長唄三味線/杵屋徳桜の「お稽古のツボ」

三味線の音色にのせて、
主に東経140度北緯36度付近での
来たりし空、去り行く風…etc.を紡ぎます。

馬揃え

2010年05月31日 01時00分00秒 | フリーク隠居
 馬が走っている姿は美しい。小学生のころは、愛読していた探偵小説『シャーロック・ホームズ』や、児童文学『メアリー・ポピンズ』の影響で、イギリスの文化に憧れていたから、貴族が馬主で、白いドレスを纏ったご婦人がやはり白いパラソルをさして、遠眼鏡でレースに見入る様子や、アスコット競馬場とかいう言葉だけは知っていた。
 「マイ・フェア・レディ」や「メアリー・ポピンズ」の映画中に観る競馬場文化ってなんだか優雅ですなぁ。でも、競馬場にほとんど人がいない。…そういえば、これ以上はないであろう理想のホームズ君であったジェレミー・ブレットが「マイ・フェア・レディ」に出ていたのを知ったときは驚いた。それで、ジェレミー・ブレットの訃報を聞いて間もなく、観返してみたのだった。彼の歌う「君住む街かど」のなんと、ジーンとくることか。今思い出しても胸が熱くなる。

 高校生のころ、NHKのラジオ・ドラマで、ディック・フランシスの『度胸』という競馬界を舞台にしたミステリーを、今は亡き広川太一郎が朗読していた。ものすごく面白かった。早川ミステリ文庫に収録されていたので、さっそくそのシリーズを何冊か読んだものだった。ディック・フランシス本人も騎手だったそうである。彼は今年のバレンタインデーに亡くなった。ご冥福をお祈りいたします。

 馬券を買ったことが一度もない私が、何でこんなことを書いているのかというと、今日は東京優駿、ダービーを観てしまったからだ。そして、ダービーは三歳馬しか出走できない、ということをアナウンサーが話していて、おや…???と思った。
 いかな馬券を買ったことがない私でも、昭和45年に大ヒットした「走れコータロー」はそらで歌える。たしか、あの歌詞の中では、「天下のサラブレッド、四歳馬」と言ってなかったかしら。…私の記憶違いかと思い、小声で唄ってみたが、どうも三歳馬だと語呂が悪い…そして、変だ。
 どうにも納得がゆかず、さっそくインターネットで調べてみた。
 …そこで、びっくり!
 2000年まで、日本のお馬さんは、数え年で年齢を数えていたらしい。それだとどうも世界基準と違って紛らわしいので、21世紀から現行の数え方に変わったそうなのだ。

 戦前までは日本の人間も数え年だったので、生まれた時点ですでに一歳ということになっていた。祖母や両親あたりまで、数え年で自分の年齢を数えていたような記憶がある。そういえば、小さいころ、年を訊かれるのに、やたらと「満でいくつ」とか答えさせられるのを不思議に思っていたのだった。
 早生まれの私なんて、誕生日が来る前にお正月が来るから、零歳のときの最初のお正月で、昔だったら、すでに二歳になっていた勘定になる。コワイワ…。
 そんなわけでもないだろうが、生きていくこと自体が緊張感の連続だった時代には、子どもは早く大人に成らざるを得なかった、のかもしれない…。
 
 信長くんの好きだった幸若舞「敦盛」♪人間五十年…。信長は数えで享年四十九だったけれど、ホントは早生まれだったりしないだろうか…。
 
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日本三大仇討①

2010年05月28日 23時58分00秒 | お稽古
 五月二十八日ごろに降る雨を「虎が雨」という…といっても旧暦の五月廿八日なので、本来の季節は梅雨の最中。もっと空が悲しい感じに曇っていて、どんよりした雲が低く垂れこめている。
 虎が雨の「虎」は、タイガーマスクでも、柴又の寅さんでも、金語楼のおトラさんでもなく、大磯の虎御前という遊女のことである。平たくいえば「虎の雨」。六甲おろしの風に吹かれて甲子園球場で雨が降りコールドゲーム。トラキチ、ボー然の虎が雨…というわけではない。
 自分の間夫が討ち死にしてしまったので、悲しくて泣いている。それで空から雨が降ってくるのである。

 …って、ドロップスの歌みたいなメルヘンになってますが、ちゃうちゃう。
 旧暦の5月28日は曽我兄弟が富士の裾野の巻狩りで、苦節十八年、父の敵である工藤祐経(すけつね)を討ち取った日なのだ。工藤祐経は源頼朝にも仕えた、鎌倉幕府の武将である。この仇討は、日本三大仇討の一つで、江戸歌舞伎では重要な意味を持つ人気演目となっている。
 …というのは、一富士、ニ鷹、三茄子…縁起のいい初夢じゃなくて、三大仇討の覚え方なのだが、三大仇討の二は忠臣蔵(赤穂の浅野家の家紋が違い鷹の羽)、三つ目は荒木又右衛門、伊賀上野は鍵屋の辻の仇討。ということで、ほかの二つは上方のものだが、唯一、将軍家お膝元の関東のものである曽我兄弟の仇討は、江戸で好まれたのである。お正月の初春狂言には、必ず、曽我兄弟の仇討のバリエーションの演目(これを曽我物という)を興行するのが習わしだった。

 何よりも、単純でわかりやすいキャラクター類型と筋立てが、明快で関東らしい。
 曽我兄弟は、兄を十郎祐成(すけなり)、弟を五郎時致(ときむね)。兄が和事の二枚目で、弟が荒事の若武者。兄は鳥の、弟は蝶の柄の、ともに浅黄色の小袖を着ているのがトレードマークである。能の「小袖曽我」は、兄弟がいよいよ仇討に出かけるので母に暇乞いをしに行き、小袖を拝領するという、勇ましい謡が印象的な演目である。
 弟の五郎のほうが江戸歌舞伎のメインである荒事の演目で主役になるから、この兄弟は「曽我の五郎十郎」と、弟が先にくる。

 五郎の恋人が化粧坂(けわいざか)の少将。十郎の恋人が最前の大磯の虎で、武運つたないお兄さんは、仇を果たしたものの、同日討ち取られてしまう。
 虎が雨は、晴らした仇のうれし涙か…いや、やっぱり戦死した恋人を悼む涙でしょうなあ…。梅雨の末期には、とめどもなく雨が降る。

 長唄に「五郎(時致)」、踊りでは「雨の五郎」というタイトルで上演される曲がある。こちらは、雨が蕭々と降るなかを、傘をさした五郎が、廓の化粧坂の少将のところへ通うという、他愛ない内容ながらも、歌詞と曲調に色気があって艶やか、そして爽やかな名曲である。

 そんなわけで、旧暦五月廿八日、曽我兄弟が敵討ちをした日に降る雨を、虎が雨というのである。

 今でも、国道一号線、東海道の大磯駅入り口付近にある和菓子屋さんで、たしか、虎が餅とかいうお饅頭を売っているはずである。お店の名前は……スミマセン、失念しました。
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条件反射的メロディ

2010年05月23日 23時20分03秒 | 凝り性の筋
 昭和の終わりの深くなりつつある秋の日に、友人が若くしてこの世を去り、その訃報を聞いた日に、私は一日中、メンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲を聴いていた。
 その友人は下町生まれで、学校では近世文学を専攻していた。とくに『醒酔笑』など、江戸のお笑いについて研究していて、電車の中で謎かけをしたりしていた。当世流行の「なぞかけ」であるが、そのころは、何年かごとにやってくるお笑いブームの狭間のような時期で、世間にははばかられる、ちょっとシブイ遊びだった。
 友人は地下鉄銀座線をこよなく愛していたが、その当時の車両が、次の駅に着く直前、電流のスイッチの切り替えか何かで、車両のランプが一瞬全部消えることをたいそう嫌がっていた。今、銀座線には、そんなタイプの車両はもう走っていない。
 そんなわけで、メンデルスゾーンのヴァイオリン・コンチェルトを聴くたびに、私は街路樹の木の葉が風に渦巻いて飛んでいく、秋のあの日が思い浮かぶ。そして、ねづっちが「整いました!」と言うたびに、あの車中での謎かけ遊びと、瞬間的に点滅する電光に、シルエットになった友人の横顔を想い出す。

 降る雨に打たれたように、心も体もしんなりと疲れた夜。家路を辿るときに聴きたいのがマーラーの交響曲第5番である。
 あのメロディを、いかに明るく健康的な初夏の陽光の下で聴こうとも、目の前には、すぐさま、ベルベットのカーテンやソファ、レースの襟飾り、紫煙、琥珀色のブランデーグラスと氷が触れる音のする、薄暗い室内が広がる。
 ヴィスコンティ「ヴェニスに死す」のせいばかりとはいえない。私の瞼の裏には、トーマス・マン『魔の山』が映画化されたときのBGMもこの音楽だったような気がするし、三島由紀夫『豊饒の海』も、夢野久作も江戸川乱歩も、あの、たゆとうようなメロディのうねりに、のみ込まれていく。
 20世紀前半、世界中を暗雲で覆った二つの大戦の狭間の、明日なき者たちの、あだ花のような空虚な繁栄と絶望感。ドイツ第三帝国やら、栄耀栄華を極めたものたちが終焉する前夜の、貴族の館を彩るのが、マーラーの交響曲5番なのだ。
 退廃的な、すべてを諦めたような、いいんだ、このまま崩れていこう…というような没落志向の、脱力状態、気力のなさを許してくれる、ありがたい曲だ。
 誰しもヘタレ込むとき、激励の言葉を聞きたくないほど疲れきって、心神耗弱の瀬戸際にあるとき、そのまま崩壊していくことを容認してくれる、マーラーの第5番が必要なのである。
 堕落と退廃をうっとりと官能的に肯定してくれる。…この管弦の甘やかなメロディの谷間に落ち込んで、崩折れて朽ち果てることをにっこりと、受け入れてくれる。いいじゃないの…とことん墜ち込んでそのまましばらくしていると、何となく、生まれ変わったようになって、明日に立ち向かっていこうという、勇気が湧いてくるから不思議だ。

 先日、父君を亡くした友人の激励会で、堺正章「街の灯り」を歌った友人が、ぽつりと、やっぱりこの曲がダメだ、いちばん泣ける…と呟いた。
 一番泣ける曲…。条件反射なのに、無条件でいちばん泣ける曲。
 それは私にとっては「埴生の宿」である。もう、イントロの、三音目ぐらいで泣いている。あのメロディが流れてくると、「みずしまぁ…、いっしょに日本へ帰ろう…!」という内藤武敏だったか、三國連太郎だったかの兵隊さんたちのセリフがかぶさってきて、もはや私の平常心は修復不可能。これはすべて、『ビルマの竪琴』、そして故・市川崑監督のせいである。リメイクされるたび、CMが流れるたびに、それだけでもう、涙腺が決壊していた。
 芸のためでも何でもなく、私を泣かすには玉ねぎもいらず、埴生の宿が三音あればよいのであった。
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六段

2010年05月18日 00時15分12秒 | お稽古
 「六段」といっても、将棋の棋士先生のお話ではない。「六段の調べ」。筝曲である。
 作曲したのは八橋検校。この八橋検校が72歳で亡くなった1685年の同じ年、ヨーロッパではバッハとヘンデルが誕生している。作曲家として誕生したのではなくて、赤子としてこの世に生を享けた年である。…えへん。日本の音楽って、すごいんどすぇ。
 この六段の調べは、たぶん、そうとは知らず、知らず知らずのうちに現代の日本人が耳にして、記憶している邦楽のひとつだと思う。何とも言えず美しい旋律で、そこはかとない切なさを含んでいる。
 このメロディは長唄にもよく取り入れられていて、「羽根の禿」とか、「五郎」の上調子や、「助六」でも演奏される。そうそう、記憶も新しい先月、最後に聴いた歌舞伎座の舞台の音楽は、六段だった。そのころ、偶然にも私は、地元の演奏会の「蜘蛛拍子舞」のトメのお役目を頂いて、精魂こめて六段をさらっていた。忘れ得ぬ六段ばやりの平成22年の4月だった。
 長唄における六段は、単独で演奏しないで、主旋律にそえて演奏されることが多い。
 主旋律と副旋律、本手と替え手というような関係ではない。
 不思議なことに、主旋律とは全然違うメロディなのに、一緒に演奏して、なおかつ、すばらしい演奏効果を上げるのだ。たぶん、この使われ方は、西洋音楽理論で武装した方には理解できないかもしれない。
 全然違うものを合わせて、絶妙に合わせちゃうという…日本人の発想、というか、感性って、すごい。
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衣更(ころもがえ)

2010年05月14日 01時22分02秒 | 稽古の横道
 今日は、今年の旧暦の暦では四月一日。衣更えの日である。
 「旧暦では四月一日が衣更えだったんですよ」と説明すると、みんな「へー、そうだったんですか」と、なんとなくわかったようなわからないような…つまりそう言われてもどうも実感できなくて、やっぱりわからないなぁ…というような顔をする。
 しかし、ここ数日来のこの初夏のような日差しを体感していると、実に理にかなった、日本の気候に合っているのが旧暦なんだなぁ、と実感できる。

 「四月一日」と書いて、「わたぬき」さんという名字の方がいらっしゃるそうだ。
 表と裏、二枚の生地を合わせてつくる着物が「袷(あわせ)」。それをほどいて、初夏と初秋用に、一枚の生地で仕立てる着物が「単衣(ひとえ)」。盛夏には、生地の種類が違う単衣仕立ての「薄物(うすもの)」を着る。

 旧暦では、ひと月が29日か30日。小の月が29日間で、大の月が30日間である。大の月と小の月が必ず交互に来るとは限らない。3か月ほど小の月が続く年もあるし、いろいろなのだ。
 だから昔は、今月は小の月ですよ、大の月ですよ、とわかるように、商家の軒先に円い看板のようなものをぶら下げて皆に教えていたらしい。なんでそうまでして皆に周知させる必要があったのかは、かように暦が自由な法則性ともいえない法則を持ち、月末に支払いをする社会においては当然のことだったろう。
 これは、そういう暦の成り立ちがわからなければ理解できない話で、習俗が全く異なってしまった別の時代、別の場所で、いくら説明しても納得してもらえないのはしかたないことだろう。実感できて、初めて、知識となるのだから。

 旧暦では1年が360日ほどだから、どうしてもだんだんズレてくる。それを解消するのが閏月である。これは、私には詳しい計算式は分からないが、その道のプロが計算して、お裁縫でいえば、いせこみのような技術を駆使して、毎年毎年つつがなく一年を迎える暦を製作していたのだ。

 暦を制するものは、国を制す。暦をつくるということは、国家の運営を掌握しているということだから、昔は、朝廷が暦をつくっていた。
 織田信長が、暦をつくる権利を俺によこせ、と、朝廷に要求したのは有名な話だが、太陰暦の暦の重要性が分かってこそ、ふうむ、と納得できる話なのだ。
 さすがノブナガくん、眼のつけどころが違うなぁ…。
 

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青虫の旅路

2010年05月11日 01時30分00秒 | 美しきもの
 朝、レタスをむいていたら、葉っぱの奥に、芋虫がいた。小さくて、翡翠のように半透明のきれいな緑色をしている。2センチ足らずの可愛らしい虫だ。感動した。このレタスは、厳選された産地からお取り寄せした特別な無農薬野菜でも何でもなく、駅前の大手スーパーの野菜売り場から、無造作に買ってきたものだったからだ。20世紀の終わりごろ、十年も以前の話だ。
 「生きているのかしら…」じっとしている。ヒンヤリ程よく冷蔵されて運ばれてきたので、凍えているのだろう。常温の流し台の上に放っておいて、しばらくして見てみたら、葉っぱの別な場所に移動していたのでうれしくなった。
 そこで、久しぶりに生き物を育ててみるか、という気になって、しばらくの間、その青虫の日々の動向を観ているのが、やたらと愉しみになっていた。なにしろ、日々レタスを与えていればよいのだから、この上もなく簡単だ。

 子どものころ私は、むやみと図鑑を観るのが好きだったが、特に『幼虫の図鑑』というポケットサイズの図鑑が好きだった。一般の昆虫図鑑は、成虫の姿を載せているのが普通だが、その図鑑は、産み付けられた卵と、羽化する前の幼虫の絵をメインに載せていた。
 そうそう、私のこの昆虫観察志向は、小学2年生のころのタツノコプロ制作のテレビ番組「みなしごハッチ」によるものだ、たぶん。私はハッチの似顔絵を描くのが得意で、クラスの友人からお絵かき帳一冊にハッチの似顔絵を描いてくれ、というリクエストまで頂いた。この放送期間中、うちのテレビは白黒からカラーに変わったのだった。

 青虫の成長は目覚ましいものではなかったが、日々着実に、少しずつ成長していった。何回かの脱皮のあと4センチ程度にまで育って、ついにある日、白い糸で薄い繭をつくり、蛹になった。
 人間としてはかなりの成虫になっていた私は、大人らしくずぼらになっていたので、その青虫のひととなりを、あえて昆虫図鑑で調べてみることはしなかったが、私のかつての経験からの勘でいえば、彼女は蝶ではなく、蛾ではないかと推測された。

 蛹になってから数日、その勘からしてそろそろ羽化するのでは、と予測される日、私は仕事で名古屋に行かなくてはならなくなった。そこで、小さい紙箱にそっと蛹を入れて、新幹線に乗り込んだ。
 仕事に連れていくわけにもいかなかったが、箱の中で羽化して翅が曲がってしまったら一大事。ホテルの部屋のサイドテーブルに蛹を置いて、私は仕事に出かけた。用件もそこそこに、いそいで帰って蛹を見ると、もぬけの殻になっていた。
 …ああ、羽化に立ち会えなかった、という落胆と、あぁ、無事に羽化したのだという喜びがまぜこぜになって、私は室内を見渡した。
 天井に、黒いスレンダーな翅の、彼女がとまっていた。

 夕方、名古屋城大通りの街路樹に、私は彼女を放した。こりゃ、子どものころ読んだ、虫愛ずる姫君…じゃなくてオバ…じゃなくて、アネサンだね、とすがすがしい心持ちになった。…が、ひょっとすると私は生態系を壊していたのかもしれなかった。
 そのころ、日本列島西半分でしか生息していなかったクマゼミの分布が、徐々に東日本を脅かしている、というニュースを聞いていたからだ。…しかし、そのときの私にはこれが最善の策だった。

 上州か信州だかの高原で生まれた青虫くんが、はるばる都下23区はずれの西域までやってきて、今度は列車に揺られ、尾張のお城の御成り街道前で、飛び立つ。
 元気で暮らせよ~と旅がらす的な感慨に満たされた私は、彼女の、はるばる来ぬる旅をしぞ、思った。

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うなる風(続・近江八景)

2010年05月04日 22時33分11秒 | お稽古
 よく知っているはずのものを、改めてしみじみよくよく見てみると、急に今まで思いもしなかったことに気づく。
 いつもは稽古場で話して説明していたことを、こうして文章に変えて説明してみたら、おや?と、立ち止まって、顎に指を当てて考え直すことが出てきた。
 近江八景のなかで、今まで仲間はずれの音の風景について説明してきたが、ここへ来て、コウモリ的立場の両面性を持つ景色があることに気がついたのだ。

 ひとつは「粟津の晴嵐」。天気のよい日に、ものすごい風圧で吹きまくる山おろし。
 これは、よく考えてみたら、風に鳴る松林の音の、松籟の風景でもあるまいか。
 海岸沿いには千本松原とかいうような、防風林がよくあるものだ。時代劇では街道をゆく旅人さんが、振り分け荷物を肩にかけた縞の回し姿で、松の根方を往き来する。焼津の半次がアイドルだった小学生の私は、通学路を街道に見立て、登下校時、旅人さんごっこをしていた。その心持ちで往来すれば、見馴れた商店街や道端の雑草すべてが、旅情だった。

 先年、松本清張『ゼロの焦点』のヤセの断崖に行きたくて、羽咋から東尋坊を経て海岸線を北上したとき、琳派の松そのままのような松の枝ぶりの景色に感激した。
 茶の湯の風炉、釜で湯を沸かすとき、ゴウゴウと釜の鳴る音が、松の風に鳴る音に似ていて、松籟という銘のある名物もある。…風流でんな。

 それに私、風が天駆って唸っている、風鳴りの音がものすごく好きなのだ。とくに夜中に、あのびょうびょうという音を聞いていると、瞑い、雄渾たる雲がわく天空を、龍がとぐろを巻いて泳いでいるような気がする。昔の人の想像力は、実に率直である。
 そういえば、犬吠埼に行ったとき、岬の先に立つと、太平洋から巻いてくるものすごい強風にさらされて、びょうびょうとすごい風音がして、本当に、これは犬が吠えているかのような状況を映した地名なのだと、感動した。日本古来の犬の鳴き声の擬音は「わんわん」ではなく「びょうびょう」なのだ。

 垣根を吹き抜ける風のびゅうびゅう鳴る音に、虎落笛(もがりぶえ)という命名をするくらいだから、日本人って、風に吹かれてるのが好きな民族なんじゃないかしら。
 もし同好の士がいらしたら、これはまた場所が違うが、ぜひ、伊良湖岬のビューホテルに泊まることをお勧めする。夜もすがら、海原を渡り、砂浜と断崖、木々を鳴らす風が、実にしみじみとした風音を奏でるからだ。私が行った平成5年前後のころは、さらに宿の窓から沖合の漁火が見えて、晦い海と風が渡る音のハーモニーの風景の、もう、その旅情たるや…! 何に譬えん、というぐらい素晴らしかった。

 そしてその夜明りを想い出すにつれ、さらにもう一つ疑念がわいてきたのが「唐崎の夜雨」。
 しっとりして、♪ン、夜のあぁめぇ~と一節呻りたくなる夜の雨の風情。大人には遣らずの雨、というのもあるけれど、夜降る雨を、子どものころ、生まれ育った家の二階の窓から眺めるのが好きだった。今はもうないので、見ることはできないのだけれど、玄関先の門扉のわきの金木犀の、雨に濡れた木の葉に、街頭の水銀灯の光が反射して、キラキラしてきれいなのだ。まるで木の枝に星がひっかかって輝いているようで、ファンタジーの極みだった。
 …しかし、考えてみたら、街灯がない昔、こういう景色はなかったわけで、雨が降っているのだから、月明かりも星明かりもない。漁火だってない。油代が高いから、夜なべ仕事もそうそうはすまい。
 夜の雨が屋根に当たってはじける音って素敵だ。ひょっとしてこれなのか…??
 でもそれって、アメリカの50’sじゃあるまいし、トタン屋根にはじける音だよね…いやいや、待てよ、あ、そうそう、雨戸だよ、雨が板戸に当たってはじける音ってのも考えられるよね…もとい、篠突く雨だ! 琵琶湖岸の蘆の原に、ザアザア降りかかる雨の音ってのもあるョ、湖に降りそそぐ雨音もある…と、湧き出る疑問は尽きることがなく、一人問答を繰り返すのだった。

 そういえば、樹に引っ掛かったお星さまを眺める愉しみって、最近見かけないけどなんでだろう…と思い入るに、そうだった。街中が明るくなってしまったからだ。
 住宅街でも夜っぴいて、ティンクルティンクルしている電飾が、あちこちに出没するようになったからだ。…昔に帰って、夜は静かに、暗闇の風景を観たい。
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権太なひと

2010年05月03日 17時00分03秒 | キラめく言葉
 大阪では、やんちゃで道理の通用しない、どうにも手に負えない乱暴者を「ごんたな人」と呼ぶ、と、二十年ほど以前、当時、懇意にして下さった上方の噺家さんから伺ったことがあった。
 へぇ~~っと、わたしは大層感銘を受けた。CX系の人気番組が誕生するはるか以前のことなので、何へぇだか、点数をつける機転も発想もなかったが、とにかく、感動した。
 というのも、それは明らかに歌舞伎の『義経千本桜』のいがみの権太からきているものだろうからだ。この芝居は文楽がもともとのオリジナルであるから、大坂では昔から、本当に身近なキャラクターだったのだろう。
 こんたなひとになっちまっただぁ…というような東北系の訛りではなく、大阪弁だったのだ。

 「いがみの権太」は要するに、性格が歪んでしまったヤンキーな人のことである。
 芝居の役名は簡潔にして明確。すばらしく分かりやすい。
 このすし屋の権太は、最期に表返る複雑な含みを必要とする役なので、恰幅のいい脂の乗り切った座長クラスの大役者が演じるのが常だった。瞼の裏に浮かぶのは先代松緑と幸四郎の、鮓桶を抱えて、両のまみえを寄せた立派なお姿。平成ひとケタ世代には当代の幸四郎や菊五郎。松嶋屋も演った。勘九郎だったころの当代勘三郎の権太は、コチコチがよろしゅうございましょう…のセリフがウケた。
 だから昨年、当代の海老蔵が、すし屋を演ると聞いて、えっ、まだ早いんじゃー…とか思ったが、観てみると、いかにも不良で放蕩息子の味が出ていて、案外ハマっていて驚いた。…そうか、実年齢でいけば、権太はそのくらいの年齢だ。こういうのもアリなのかも。
 しかし、権太は終盤で初めて明らかになる、性根を入れ替える役だから、ナマな不良では、木に竹を接いだような突拍子のなさというか、違和感が生じてしまうのだ。
 分別のあるところを見せられる実事の役者が演じると、観客としては、実は作りたわけ者だった、という受け止め方もできて、権太の心根を見せるところでは、本当はカシコイひとだったんや~という納得ができるのだが。
 たぶんヤンキーな人は、愛憎が人一倍強く、感受性の鋭い人なので、他人との関わり合いにおいて、情よりそろばん勘定が勝る冷淡な常識人だったら見切ってしまう領域に、自らを追い込んでしまうのだろう。…というところで、思い込んだら命がけの、権太の忠義心を、どちらの論法で観客が納得するかは、こりゃもう、役者の技量による。

 ところで、五十代のころの談志は、「二階ぞめき」とか、無茶苦茶な人を演らせると天下一品の面白さだった。二十代だった私は、憧れというよりも、ひょっとすると、そういう破天荒な人に、成りたかったのかもしれない。
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