。創元推理文庫を出していた創元社から、武部本一郎の追悼特製限定本が出ることになった。いや、亡くなってほどなくのことだったから、早川書房だったかもしれない。たしか、二百部限定で一万円だった。
 当時学生だった私は、ちょっと迷って二日考えて、でもやっぱりほしいので、版元に予約の電話をかけてみた。すると電話口の方は、申し訳なさそうに、すでに申し込み人数が多く、刷り部数に達してしまったので締め切ったという。

 なんだかものすごくがっかりして、よく一緒に古本屋廻りをしていた友人にその話をした。
 「(自分が)死んだわけでもないのにね、死んだみたいにがっかりした」と、言ったら、友人は「それは、やっぱり、死んだんだよ。魂が死んだのだ」と言った。
 私はちょっと、その言葉にクラッときた。
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国境

2010年11月07日 19時09分00秒 | 歌舞伎三昧
 川端康成の『雪国』の冒頭に、「国境の長いトンネルを抜けると…」という記述がある。
 この国境はみな「こっきょう」と読むが、作者本人は「くにざかい」というつもりで書いたのだと、昔、誰かに聞いた。
 最近散見する、文章の読み仮名が滅茶苦茶だ。邦(くに)の言葉、訓読みで読むべきところを、音読みでルビが振ってあるので変なのだ。
 歌舞伎の大向うでも、間違った声のかけ方に、客席でヤキモキしていたことがある。
 「九代目」は「くだいめ」、「四代目」は「よだいめ」。「きゅうだいめ」とか「よんだいめ」なんて、言わんといて。車じゃないんだから。

 この感覚は、日常、日本語で読み書きしていた者には自然に身につくものだったが、平成時代になってから、気がつかないうちに、日本文化は日常に身につかないものとなっていたのだった。

 このところ、世の中が騒がしくて、本当に気が気じゃない。
 お隣との境界は、個人宅でさえ遠慮して、曖昧にしている。あまりに明確に主張し合うと、ぜったい争いになる。昔は生け垣だったりして、子供は植え込みの根方の隙間をくぐって、往ったり来たりできたから呑気だったねぇ。いい時代でしたョ。
 お互いさま、という言葉が日常にあって、隣同士のことだから…とご近所づきあいは持ちつ持たれつ、互いに遠慮したり気を遣ったりして、ある程度許せるようなことには目くじらを立てなかった。みな、お互いの我慢の限度というものを察知していたからだ。

 以前読んだ本にあったことで詳細は忘れてしまったが、元禄時代、とある人が朝鮮半島との国境付近にある無人島を開墾したいということで、幕府に嘆願書を出した。
 時の五代将軍・綱吉政権では、「あの島は隣国に近いので、相手の国のことも考えて、触らないようにしたほうがよい」という意味合いの理由から、却下したそうである。

 なんて奥ゆかしい、と、そのとき私は膝を打った。21世紀の日本の国がこのようになるとは思わなかったから、そういう曖昧な状態が容認される世の中に、喝采を送ったのだ。

 こんな感覚、古い日本人にしか分からない。
 最早、そういう奥ゆかしい隣人幻想は通用しなくなってしまったのだ。
 自分の主張をすることしかしない、ある意味、西洋的感覚に覆われた地球で、日本も何とか生きていかなくてはならない。
 …いったい、どうしたもんでしょうねぇ。

 江戸から明治にかけて七五調の名調子のセリフで大人気、現代にもファンが多い、歌舞伎脚本家の河竹黙阿弥は、「なんだか、世の中が戦争をしそうな感じになっちゃってきたし、もうこんな世の中イヤだから、俺はもう死んでしまおう」と言って、亡くなったそうである。
 その翌年、日清戦争がはじまった。

 このエピソードを聞いた時、私はもう、胸がいっぱいになってしまって、ぼろぼろ涙を流した。
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岐阜と、名づける

2010年11月05日 12時52分00秒 | ネコに又旅・歴史紀行
 「岐阜と、名付ける」
 久しぶりに岐阜へ来て、もうこのセリフを20回ぐらい言ってしまった。
 稲葉山城の天守閣からはるか下天をながむれば、どうしたってノブナガくんの心境にシンクロせざるを得ない。

 初めて岐阜を訪れたのは、まだ芸名が杵屋衛蝶のときで、名和昆虫博物館で岐阜蝶のテレカを喜び勇んでゲットしたのだった。
 このテレカは、そのころ、現・松緑が二代目の辰之助を襲名した折の、蝶の小袖姿の「寿曽我対面」の五郎テレカや、自分の千社札とかといっしょに手帳の内ポケットに入れて、いつも持ち歩いていた。友人が揚羽蝶の紋の入った暖簾をプレゼントしてくれたり、名前にキャラが入ってる役得、とでも申しましょうか、実に有難いことで、日々愉しかった。
 前名と別れるときは、さみしかったものである。

 ギフチョウは、アゲハチョウの斑紋を、虎斑にアレンジしたような美しい翅の文様を持つ。すごいシャレ者、伊達な蝶なのだ。自分がトラ年のせいもあって、そこはかとない、夢見るような儚げな白い蝶が好きな私でも、ギフチョウには密かにシンパシィを感じている。
 人間、自分と似た要素を持つものには、無条件でシンパシィを感じてしまうものである。

 織田信長は平氏の子孫ということになっているから、五つ割木瓜のほかに、平家の紋である揚羽蝶の柄なども好んで着用していたらしい。いったん死んだように蛹になって、再び華麗な姿に生まれ変わる蝶は、命を張って生きている業態の者にとっても、憧れの存在ではあったろう。それになにより、美しい。
 そして、美しいのに、自分の存在に疑問を持つかのように、ふらふらしている。
 きれいなのに心細げで、可愛い。…どうしたって、応援したくなる要素を翅に標榜して、中空を彷徨っているもの、それが蝶なのだ。

 武家が好む柄にトンボ柄がある。日本の国を表す秋津虫とも、勝ち虫とも呼ばれていたから、当然のキャラ遣いである。
 旗本の末裔である友人は、好んでトンボ柄のものを持っている。彼は源氏であるから、私が蝶キャラグッズを持っていると、え゛~~それ平家じゃん、と嫌そうな顔をした。
 その嫌そうな顔が見たくて、私は人様から頂いたハナエモリのハンカチやらアナスイのお財布やらを、ことさらに明示した。

 岐阜に行ったら、必ず吉照庵に寄る。荻窪の本村庵によく似た、細身のお蕎麦がものすごくオイシイ、蕎麦の名店である。
 以前は旧家のゆったりとした店構えだったが、場所が変わって、たいへんモダンできれいなお店に生まれ変わっていた。味は変わらず美味しかった。

 さてこれから、永禄十一年(1568)九月、足利義昭を奉じて京に上った信長くんにシンクロして西を目指すのである。
 しかし、美濃平尾に着く前に、私の目の前に犀川が。
 …墨俣城址にはやっぱり寄らねばなるまい。美濃攻略のための足がかりが藤吉郎一夜城の墨俣城だから、ちょっと手順が逆になるけれども。

 川風に吹かれながら、長良川沿いを南下する。…と、ビックリ!!
 墨俣城址とおぼしきあたりに、金の鯱鉾を戴いた四層の天守閣があるではないか!
 あまりのことに思わず爆笑しながら、まろびつつ、平成の墨俣城に駆け寄った。
 なんて楽しい。さすが、サービス精神旺盛な豊臣秀吉の精神を体現している。
 それにしても、いつの間にこんなことになっていたのだろう。秀吉が一代の出世のきっかけとなった墨俣城は、城とはいえ川の中洲に拵えたものだから、掘立小屋の砦のようなもので、平屋だ。
 まっこと、城めぐりはメルヘンですねぇ。
 域内の豊国神社のわきに「名誉城主 竹下登」と碑がある。ふぅむ、なるほどねぇ…。

 そしてまた、愉快なことに、昭和53年に刊行された私の手許の資料・別冊歴史読本によると、永禄九年九月廿四日、つまり、444年前のちょうど昨日、本来の墨俣城が築城されたのだ。(本稿この部分は2010年11月1日月曜日、つまり太陰太陽暦の平成廿二年長月廿五日の紀行によります。ちょっとくだくだしいですが…)
 何たる奇遇。
 なんだか妙に面白い心持ちになって、私は休館日で入れないその城の周囲をぐるりと回った。ちょうど、犀川が長良川に流れ込む洲股にあるのだった。整備された堰堤がものすごい勢いの水流を呑み込んでいる。パワーシャベルも掘削機もなかったあの時代に、こんなところに築城しちゃうなんて、大したもんだ。
 南面の神籤結び所に奉納された無数のひょうたんが、朱房の紐で括りつけられて、気持ちよさそうに、ゆらゆらゆらんと、風に揺れていた。
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