長唄三味線/杵屋徳桜の「お稽古のツボ」

三味線の音色にのせて、
主に東経140度北緯36度付近での
来たりし空、去り行く風…etc.を紡ぎます。

霜夜の月

2010年12月26日 03時20分00秒 | お稽古
 西條八十が幻想した、峠から落とした麦わら帽子が露に濡れて、コオロギがその陰でちろちろと鳴いていた季節も過ぎ、秋の虫はことごとく息絶えて、地上が白い大気に覆われるころ。
 「砧打つ」という言葉をご存じだろうか。

 東京都世田谷区砧に住んでいた学生時代の友人は、近所の横溝正史のお孫さんと幼馴染だったそうである。お爺さんの書斎でよく遊んでいて「あのころゴミ籠の中から書き損じの原稿用紙でも貰ってくれば今頃は左団扇だったのに…」と、本当に残念そうに頭を抱えながら述懐するので、私はその心根をたしなめるより、いっそ気の毒に感じたものだった。
 人間、『バック・ツウ・ザ・フューチャー』みたいには、なかなか、出来ないものである。

 民俗学の柳田国男の『木綿以前のこと』という本がある。現代では、コットンは衣料の最たるもののようになっているのだけれど、綿というのは南方にしか育たない。木綿が日本で普及したのは江戸の中期以降で、それ以前、庶民の衣服は麻で拵えていたのが主流だった。
 夏から秋、そして冬。四季はめぐり、再び、衣更え。麻は繊維がしっかりしているから、それで衣を、石の台、つまり砧に載せて、杵のようなものでトントントン…と打つ。硬いものでも柔らこう。
 その音が、秋の夜長の、静寂が支配する夜寒の虚空にこだまする。秋の虫が死に絶えてのち、冬の野山に響くのは鳥の声ぐらいしかないように思う。しかし、まだまだ、日本の風物は、四季折々に控えているのだ。

 長唄に『小鍛冶』という、小品ながらもすっきりとまとまった名曲がある。
 数年前まで神田駅近く、昔の名前でいえば神田鍛冶町に「小鍛冶」という洋菓子屋さん兼喫茶店があって、お稽古するたびに弟子に喧伝していた。
 この『小鍛冶』は、謡曲『小鍛冶』のストーリーをもとにつくられた歌舞伎舞踊である。三条小鍛冶宗近が、名刀を奉ずるように勅命を受けるが、相槌を打てるものがいない。稲荷大明神の力を得て、みごと名刀・小狐丸を鍛え上げるという筋だ。 
 日本において刀というものは、ただの武器ではない。もっと精神性を象徴するもので、刀鍛冶が刀を鍛えるときは精進潔斎して、全身全霊をかけて刀を打つ。

 私がこの曲をとくに讃えたいのは、お稲荷さんの神霊が現れて刀を鍛える、相槌の拍子の合方のあとの、クドキの部分。歌詞が絶妙にすばらしいのである。

♪打つという それは夜寒(よさむ)の 麻衣(あさごろも) をちの砧も音添えて 打つやうつつの宇津の山 鄙(ひな)も都も秋更けて 降るや時雨(しぐれ)の初紅葉(はつもみじ) 焦がるる色を金床(かなどこ)に…
 
 私の脳裏には、鍛冶場の室内から情景は一転して、パンした冬枯れの里が浮かぶ。ここでくだんの砧の出番。
 宗近が刀を打っていると、その鎚音に呼応するかのように、遠くから、やはり夜っぴいて仕事をしているのであろう、砧の音が聞こえてくる。一心不乱に打っていると、夢ともうつつともつかぬ忘我の境地に陥ってゆく。
 田舎も都も秋更けて、折からの時雨が紅葉に降りかかる。そのさまは、金床に置いて鍛錬している、真っ赤に焼けた刀身に似ている。

 なんて美しい歌詞だろう。緋色の紅葉と燃える刀、そして時雨の雨つぶと、工房に充満する湯気と水滴。
 天空が一切の雑念を凌駕して、ただひたすら打つという作業から、何ものかを生みだそうと没頭する男に、砧の音としぐれる紅葉は、一人じゃないのだと同調する声援を、密かに寄せているかのようなのだ。
 私は、ついうっかりすると、この部分を唄いながら、涙ぐむことがある。
 日本の文化の発想と表現の、なんと多元的で豊かなことか。

♪焼き刃渡しは陰陽和合 露にも濡れて薄紅葉(うすもみじ) 染めて色増す金色(かないろ)は 霜夜(しもよ)の月と 澄みまさる…

 焼きを入れて、いよいよ刀身は青白い光を放つ。霜月の夜空に浮かぶ澄みきった月のように。
 そして、精魂こめて見事打ち上がった名刀を、刀工は月の光にかざして、惚れ惚れと見つめるのだ。
 そのときの月は、下弦でなくてはならない。
 夜を込めて鍛え上げたからには、傾くまでの月を観るかな…宵のうちに地平に姿を消す、三日月や満月であってはならないのだ。
 しんしんと夜が更けて、空の底が明らむちょっと前の、暁の匂いが風に乗ってくるけれども、まだ夜明け前の、そんな西の空に浮かぶ下弦の月。

 昭和の、私が生まれ育った北関東の、海に近い田舎町では、クリスマスの夜はとても寒くて、でも晴れていて、空の星々は凍てつくように輝いていた。
 群青色の夜空に、青白く鏤められた星たち。見つめていると、とても厳かな神々しい気持ちに満たされた。身も心も清められたように思えて、ただただ、星の煌めくのを眺めていた。

 太陽暦では聖誕節だが、太陰太陽暦では霜月廿日の今年のこよみ。
 そんなふうに、霜月の、凍てつく夜空のもとでは、西の国では天子が降臨して、極東では名刀が生まれる。
 
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

伊賀越え(改題・三大仇討③)

2010年12月22日 02時00分00秒 | やたらと映画
 「講釈師、観てきたようなウソをつき」と申します。
 知人は、大正生まれのご母堂から、講談だけは聴いてくれるな、と、小さいときから固く戒められたそうである。しかし、母君自身、お芝居や映画が大好きで、劇場によく連れていってくれたそうだから、もはや手遅れである。
 たぶん、芝居や映画だと、見た目虚構の世界、というのは子ども心にも分かるけれど、釈台の前に座った黒紋付の、立派ななりをして威厳に満ち溢れた講釈師の先生が、張り扇からひねり出す歴史上の人物のもっともらしいお話のあれこれは、説得力があるだけに、子どもに真贋を見極めるのは難しい、本当だと思い込まれたら、歴史の成績は無茶苦茶になってしまう…と、心配なさってのことだったのかもしれない。
 10年ほど前、歴史・時代小説の編集部にいた別の知人によれば、そういう巷談の俗説をシンから本当のことと思い込んで、テレビドラマや小説に、真剣に抗議文書…クレームやらものいいやらつけてくる人々がいて、…いや、まったく、本当に難儀しましたョ…ということだった。
 正史でさえ、のちの権力者によって真実が書き換えられている場合が多いから、みなさん、史料を研究するとき、時代考証に難癖をつけたい気分になっているときは、ご注意なさってくださいませ。
 …今はでも、そういう時代劇上の巷談・通説ですら、ご存知のお年寄りも、この地上には少なくなりましたけれども。

 さて、またもや十日の菊、遅かりし由良之助的所業に及んでしまうのだが、先々週の日曜日は旧暦の霜月七日だった。
 今からざっと380年ほど前、江戸初期の寛永十一年十一月七日、家光が三代将軍となって11年目、西暦でいえば1634年、伊賀は上野の西の口、鍵屋の辻で、仇討があった。
 俗にいう、伊賀越えの仇討、講談調にいえば、荒木又右衛門・三十六番(人)斬り。
 三大仇討、一富士、二タカ、三がこの、伊賀越えの仇討である(一、二の説明は本ブログ5月28日付の「日本三大仇討①」をご参照いただけますれば幸甚)。
 それはなぜかと申しまするに、副主人公の渡辺数馬の家紋が渡辺星(一文字の上に三つ星が載っているデザイン)であるから、という…これも昔仕入れた講談師からの入れ知恵だから、ホントかどうかは知りません。

 「伊賀越え」というと戦国マニアには、本能寺の変のときに、堺で遊んでいた徳川家康が逃避行の伊賀越えを想い出す方も多いかもしれない。
 家康の場合は、茨木から宇治田原を経て裏白峠を越えて信楽を通り、亀山に抜けるというルートだったそうだから、又右衛門のルートとは違う。いわば北ウィングとでも申しましょうか。
 又右衛門・数馬の仇討一行は、大和郡山、奈良を出立して木津、加茂、笠置、島ヶ原そして伊賀上野という、途中から今ある関西本線と同じ、最短距離のルートを進んだ。

 かたき討ちには幾つかのルールがある。血縁上、目上の者は目下の者のかたきを討てない。つまり、父が子のかたきを、また兄は弟のかたきを討てないのだが、この備前岡山藩家中に出来した、渡辺数馬の弟が、同僚の河合又五郎に殺傷された事件。藩侯・池田の殿様の強い要望があって、上意討ちのお墨付きを戴き、数馬の姉婿、つまり義理の兄である荒木又右衛門の助太刀を得て、かたき討ちが叶うことになるのだ。
 そしてこのかたき討ちは、かたきである又五郎の親族縁者が幕府の重臣であったことから、大名である池田家vs江戸幕府の旗本…という周囲を巻き込んで、討つか討たれるかのしのぎ合いという、大がかりな構図へと移っていく。

 お芝居ができたのは仇討から150年ほど経った天明年間の『伊賀越道中双六』で、現代では、外伝であるサブキャラの苦労譚「沼津」がよく上演される。当世の文楽では、住大夫・錦糸の決定版。歌舞伎では、昭和50年前後ごろまでは、道中に見立てて、客席に入って役者が歩き回る趣向が好評で、よくかかったらしい。
 この仇討の物語の本筋は、長谷川伸が昭和10年に新国劇のために書き下ろして、のちに新聞小説で連載された『荒木又右衛門』を基にした時代劇映画『伊賀の水月』で観たほうが、分かりやすいと思う。剣戟の醍醐味である殺陣は、チャンバラ映画の独壇場だ。
 人情に重きを置いた「沼津」とはまた違い、人は自分の置かれた立場においていかにその任務を遂行すべきか、という理性のドラマになっているのだ。

 「ここであったが盲亀の浮木優曇華の花、艱難辛苦はいかばかり、いざ尋常に勝負、勝負!」
 敵に偶然にも天下の大道でめぐり会うことは、まずない。仇討映画はロードムービーだ。めざすかたきの行方はいずこ。数馬の道中は岡山から江戸、そして大和郡山、京都さらに有馬温泉へと及び、又五郎の所在を突き止めるだけで5年の月日が流れていた。
 その間、池田家も備前から因幡に国替えになった。自分の墓前に又五郎の首を供えよ…と言い残して、池田の殿様は帰らぬ人となっていた。

 20歳前後に名画座で観た…大井武蔵野館だったか、建て替える前の文芸坐だったか、それとも竹橋に間借りしていたころのフィルムセンターだったのか…いや、待てよ、三鷹オスカーだったかもしれない…とにかく、私の記憶の中のセピアカラーの映像では、渡辺数馬が、又右衛門に「討ちました…!」と一言いいざま、わああぁぁっつ…と号泣する。
 その慟哭に、映画館の暗がりの中で、もらい泣きした。
 30代になってから、初々しいそのシーンをもう一度観たくて、ただ、数多い映画化作品のどの『伊賀の水月』だったのかが想い出せなくて、鍵屋の辻がらみの映画を何本も観てしまったが、どれもそういう演出ではなかった。資料から推し量るに、又右衛門がバンツマの、戦前の池田富保監督作品らしいのだった。そして数馬役は滝口新太郎。戦前に青春スターとして人気のあった俳優である。

 滝口新太郎は、戦時中満州に応召されて、そしてそのまま帰らなかった。
 日本国内では戦死したものと思われていたが、シベリア抑留中も艱難辛苦を乗り越えて生き延び、そのまま、ソ連邦で晩年を過ごした。彼が骨になって日本に戻ってきたのは、ソ連でめぐり会って結婚した、同邦の女優の手によってだった。
 その女優というのは、戦前、国境を越えてソビエトに亡命した岡田嘉子である。
 岡田嘉子は戦後、昭和50年前後だったろうか、一時期日本に帰国して、その波乱の人生が話題となり、時の人となった。彼女は、共演した男優と駆け落ちして、昭和初期の芸能界を騒がせて、さらに演出家とソ連に亡命したのだ。このとき同道していた演出家はスパイ容疑で処刑された。
 岡田はソビエトの労働者となり、やがてめぐり会って11歳年下の滝口と結婚する。それだけでも、すでに女流講談ネタだが、女冥利に尽きる人生だ。

 かように、講釈師の口から聴く渡辺数馬の話よりもさらに、私が散見する資料でうかがい知った滝口新太郎の生涯は、波乱に満ちていた。
 滝口新太郎と岡田嘉子の、シベリアの水月。…どのような幾星霜であったろう。

 伊賀上野の鍵屋の辻。私が初めて訪れたのは平成初年頃で、伊賀上野城も今ほどに整備されていなかったが、さすが、藤堂高虎が築城しただけあって、本当に美しい城だった。
 石垣が何しろ、美しい。濠の水面から絶妙な角度で屹立する石垣の、あの曲線美は、コカコーラの瓶とはまた違った、硬派な曲線の美だ。伊賀上野の城下には、この20年間に、数回行っている。
 そしてまた、大和郡山へも、アジサイで有名な矢田寺行も含めて、3回以上行っている。

 こう書き進んできたが、先に述べた三者三様の人生譚だけでなく、私自身の歴史紀行・伊賀越え道中の話も絡んでくるので、一日分の日記とするには収拾がつかない。
 「さてさて、これからが面白い、これからが山場なのですが……この続きは明晩!」
 人生は短いようで長く、長いようで短い。おのおのの人生を、さて、なんと言うたらよかろやら。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

白いネギ

2010年12月05日 14時40分00秒 | きもの歳時記
 「先生、神無月は今日で終わりだよ」と、若草山の鹿ではなく、濃い紫地の塩瀬の帯の鹿が、私に語りかける。
 遠山に一もとの紅葉。「もみじ踏みわけ啼く鹿の…」古歌を思い起こす二頭の鹿が描かれたこの帯は、海老茶の小紋に合わせて、よく、11月の顔見世観劇の際に締めていたものだが、今年は出番がなかった。

 もう3年ほど前になるだろうか。万城目学の『鹿男あをによし』がテレビドラマ化されて、新作の小説は、前世紀末に出現した『くっすん大黒』などの町田康以降、全然読んでいなかった私が、一挙に万城目ワールドに惹かれ、『鴨川ホルモー』が映画化されたころには、寡作の万城目作品を全部読み尽くしてしまった。
 爆笑、やがて悲しき…という感じでもない、人情の機微をすくい上げた泣き笑いが同居する、何ともいえずチャーミングな世界が、読む者の心をとらえる。

 万城目も町田も大阪の人間だ。
 そういえば、もう十数年以前の三十代前半のころ、大正から昭和初期の小説をむさぼるように読んでいたとき、上司小剣や水上滝太郎の、大阪を舞台にした小説がとても面白かった。

 ちょうどそのころ、大阪出身の友人が結婚することになり、ご実家に戻ることになった。彼女は私のようなデラシネとは全く違う、たしかご両親とも大阪に本社がある財閥系会社の勤め人で、ご両親の本家は船場にあるという話だった。
 船場……。いかな世間知らずの私でも、その地名は、大谷崎の『細雪』や、花登筐の浪花商人ど根性もののテレビドラマ群で、子どものころからよく知っている。
 ことさら他人に対して詮索癖の無い私は、詳しいことは聴かずじまいだったが、幼少のころ彼女は、学校から帰ると、きものに着替えて近所の友達と遊んでいたらしい。

 思えば、私が日々着物を着て暮らす生活に強い憧憬の念を抱いたきっかけというのは、子どものころから茶の間に常にあった、そういうベタな時代劇からではなかった。
 高校生のころ、幕末の志士に憧れて、月代を長く伸ばしたざんばらの着流し姿の浪人者のイラストを数多く手すさびに描いたりもしていたが、なんといってもその直接的銃爪は、学生時代に観た大林宣彦監督の『ねらわれた学園』だったのである。

 たしか、主役の薬師丸ひろ子が、学校から帰宅すると制服から着物に着替えて生活していたという設定だった。それがなぜか、十代終わりの私の心に強く刻みつけられたのだ。
 …これだ! この方法なら、半農半漁ならぬ、半洋半邦生活が実践できるはずだ!!



 余談はさておき、そんなわけで彼女は、大阪に帰る前に江戸をよく見ておきたい、ということで、私にいろいろ案内してもらえないか、と言うのだった。
 昭和60年ごろから一人で歴史散策をしてきたから、腕(?)に覚えのある私はとても嬉しかった。
 そんなわけで、平成ひとケタの都下を、数回に分けて、休日のたび、案内した。そして一人ではあまり行かない、老舗の鍋料理などを出す店へも、何軒か訪れた。

 ある日、上野から谷根千界隈を歩いていたときのことである。
 上野の広小路の裏のほう、ほとんど池之端に近いあたりに、とり栄という鳥鍋屋があった。今でも存続しているだろうか。
 まだ本牧亭があったころだったか、当時仲良くして下さった噺家さんに連れられて伺ったことがあって、そのときの美味しさと、店先に柳が植わっている一軒家の風情が忘れられず、ぜひとも彼女にも味わってほしいと思った。
 しかし、予約が取れないので有名な店であった。私はドキドキしながら、アメ横の路地の商家の軒先のピンク色の公衆電話(まだ携帯など普及していない、緊急連絡はポケベルを鳴らしていた時代だった)で、電話をかけてみた。
 すると、なんと奇跡的なことに、今夜はまったく差し支えなく、おいで下さい、ということなのだった。

 私は雀躍して、彼女を案内した。ぎしぎしと階段を鳴らしながら二階の座敷へ上がった。
 炭のよく熾った匂い、円形の鍋から淡くのぼり立つ白い湯気。
 つやつやと輝くかしわ肉。そしてまた、みずみずしく円柱形に切られた白い長葱。
 うっとりとしている私に、彼女は遠慮がちに告げた。
 「ごめんなさい、私、白いネギ、食べられないんです」
 ええぇぇえっっつ!! 
 そういえば、常日頃、蕎麦屋で黒いつゆがどうしても不気味で食べられないと言っていたことがあった。
 そりゃー、可哀想なことをした…。この鳥鍋は白いネギだからこそ、オイシイのだ。
 そしてまた切ないことに、本当に鶏肉と白ネギだけの、東京の下町式の鍋なのだった。

 その時ハッと、京都出身の別の知人のことを想い出した。たしか彼女も関東へ来て初めて白いネギが食用とされてある、というのを知って驚愕した、と話していた。
 関西ではネギは青いのだ。

 せめて鶏肉をたっぷり食べてね…と、私は彼女のほうへカシワを寄せた。
 行儀のいい彼女は、湯気の向こうでにっこりほほ笑んだ。

 もう十数年前のことになるが、鍋の美味しい季節になると、白い湯気に目をぱちぱちさせながら想い出す、ちょっと心の痛む関東者の話である。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする