長唄三味線/杵屋徳桜の「お稽古のツボ」

三味線の音色にのせて、
主に東経140度北緯36度付近での
来たりし空、去り行く風…etc.を紡ぎます。

疑惑

2021年07月27日 22時26分07秒 | 凝り性の筋




 蝉しぐれが殊の外こころにしみる令和三年の夏、それにつけてもよくもまあ行方知れずになった我が子の旅立ちにめぐり合えたものだ…能や歌舞伎の「隅田川」(長唄で言えば『賤機帯~しずはたおび』)に申し訳ない…桜川であった有難さよ…と廻り合わせの不思議さに、今朝も物語を紡ぎだしてくれる植木たちに水を遣りながら、

 ベランダから目を移すと、疫病か熱中症か見分けもつかず、入院も出来ない人々が巷に放り出されるという、とても西暦を二千年以上数えた、この日本の現実のこととも思えない世相が展開されているのである。黒澤明の羅生門の1シーンが目に浮かぶ。

 植木鉢に小さいハエが湧くのを防ぐのは、培養土の上2センチぐらいをゴッソリ取り除くといいですよ…と花の好きなお弟子さんが教えてくれたのを、思い付きでコバエ除けを目論んで鹿沼土を薄く敷いてみたが…映画ファンタスティック・プラネットを連想してしまう旺盛な生命力を持つ細かい生き物への、無情な対処も徹底できぬまま、
 
 …ふむ、この土壌ではワラジムシは棲息できないものであろうか、酷暑の夏は死滅したかと思われたが、昨年、白露の秋を迎えてから水を差すと再び、吃驚したようにわらわらと蠢き出してきて可愛かったのに…線が細く蚊にも似た蠅は、相変わらず薄黄の土粒上空をちょこまかと飛ぶ。

 そんなふうに、しげしげと植木鉢の植生を眺めていたら、何年目かの檸檬の、幹から生えてきた下枝の葉っぱが、改めて気に懸かる。
 …あら、新しくこんなところから生えてくる葉っぱは、形が違うものなのね…と深く考えずにやり過ごしてきたが、どうもおかしい。
 本稿一枚目の写真をご覧ください。

 葉の形が違いましょう、疑惑の主は三つ葉である。同じ株の上の方の新芽と比べてみても、明らかである。




 この異形の枝は、ひょっとすると、ヤドリギなのではないか…?
 という、今まで芽生えたことのない疑念が私の胸を支配した。
 しかし、檸檬らしい棘も生えてはいる。
 さっそく調べてみたが、寄宿する植物…寄生樹の資料が少ないのである。
 折悪しくオリンピックの特別番組とかで、夏休みの子供電話相談室はお休みとのこと。
 目下のところ自助で調査中である。

 夏は夕暮れ。




 スダチを薄い輪切りにして夏蕎麦。




 檸檬の花から実が生ずるまで。




 台風が来るというので、植木たちの心配をして、ベランダの片付けをしていたら、あにはからんや…
 植木鉢をどけてみたら、思い掛けないところに、この間からの、「一体みどり丸たちはどこで蛹になっていたのだろう…???」という、もっとも知りたかった答えが出現した。



 みどりご達が埴生の宿たるレモンの鉢から一間半ほども離れた、お隣との国ざかい…境界間際のスチールの柱、床上20センチ程の静謐とした物陰に、脱け殻はあった。
薄暗い空間に、サナギを支え固定する糸が、太く白く光っていた。
天下は麻の如く乱れていたが、我がベランダでは快刀乱麻、昆虫観察の一部始終が解決、完結したのであった。

 台風一過とはいかなかった大暑のあした。


【追記 2022.01.12】
レモンの鉢の土にそこはかとなく繁殖している、蚊に似た、しかし蠅ではない感じもする小さい羽のある虫がとても気にかかっておりました。
思い立っていろいろ調べたところ、コバエという種類の蝿は学術的にはおらず、ショウジョウバエ、チョウバエ等を総称して、慣用的にそう呼ぶとのこと。
その中に、私が探していた虫の正体を発見、クロバネキノコバエ(黒羽茸蠅)という虫でした。
植木鉢の粘菌などを食す模様でありますが、生態は殆ど知られていないとのこと。
私が子供の頃の昭和40年前後まで、猩々蝿は割と身近な研究素材で、吉村公三郎監督1956年大映「夜の河」でヒロイン山本富士子に惚れられる大学教授の上原謙が研究していたのも、ショウジョウバエでした。
生物学研究をこころざす若人よ、これからはキノコバエが狙い目かも。
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二人の碧丸

2021年07月17日 23時38分02秒 | 美しきもの
 今年の旧暦六月六日は盆の7月15日。
 午前中、轟然たる雷鳴とともに滝の如き雨に見舞われた。
 コロナ禍下とてお盆の墓参も控えて、三日の間、昭和の頃の精霊棚のしつらえをあれこれ想い出していた。
 田舎の8月の旧盆では、仏壇とは別に、奥座敷の床の間へ精霊棚を設けて、家紋入りの吊り提灯のほかに、たくさんの大内行灯を飾る。さまざまな意匠を凝らした回り灯篭が美しい。古典的な具象柄の走馬灯のほかにポップな水玉柄もあって、子どもごころに気に入っていた。家族総出で二十ほどもあった行灯を組立てる。
何の手違いか、電飾で温まっても回らない灯篭がある。
 お墓の前には、二本の笹竹を支柱として竹の横木を渡したところへ、彩色を施した盆提灯を三つ下げたのを飾った。各家の墓前がとりどりの提灯をぶら下げていて、旧盆の墓地は賑やかだった。いつ頃からだったろう、そのような風景を見なくなって久しい。

 翌16日は閻魔様もお休みで、まさに地獄の釜の蓋があいたような夕焼けであった。





 盆の14日に、みどり丸(兄)が旅立つ姿を見せに来たので、弟のことが気に懸かっていた。
 長兄たる碧丸が蛹化のために姿を晦ましたのが7月3日土曜日。羽化まで11日と平均より短いような気もするが、蝶の生態に温暖化も影響しているのだろうか。
 兄の後を追うように、末弟は三日後の6日火曜日にふっつりと姿を消した。



 青虫の兄弟が去った翌日に、私を慰めるかのように青い実を抱いた檸檬が、新しい白い蕾を持っているのを見つけた。有難い。
 お盆の13日に花開き、三日目の15日には早くも子房の先が尖って、実を結ぶ予感に心がときめいた。



 何よりも、実らなかった一年を隔てて、今年のレモンは標準形…待ち焦がれていたトンガリ君に育っているのも嬉しかった。
 もう一匹の碧丸のことは、半ば諦めていた。よしんば、無事成虫になったとしても、その姿にめぐり合えるとは思えなかった。
 兄との僥倖が好運過ぎたのである。インクレディブルなお盆の出来事だったのだ。

 7月17日、常であれば京都では祇園祭の山鉾巡行で、雷ちゃん(市川雷蔵。私は田坂勝彦監督1958年作『旅は気まぐれ風まかせ』が一番好きな主演映画)のご命日でもある。
 梅雨明けの強い朝陽を感じながら、水を携えてベランダへ…

 はて、どうしたことか、檸檬の鉢の向こうの、スズラン新三兄弟の上の方に、見えたるぞや…アゲハチョウのようなものが……



 !!!
 何ということ、兄より小柄なみどり丸(弟)が、ベランダの網目に涼しい顔をして留まっているではないか…!
 あわあわと慌てふためき、私は再び携帯を手にし駆け寄った。
 母の慌てっぷりに触発されたのか、みどり丸は狼狽えたようにハタハタとせわしなく羽ばたいて、あっという間に網を潜り抜け、蒼天に消えた。

 なんという天祐。何という律義な兄弟。



 “…孤帆の遠影 碧空に尽き ただ見る 白雲の天際に流るるを”

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Time to say goodbye

2021年07月14日 11時28分10秒 | 折々の情景
 “ある日のことでございます。お釈迦様は極楽の蓮池のふちを独りでぶらぶらお歩きになっていらっしゃいました…”
 …なんて、お盆だものだから、芥川の蜘蛛の糸の書き出しを思い出し乍ら、何とも云えない好い匂いの、咲き初めたばかりの檸檬の花へお水を上げようと、ベランダに出た朝のことでございます。



 ふと、今年の春、丸い鉢に植え替えた鈴蘭の方へ目をやりますと、何かふわふわと空中に動くものがございます。



 ……!!
 なんと、鷹揚と艶やかな翅を広げた一頭のアゲハチョウが、今まさに外界へ飛び立とうとしているところなのでした。



 お前はみどり丸ではないか…!
 お隣との境界線の仕切りの辺りから、漂うように浮上してきたので、今朝方羽化したものと思われます。
 何という邂逅、なんという奇跡の廻り合わせ。

 どたばたと部屋に戻り、携帯をひっつかんで、やっと写真が二枚撮れました。
 みどり丸は優雅に網の下を潜り、昨晩の雷雨で梅雨明けも近いと思われる青空へ、揚々と翔び上って見えなくなりました。
 


 何という賢いみどり丸。私が案じていたのを察してか、挨拶に来てくれたのでしょうか。
 思えば、プレみどり丸時代の白黒のブチだった時から、寝床と食餌にする葉っぱを別にしていた賢い幼虫でした。
 緊急事態宣言下の羽をもがれた芸人は、自宅に籠って昆虫観察に余念がなかったのです。



 みどり丸が埴生の宿たる左上の枝葉と、開花2日目の別鉢の檸檬樹。
 みどり丸が去っていった青い空の向こう。



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香華

2021年07月13日 23時00分10秒 | 稽古の横道
 東京はお盆である。
 お弟子さんに、お家では旧盆でなさるの? と訊いたらキツネにつままれたような怪訝な顔をされたので((。-人-。) ゴメンネ)、はっとした。
 弟子の疑問点を説くのが師匠の務めである。
 
 もともと、お盆は七月十五日を中心とした祭り事なので、太陽暦を採用した明治五年(1872)十二月三日=明治6年(1873)1月1日以降、帝都たる東京府民は、従来通り日付を変えることなく新暦でも7月15日にお盆行事を執り行った。
 2021年現在、お盆の行事をどの程度まで日本国民が踏襲して行っているのかは知らないけれども、六十余州のほとんどが旧盆と呼ばれる新暦8月15日の盂蘭盆会をメインイベントとして、翌十六日の藪入りの習慣は廃れることなく、お盆休みという休暇の体系は続いている。
 この旧盆の習慣は、1945年8月15日の終戦をもって鎮魂を祈る日となってから、ますます精霊祭りとしての存在意義を深めたものではないかと思う。



 盆の十三日というと、「新三郎は今日しも、盆の十三日なれば、精霊棚(しょうりょうだな)の支度などを致してしまい…」三遊亭圓朝『怪談牡丹灯籠』の一節がついと口を出る。
 私の歳時記は、子どもごころに覚えた昭和40年を中心とした当時の関東地方の習俗から成り立っている。水府の在にあった実家では旧盆の祭礼を行っていたが、旧幕時代からの江戸定府が無意識下の身上となっているのかは知らねども、親類で東京に居を移し仕事をしている者も多かったので、両盆遣い(?)なのである。
 そしてまた、私が最初に嫁いだ家は、昭和9年生まれのお姑さんがきちんと戦前からの東京の風俗で家庭を切り盛りしていたので、何も知らない学生のまま貰って頂いた私は、とてもいろいろなことを教わった。今でも有難く申し訳なく思う。
 
 寄席は都会の文化である。私がその雰囲気に身をもって浴していたのは昭和50年代から60年代の昭和の終わりであった。
 谷中の全生庵へ応挙の幽霊を拝観し圓朝のお墓参りに伺った折も、御命日ではなくお盆の時分だったのではなかったか…いや、お盆は施餓鬼で忙しく、お寺側が訪客に対応できないだろうから、やはり8月に伺ったものだったろうか……最早40年以前のことで、記憶がおぼろである。日本経済は最高潮となりバブル期を迎え、みな忙しく働いていた時代だったので、ゆかりもないお寺へ独りで詣り書画を観覧するという、時代の片隅で趣味に生きているような人間は居らず、私は思うが儘、全生庵の情緒にひと時を過ごした。ほとんど誰もいない境内の土と陽射しが白っぽかった。百日紅は咲いていただろうか。

 まだ梅雨の明けやらぬ7月初旬、姑は早起きをして下谷の朝顔市へ出掛けた。(そういえば四季折々の物見遊山、長命寺の桜餅、羽二重団子や言問団子…外出の度に名所旧跡のお土産を頂いた。ご隠居は次世代に文化を繋ぐ担い手であったのだ)
 谷中へ墓参がてら「谷中を売ってたのよ」と、土産物の谷中生姜を持ち帰る。たぶん私はそのときキョトンとしていた。父が晩酌に葉付き生姜に味噌をつけて肴にしていたその生姜を、谷中と呼ぶと初めて知ったのはそのときだったかも知れない。

 四万六千日の浅草寺のほうずき市は、押上の友達とよく出かけた。何かというと仲見世、六区界隈を練り歩いていた。だから、未だに昭和の浅草の街並みの匂いと取り留めもない景色の記憶が、私の頭を占領している。



 都内は、10日か11日ぐらいから、街なかのスーパーや百貨店、八百屋さんの店先に、お盆の季節商品である苧殻(おがら)や、苧殻と枝付きの酸漿(ほおづき)を束ねたものが並ぶ。いよいよお盆の支度である。
 7月11、12日は、精霊棚の飾り物である、草花類や作り物の朝市が戦前にはあったそうで、盆市とも草市とも呼ばれたらしい。
 (近年見られなくなったので事のついでに言及すると、植木市は、都内各所の公園でしょっちゅう行われていた。私がよく憶えているのは様変わりして見る影もないが、平成ヒトケタ時代の南池袋公園の植木市。グリーン大通り郵便局がまだ横丁にあって、現代風芝居小屋が連なる通りのお寺は藪の中に在った)

 草市(くさいち)という言葉は、ご存じよりの方々には長唄『都風流(みやこふうりゅう)』でお馴染みである。
 二十世紀版『吾妻八景』とでも申しましょうか、四季折々の東京の風物が景色とともに綴られている、錦絵のようなとても美しい曲。
 作詞者の久保田万太郎は、文学座の発起人である三人、岸田國士、岩田豊雄(獅子文六)のうちのひとりである。

 20代の時ほど新劇には肩入れしなくなっていた30代の私が、文学座友の会に入っていたことがあった。大河ドラマ『徳川慶喜』の時だった。気になった出演者のひとりが文学座所属だったので、アトリエ公演から本公演まで俄かに追っかけをした。しかし洋物のホンが多く、感情表現の起伏が激しく観るたび疲れてしまったので、足が遠のいてしまった。やはり私は太平楽な歌舞伎が性に合うのだ。
 たまたま観劇の折のアンケートに、〈上演を希望する戯曲〉という欄があったので、「大寺学校など、久保田万太郎の芝居」と書いたら、それがためばかりでもないと思うが、翌年、創設何周年かの記念公演で上演された。残念なことに見ずじまいだった。

 都風流は昭和22年の作品である。太平洋戦争で焦土と化した、喪われた東京の面影を偲んで作詞したものに違いない。
 今はもう、この世界に存在しないもの…への追慕は、創作意欲を駆り立てるものである。
 (そういえば、東京への集団就職というシステムが昭和の頃あったが、東京大空襲であまりにもたくさんの人命が失われて、本当に東京に都市機能を存続させるための人手が無くなってしまったので、誕生した仕組みなのである…という話を聞いたときは、怖ろしさに身の毛がよだち、吐き気がしたものだった。都市の歴史には悲しい記憶が沢山あるのだ。徒やおろそかに今の時代を生きてはいけないのだ)

 このところの東京も、第二次東京オリンピックで街並みがどんどん変わって…私は街角でしばしば立ちずさんで涙ぐむ。
 昭和39年の東京にも、もう一人の私が…同じ感情に涙ぐんだ人々がいたのだろう。(バックツゥザフューチャーの例えではありません)
 令和3年のお盆に、私は昭和の街並みを追悼する。



 さて、みどり丸たちが巣立ったので、次なる世話焼きの対象は檸檬の青い果実なのだった。



 せっかく実ったのを間引くのも忍びないので、臥龍梅に倣ってつっかえ棒をして、臥龍のレモンと洒落込もうと、今朝も新たな構想を抱きつつ枝ぶりを眺めていたら、なんと、新しい蕾がほころんでいた。



 お盆の朝に咲くとは、心がけのよい檸檬である。



【追記】
 ところで、前述の怪談牡丹灯籠、「…冴えわたる十三日の月を眺めていますと…」と続く。速記本が出たのが明治17年とのこと、やはり大圓朝自身は、旧暦の季節感が身に染みていたのだろうから、明治の御代になっても、江戸の暦で風物を、物語を描くのだろうなぁ…と思い馳せた。人間はどうしたって自分が実感できるものしか表現できない。いや、名作と呼ばれ幾星霜を経ても人々に愛される作品というものは、作者の実感を写したものである、ということか。
 その実感を共有して表現できる古典語りになりたいものである。
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君去りしのち

2021年07月06日 16時00分13秒 | 折々の情景
 グレーの梅雨空になじむように今年のアブラゼミが鳴き始めたのは昨日のこと。
 昼下りのベランダに出て、悄然とレモンの鉢を眺める。ビッグバンドに憧れて、タップを踏みながらクラリネットを吹く寄席芸人を目指していたのは昭和60年ぐらいのことだったか。

 習いに通っていた吉祥寺の丸石楽器も今はもうない。サンロード向かいにあったバウスシアターももう無い。クローゼ・クラリネット教本から始めて、ジャズのスタンダードナンバーをやりたいんです、という私のわがままを聞いてくださった本田先生は今はどうしていらっしゃるだろう。



 昨春から介護施設に入所したまま、コロナ禍に見舞われ帰宅も面接もままならぬ母が飲みたいらしい“大人のカルピス(以前は珈琲が好きだったのに、苦いからイヤと、介護スタッフの皆さまのお手を煩わせているらしい…)”を届けがてら、五日市街道沿いに、コーナンプロ店を発見した私は、ようやく、懸案の蛹化用ゲージを工作するべく、材料を調達した。先週の金曜日のことである。



 何かと気落ちすることの多い令和3年度、旧暦の五月五日も過ぎようというある日、レモンの葉陰に幼虫を発見。意気揚々と朝な夕なにたゆみなく観察を続けた。
 


 その数日後には二匹目の幼虫を発見し、我が世の春…いや、夏なのであるが、青虫たちがバリバリと葉を食む音を聞いていると心が安らいだ。
 ミス・マープルの『書斎の死体』で、屋形の持ち主である退役軍人が、人に悟られぬよう、猟銃を持って猟場ではなく家畜の飼育小屋に行き、豚たちが無心に餌を食べる様子を見て傷心を癒やす気持ちが、今の私にはとてもよく分かった。



 何齢目か、みどり丸(今年の幼虫の名前)の身長を測ったところ4,5㎝に育っていた。
 …そろそろではなかろうか、一昨年、二十数匹の食客を育てた私には、何となく直感するものがあった。彼らはサナギになる日が近づくと、突然、旅に出る。
 それまで全く知らなかったが、蛹化近い幼虫は、もの凄く歩き回る…いや這い回るのである。
 生まれ育った檸檬の樹で大人しくサナギになり、羽化してアゲハチョウの成虫になるのだとばかり思っていたが、令和元年のベランダ栽培でアゲハチョウの幼虫の生態をつぶさに眺めていた私には、分かるのである。



 土曜日の朝、みどり丸の身長が3,5㎝に縮んで、私は気が気ではなかった。いよいよサナギになるのである。彼が旅立つ前に、行方知れずになる前に、何とかゲージを完成させなくてはならない。
 …というのは、蛹化から羽化への変態の感激を味わいたいこともあるに違いないが、妙なところへ這い出して、不測の事故に遭わせたくない、という親心もあるからなのである。
 (一昨年、足元をよく見ずにベランダへ踏み出したサンダルの下で、むぎゅ…という奇妙な感触を得た私のトラウマは、誰にも話したくない)
 ベランダからフローリングの室内まで嬉しそうに匍匐前進していたつわものの姿を想い出す。彼のサナギからは、羽化すると思われた日に、まったく違う物体が蠢き出した。
 令和元年、我が檸檬樹の二十数匹の食客のうち、無事羽化に至った幼虫は十三匹であった。
 自然界は厳しいのだ。
 ホームセンターで入手した材料を並べて写真に撮って、出来ますものは…などと解説している場合ではなかった。
 虫が知らせる胸騒ぎがしていた。青虫のことを考えると気が気ではなかった。酢牡蠣ではなく気が気ではないのだ。



 ひる前に、簡略ながら鉢のまわりに囲いが出来て、何となく安心したものの、お八つ前に様子を見に行ったら、あろうことか、ゲージは何故かバラバラになり、みどり丸1号は、姿を消していた。
 決して広くはないベランダのあちこち、キャビネットの裏表、エアコンの室外機の内外まで探し回ったが、幼虫の行方は杳として知れなかった。

 

 失意の私にはしかし、みどり丸(弟)が控えていて、そうだ、もっときちんとした蛹化ゲージをつくろう、と、週明けの昨日、ご近所の日用品量販店にて、シーズン用品、網戸の網を安価で手に入れた。
 みどり丸は檸檬樹を蚕食するのに余念がない。

 さて、まだ大丈夫かなぁ…と、火曜日の朝、みどり丸の大人しい様子に油断した私は、所用に専心した。昼も過ぎておやつの時間になろうというひと時、ふとベランダに出て見てみると、既にみどり丸の姿が消えていた。
 「迷子の迷子のみどり丸やーい!…」

 鉦や太鼓で探しに出たい心持ちで、再び私は悄然とベランダに立ちずさんだ。
 そうして当家には、網戸の網の筒状のパッケージが残された。
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